神宮橋に背を持たしてアノン達がカラフルな頭を並べていた。ミドリは欄干の上に座って、アカは地面にあぐらをかいて、アノンは立ったまま背を持たせて棒のついたアメをくわえてる。他のスフィアや路上バンドみたいなのも数多くいるけど、ことさら多くの見物人達がアノンの前にたむろっていた。大げさなカメラを抱えた人や、携帯を持ったまだ十代の若い学生達がレンズを向けている。
「…いっぱいいますね」
アカは少し気後れする。
「ショーウィンドウに並べられてずっと笑ってたいよ。あ、雑誌の人だ。こんにちは」とアノンはまるで動じてない。
「アノンちゃん、自分の名前で歌手デビューする気ないの?」
見物人達をかき分けて入ってきたのは、いつもの雑誌『ベント』の女の人。
「ないよ?私はマキーナの端末でしかないから」
「だからよ。自分自身を表現したくならない?」
「はは、そういうのよく分からないよ」
アノンが周りを見渡すと、色とりどりに着飾った人達がまるで巡礼者みたいに見えた。ここはもうひとつの聖地になった。デウ・エクス・マキーナに魅せられた人達が足を向けて、そして祝ってくれてる。ああこの中に埋もれて人の波に押し流され透明になって私を支えてるこの心の現象を終わりにしたい。
「あっオトナだ」とミドリがつぶやく。
人ごみの間から覗くと遠くの方から横一列に並んだ制服姿の警備員たちがこちらに向かってくるのが見えた。それがハチの集団が波打つように伝わると、ざわざわと騒ぎが起こる。急いで置いてある荷物を手に取って、こうなるとめんどくさいからみんな散り散りになって逃げてしまう。
「さあ行こ」
そう言って私はアカの手を取る。
「じゃあ、またね!」
そう言って私達はさっきまで馴染んだ風景を後にする。
「今度、いつ!?」
誰かが後ろから大声で呼びかける。
「分かんない!でも、会えるといいね!」
「最近ちょっと多くないですか?」
走りながら息を切らせてアカが言う。
「確かにね。ちょっと変だよね…」
近頃は特に取締りが厳しくなって来てる。それも初めから知ってたみたいにみんなが集ったところですぐにやってくる。その疑いもまだ言葉で定義できるほどははっきりと意識には上ってきていなかった。大人達を巻くと、スフィアの仲間たちも数人私達と一緒に人通りのある通りまで歩いている。奇抜なファッションばかりが目につくこの場所でも私達はひときわ目立っていた。
「…どうします?」アカがアノンに聞く。
「ま、解散でいいんじゃない?」とミドリが言う
「アノンは?」
「うーん…」
アノンがアイディアでも探すように辺りを見渡すと、ふと人ごみに紛れて一瞬、砂漠の中から宝石を見つけた時みたいに小さく見えた人の顔が目に止まった。
「…イナギ?」
「え?イナギ?イナギがどうしたの?」
「ううん、なんでもない」
アノンは自分でも分かるくらいちぐはぐな笑いを浮かべた。
「イナギと初めて会ったのがここだったなって…」
アノン遠巻きからもう一度同じ場所に目をやったが、そこには既に誰も立ってはいなかった。そこの空間が人型に切り抜かれてなくなったようにも思えた。
確かに私はイナギを見たんだ。やっぱりイナギは生きてる。 息を潜めてどこかで私達を見てるんだ。イナギ、また私を殺しに来たの?そしたら次で三度目になるんだ。
夕方、部活動を終えた帰りらしい制服姿の女子高生達とすれ違ってるとアキラの心は疼く。ここの大学の付属の高校に通ってる娘たちだ。あの歳に奏することすら許されなかった自分と比べてしまって、羨望と嫉妬の入り混じった不思議な感情が両肩をそばだたせる。イチョウ並木の先にあるその大学はシルシたちの学校とのダブルスクール組のアキラにとってもう一つの馴染みのある風景だ。
校門をくぐるとすぐにその場に似つかわしくない近代的な造りの図書館が見えてくる。ガラスの自動ドアをくぐってエントランスでスロットにカードをくぐらせて中に入る。目的の場所には、新聞の年鑑がある。日付は20○○年、2月11日の翌日の記事。その前日の夜23時23分は、『あの事故』があった時刻。アキラは十センチ近くの厚さの蔵書ばかり、全国紙、地方紙を問わずとにかく探している日付が含まれている年鑑を何回かに分けて近くの四人がけの机に積んでいった。それから、椅子に座ってその山を崩すように一冊ずつ当時の記事を一ページずつ丁寧に目を通してめくっていく。アキラはその一ページごとに胸が少しだけ高鳴るのを感じた。シルシに力を貸したいなら、もっと早いうちに一度はこんなことをしておくべきだったかもしれない。この事実からアキラも逃げていたのかもしれないと気づく。
そのうち、日は暮れて、夜になった。そしてアキラは見つけた。探していたのはとある地方紙の端記事。それはシルシの周知活動のビラに使われていたものとよく似ている。でも違う。その違い様はアキラの思った通りに登場人物が少し違っていた。それに元の記事には少しだけ続きがあった。
トトがモノに連れられてきたのはカラーセラピー『アミダラ』。地下へ続く打ちっぱなしの階段を下りて分厚い防音扉を押し開けると、薄暗いバーになっている。白い大きなカプセルの上半分を斜めに切り取ったような変な形の一人用のソファが並んでる。大仰なゴーグルをはめて寝そべっている本多をトトは隣から少しあきれて眺めていた。そのゴーグルの中では気分に合わせて色んな模様や色が広がる仕組みらしい。
「…面白いところだね」トトは手持ち無沙汰にそう言った。
「…まあ、これを見ろよ」
モノが差し出した雑誌の表紙には『ベル・メカニック』とそう書いてある。トトは怪訝そうな顔をしながら受け取ると、数ページめくって眺めてみる。
「『デウ・エクス・マキーナ・プロジェクションのデザイナーがついに出現!』だって」
写真を見ると、灰色に染めた髪に無精髭を蓄え、目はトカゲを思わせるコンタクト・レンズを入れてる男が写っていた。脇にいる女性はゴシック調のドレスに身を包み黒い髪をマキーナと同じに結んで、車椅子に座っている。『長い沈黙を破って、今、全てを話そう』そんな見出しが踊ってる。
「…この人達が本当にそうなの?」
「イナギとヨミは自分たちを真似たって言ってるらしいぜ?『委員会』が仕掛けてきたんだろ?どこで拾ってきたやつらか知らないけど…」
「マキーナってそういうんじゃないって聞いたけど…」
「よく見ろよ、デウ・エクス・マキーナのロゴの隅に○Cがついてる。以前はなかったのにいつの間にかついてる。最近じゃあスフィア界隈でも噂になってる。後ろで絡んでるのが結構黒いんだよ。デウ・エクスのイベントのチケット売り上げもかなりの部分が架空でマネー・ロンダリングに使われてるって…」
「わたし、モノくんのやってることちょっと怖いな…」
「ああ、俺もゾクゾクしてる」
白くて長いモノの首筋に『002』と刺青で番号の振ってあるのが覗いた。
「ねえ、その番号って何の意味があるの?」
そう聞くトトに本多は仰向けのまま口だけを動かしてる。
「いいだろ?製造番号だよ。マキーナにも同じ場所にあるの見たことあるだろ?」
「あるけど…」
「マキーナってアンドロイドだろ?でもその数字は01なんだ。これは解釈が分かれてる。試作品の『000』があったのかって話。それに番号があるってことは後継機も作られるのが前提だったのかもしれないんだ。そのキャラクター達もこぞってスフィア化されてだんだんと像を結んでる。まだ完全にフォーカスされてないから、ディテールはバラバラだけどね。この『002』はマキーナと対になった男性型アイドロイド、マキーノ」
「ふうん。そういうのって誰が考えるの?」
「それがスフィアさ。自然と生まれるんだよ。スフィアっていうのはそれぞれの端末、つまり俺達みたいなファンからフィードバックして展開してくんだ。それがあのイナギの事故以降どんどん加速して行ってる。いつかこれがマキーナの物語に組み込まれる。それで俺は気づいたんだ。なんでここまでデウ・エクス・マキーナがブームになったのか。それにはこの背後に恐ろしく大きなものが蠢いているからなんだ。その最初の『ゆらぎ』に気づいたのがイナギだったんだ」
「でも、もうイナギは…」
「…ああ。ただ、イナギの一連の狂った行動には深い意味がある。覗き込んでも底がまるで見えない深い深い謎が横たわってる。むしろ、知ってしまったから、その層までアクセスしたからああなったんだ。この一番深い層(レイヤー)にはまだアノンも行き着いていない。でもな、トト、俺はそれをもうすぐ手に入れられそうなんだ」
「…どういうこと?」
「いつか分かるさ。お前にもみんなにも…ただ、もうどうでもいいみたい。オリジネイターが誰かなんて。回り始めた地球ならもう住む人はそのことを深く考えたりしないんだ」
「何かの事実を物語に起こったことだって話は信じてる?」
「さあね。ただ、そう信じさせたい人はいたんだろ?真似してビラ配りまでしていた人の話はよくしてる。だからイナギは殺そうとしたんだろ。そういう話さ」
「…先輩は嘘なんかついてない!」
思わずトトは声を荒らげると、モノはゴーグルを外して前髪をいじりながら皮肉っぽく笑った。
「まあそういきるなよ。…ただね、スフィア界隈で妙な噂が広まってる。シルシってやつは嘘つきだって…ビラまで配ってやってるあの事故も全部嘘だって」
「…そんな…」
「…イナギが触れた最下層のレイヤー、この物語のオリジナルに関わってることさ」
「…帰る」
トトはうつむいたままその場に立ち上がる。
「今は辛くてもいつか分かるさ。シルシのことも俺のことも」
トトはそれには答えずに足早に店を後にした。
とあるオリジナル・シンのメンバーの証言
‐オリジナル・シンのアソシエイトの間で妙な刺青を入れるのが最近流行ってる。ちょうど丸首のシャツの襟に隠れるくらいの位置の首筋に入れるんだ。デザインは色々なタイプがあって、まるで首輪のように数字の羅列を並べてるのもいるし、ただ首の片側に二桁の数字をワンポイントで入れてるやつもいる。マキーナのデザインから影響されたって話だけど、本当のところはどうかな?どうも、アイツらの言うマキーナとあのアイドロイドとはもう別のものを言ってる気がするね…
スクリーンに灯が点くとアノンがそこに現れた。
「みんな端末化して!」
そう言って叫ぶのは軍服姿のアノン。メイクからそれがマキーナなのは分かる。
「ほらほら、スクランブル交差点を歩いているみんな、注目!今日はアノンからのとっても大事なお知らせ。なんとみんなマキーナになれちゃう一大イベントの企画が進行中!その名も『管理-kanri-』!ここ、街中のクラブでマキーナ・ソングをオールナイトで流しちゃうよ。なんとデウ・エクス・マキーナのキャラクターたちを端末化した人はフリーで参加オーケー!それからプロデューサーの人達も楽曲を提供してくれたらどんどんかけちゃうからね。オーディエンスさんたちのリクエストも受け付けてるから、詳しくはマキーナの公式サイトをチェックしてね!」
僕は片手にビラを持ったままその場に立ち尽くしていた。さっきまで家で一緒にいた女の子が巨大スクリーンに映っている。僕もあそこに移って『周知活動』すれば少しは成果も上がるんだろうか?そんな馬鹿なことを考えたりもした。まるで絶望した人のように見上げた視線をさらに上げて天を仰ぐと曇り空から小さな白い雪の粒が舞って落ち始めているのに僕は気づいた。
「…新しい機械。それは柔らかくて温かくて、私達によく似てる…」
画面の向こうのアノンは最後にそうつぶやいた。
聖地。イナギとヨミが死んだって言われてる偽りの聖地。でも私は知ってる。本当はそうじゃない。でも、みんなが信じたいことの意味は大事。
私といつものスフィアのメンバーは床に座って輪になって写真の切り抜きを作ってる。ここはミヤコアトリエ。ガタガタと鳴るミシンを響かせて、揺れる長い髪を一つにしてる女の人の背中が見える。スフィアの衣装もそのほとんどを作ってくれてる。その代わりに私達はミヤコさんが店員をやってる服屋の飾りを作ってあげる。ミヤコさんに一度聞いたことがある。手間をかけて作ってもらってるのにこんなお礼だけでいいの?と。そうしたらミヤコさんはこう答えた。『君達の普段着ている服は海の向こうの貧しい少女の皮でできてるんだからこっちの方がずっとましだよ』って。
「モノ、最近見ないけどどうしてるんでしょう?」私の隣にいたアカが聞いた。
「いや俺も知らない。けど、イナギの秘密が分かったとか言って色々動いてるみたい」
私はその言葉に少しどきりとした。
「モノは実はイナギの信奉者だったんだよ。そうは見えなかったけどね」
もう一方の私の隣にいるのはミドリ。
「…ねえ、みんなイナギがオリジネイターだと思ってるの?」私は聞いた。
「もうそれは関係ないんだ。俺達は別に人類史上初めて中指を立てた人間に敬意を持ってないぜ?」他のメンバーがそう言う。
「でもソースは大切だよ。いつまでたったってそれはマンデルブロのように自己相似的にしか広がらない」ミドリがつぶやいた。
「なら全体がどうなるかもう少し見てみようよ。そこにモノが探してる答えもあるかも」
「アノンはどう思うの?それでいいの?」
「私の意見は今でも同じ。イナギはオリジネイターじゃない。でも、マンデルブロっていうのは素敵。神様って眼に見えないでしょ?だから私みたいな人がいる。マキーナを形にしてる。それが端末化。だからみんななれるの。それがマキーナの何かを表してるってことだとしたら、ヒントが私の中にも生まれるってことだよね」私はミドリにそう言った。
「とにかくでかくすることさ。スフィアやデウ・エクス・マキーナの世界を…」
「ああ、そうだな。アノンにはみんな期待してるんだ。みんなを乗せて遠くまで連れって行ってくれたんだから」
「はは。そうかな…」そう言って私は笑った。
あれは聖地じゃない。ここは偽りだ。本当はあそこだ。初めの『ゆらぎ』のあったあの場所。待っててヨミ、私本当のマキーナを見つけるから。
「ほら、できた!」
ミヤコが私達の眼の前に広げたオートクチュールは少しきわどい軍服風の衣装だった。
時々、ヨミは僕の部屋で一日を過ごすことがあった。真面目なヨミはためらったが、身体の弱い彼女が一人暮らしをさせるのは気がかりだったし、僕が無理を言ってそうしてもらうことがあった。仕事を終えてヨミの待つ僕の部屋に帰ると思うと、足取りは自然と軽くなる。その日も僕は胸が軽く弾むのを感じながらチャイムを一度押して合鍵でドアを開ける。いつもと違うとすれば、玄関の先の部屋には明かりがなかった。
「…ヨミ?」
玄関の明かりをつけて部屋に上がると、背の高い椅子に膝掛けをしてもたれかかっているヨミの後ろ姿が見えた。僕に気づいてない様子で身じろぎ一つしない。首がぐったりとうなだれたように背もたれに力なく寄りかかっている。一瞬、最悪の状況が頭を過ぎって、思わず僕は彼女の肩を揺すった。
「ヨミ。おい…」
彼女の頭が二三度、僕の手になすがままになって力なく揺れた後、
「…ん、ああイナギ?おはよう」とヨミの反応がようやくあった。
「…寝てたのか?具合が悪いのか?」
そう聞く僕は内心ほっとしていた。
「ちょっとね。イナギは何してたの?」ヨミはまだ少し舌足らずに僕に言う。
「神宮橋のスフィアを遠巻きに見てた。結構賑わってたよ」
「イナギ、すごい」
「みんな僕達の噂をしてるよ」
「やっぱり嬉しい?」
「どうかな。嬉しくない訳じゃないけど…」
「どうかした?」
「分かったんだ。もう僕達が元型じゃないんだ。スフィアを動かしてるのはもっと深いところにあるんだ。あのヨミが話してくれた公園での話、嘘か本当かも分からない噂話。でも、あれが知らずにみんなの意識を動かしてるような気がするんだ」
「ねえ、イナギ、あの時見た字の色覚えてる?」
「暗かったから、定かじゃないけど、茶色かったな」
「あれね。『血』で書いてるの」
「血で?」
「そう。そう言われてる。だからあんなにはっきり残ってるんだって。なんで、あの文字を血で書かなければならなかったのか?それも大きな謎の一つね。だから、イナギの言ってることってすごく分かるの。だってあの二人はきっと生きていたんだから…」
「ヨミは詳しいんだな」
「…そうよ。詳しいの。イナギの感じてること、私には分かるよ。私達だけじゃないから…だってあの子たちは私達の…」
しかし、背中で聞いていたヨミの声がだんだんとしぼんでいく。
「ヨミ?」
その様子に気づいた僕が振り返ると、ヨミはわずかに開いた瞳が力なく彷徨っていた。具合が悪くなる時いつもそうなる通りに、顔が紅潮し微かに深くなった息が乱れている。
「ちょっとなんでもないの…大丈夫だから…」
「ヨミ…大丈夫か…?とにかくベッドに…」
僕は急いでヨミを抱きかかえた。
「ちょっと、イナギ。急にビックリする…」
「大丈夫。薬飲んで休めばよくなるさ」
いつもは気休めと馬鹿にしていたヨミのセリフを今は僕自身が口走っていた。
「イナギ、お願い聞いてもらっていい?」
ヨミは僕に抱えられたまま、息のかかりそうな距離で僕に言う。長いまつげから覗く潤んだ瞳がとても綺麗だった。
「言ってくれ。何でもするから」
「ウケイ先生…先生のとこへ連れてって…」
モノはイナギの部屋で手に入れたメモリースティックをノートブックに差し入れた。するとブラウザが立ち上がって、ログイン画面が現れる。『…これがキーコードの役割をしてるってことか』画面を進めると目の前のモニターには見慣れた街の風景が広がった。『これは…』
まるで今、スフィアの集まる聖地、神宮橋に立っているようだ。それくらいに3DのCGで街が完璧に再現されてる。しかしモノにはどこか違和感が残った。そうだ。向こうの方に第二東京タワーがまっすぐにそびえている。いつかアノンと眺めたように真ん中が曲がっていない。並行世界のように色んなものがどこか少し違ってる。
もうひとつの違和感の訳も程なく知れた。橋の向こう森の中に見覚えのない建物があったから。だだっ広いショッピングモールとビルの中間みたいで、外観は中央に広く長い階段が見えなくなるまで続いていて何か古代の神殿のようにも見えた。空中庭園。南米の金字塔のような形だ。中がショッピングモールやオフィスのテナントになっているらしい。モノはそこに歩を進める。通りを歩く人は誰もいない。ただモノの操作するキャラクターが背中を向けている。
そういえば聞いたことがある。第二東京タワーの計画と一緒に下町の再開発をするという話を。どうもこれはその都市計画のためのプロモーションやシミュレーションを兼ねた仮想世界の箱庭のようだ。利用者に一人ひとりアカウントと与えてこの世界の住人となってもらって計画の第二東京タワーが曲がったのと同じ日、その計画も頓挫したはずだ。これはその残骸で、どういう訳かサーバーから消されずに残っているようだった。イナギがなぜそのアクセス権限を持っているのかは分からない。ただ、イナギ自身が夢に終わったテナントビルそのものには関わりがあるとは思えない。
だとすれば。あの事故のあった場所。あそこに行ってみよう。モノがキーボードを押すと視点がゆっくりと旋回して辿ってきた道を引き返す。無音の中、中に浮いた幽霊が彷徨うようにテナントビルと入り口に掲げられたアルファベットばかり並んだ看板、街灯を追い越していく。すると、視界の横から誰もいない道路を追い越して行くのに気づく。車だ。黒いセダンでゆっくりとモノの横を通り過ぎる。その先にあるのはあのスクランブル交差点だ。誰もいないのに信号だけが規則正しく変わっていて滑稽に思えた。次第に小さくなるリアバンパーを追っていると、車は一度大きく反対車線に膨らんで交差点の角のデパートにスピードを上げて突っ込んで行った。
『これは…』モニターの前の仮想空間で淡々と起こった現象にモノは自分の中に沸き起こる期待をなんと名づけていいか分からないでいた。車はデパートの入口に突っ込んだまま止まっている。早く追いつかなくては。確かめたいことがある。これが事故の再現をしているのなら。ゆっくりと動き続ける視界の中に徐々スクランブル交差点が広がっていく。もう少し、もう少しだ。モノの見立てが正しければそこには…
『あっ…』しかし、すんでというところで黒いセダン車は一瞬で姿を消してしまう。『くそっ』それでもモノは望みをつなぐように向かった。シルシが事故にあい、そして皆に呼びかけていた場所に。ようやく近づく。もう跡形もない。ダメか。そう思った矢先、すぐ目の前に別のキャラクターがノイズ混じりに現れた。
それは、マキーナだった。マキーナが目の前に立っている。無表情にぼんやりとそこにいる。しばらくモノはそれを眺めていた。それと知っていなければ、マキーナとは気づかない程度のものだ。イナギが改造をしたのかも知れない。今はこれがここに立っている意味を考えなくちゃいけない。でもマキーナのイメージは答えずただ呆けたように正面を見て突っ立っているだけだ。少なくともこれが作られたのはマキーナが生み出された以降だろう。この仮想空間ができてからはずっと後だし、ごく最近に違いない。他に何か手がかりになるような…と、その時だった。モノの目の前を再び黒いセダン車が通り過ぎると、そのままの勢いで立っているマキーナにぶつかり、それは操り人形のように力なくモノの視界いっぱいに広がって潰れて消えた。それから。モノは幾度と無くその光景を眺めた。それは延々と繰り返した。『これはあの事故の再現に違いない。でも、どちらの?三年前の…それとも一月前…』モノは自分に聞き返した。『いや違う…そのどちらともだ…つまり…』
『イナギは過去の事故を完全に再現したんだ』
歯ブラシをくわえてパソコンをいじる僕の斜め後ろにアノンはきりっと立っていた。
「見たの?」
そう言われると、アノンの着てるぶかぶかのトレーナーはより意味深になってくる。その格好がつい今しがた見た柔肌をひどく忠実に再現してくれている。
「ああ、いや、湯けむりでそんなには…」
「見たんだ?」
ああ、見た。確かに見た。顔を隠しても首から下だけで誰がアノンかを当てられるほどにまじまじと。
「その…悪かった。つい一人でいた頃の癖で…」
悪気はなかった。それは本当だ。
「いいよ…このくらいは覚悟の上だよ」
アノンは僕に濡れ衣を着せて、一宿一飯の恩に身体を差し出したとでも言いたげだ。
「いや、だから見るつもりは…」
「とにかく!事故だと思って忘れて」
「…ああ」
だが、残念だな、アノン。僕は忘れない。まだ幼さの残る顔に似て小ぶりな…いや、やめておこう。しかし、あのバーコードみたいなタトゥーだけは今は忘れておいた方がいいだろう。この子にはまだ何か隠していることがある。多分それが僕と彼女を結びつけた。不思議なものだ。偶然にしてもでき過ぎてる。心の奥でくすぶる好奇心を抑えて僕はアノンの顔をぼうと見つめていた。
「…何よ」
その様子にアノンは思わず構える。
「アノン…お前良く見ると両目の色が違うんだな…」
アノンの顔を見る度に胸の中のどこかにあった微かな違和感。初めはアノンのどこか異国風の彫りの深い顔立ちに対してだと思っていた。その謎が今ひとつ解けた。その正体は少し薄く青みがかっているように見える彼女の右目にあったんだ。
「へへ、いいでしょ。オッド・アイ。マキーナと同じなんだよ」
アノンの青く透き通った左の目を指さした。僕は机の上に無造作に置いてあった雑誌を手に取って、表紙に映っているCGのマキーナとアノンを見比べる。
「…コンタクト・レンズか?」
「ううん、元からこうなんだ。すごいでしょ?」
「アノンはマキーナ以上にマキーナなんだな」
「マキーナを程度で表さないで」
「褒めてるんだよ」
「ああ、そうなの?やった」
一時はだいぶ傾いていたアノンの機嫌もどうやら直ったようだ。彼女が単純でよかった。その背後は複雑でも。
-僕は夢を見ていた。宇宙船の中で周りに生えている花や木と一緒に水浴びをしている女の子を、僕は曇りガラスの向こうに眺めている。その子は歌を歌っていた。ヤエコの歌だ。僕はその女の子が誰だか知りたいと思った。
…うっすらと目が覚めた。きっとここは手を伸ばした先にある夢の延長だ。歌が聞こえてくる。僕はベッドのすぐ横に立てかけてある衝立につまづきながら声のする方へ歩いて行く。そうだ。顔も洗わなきゃ。朝だし出かけなきゃいけない。そうして僕は曇りガラスでできたスライド式のドアを開けて洗面所に入ろうとした。その時。
「…え?」
女の子の声がした。それは案外近く…いや、目と鼻の先だった。見ると濡れた髪をタオルでぬぐっている裸の女の子が目の前に立っている。あいにく後ろ姿だけど、鏡には寝ぼけ眼の僕の顔に並んでアノンの顔が覗いている。程よく引き締まったおしりはまだ少女らしさを留めていて、背中越しに斜めから覗くのは思った通り小ぶりで形の良い胸がその稜線だけを柔らかくなぞっている。そしてタオルで描き上げた首筋は色っぽく…
だが、そこまでで僕の目は留まる。首筋から肩にかけた辺りに少し青みの入った黒色で模様のようなものが入っている。今までも気づかないはずだ。丸首のシャツでもぎりぎり隠れるくらいの位置だ。さらに観察すると何か識別番号と言うかバーコードのように見える。身体を洗っても流れないんだから、タトゥーか何かだろうか?確かマキーナにもあの位置に識別番号『001』が描かれていた。が、それを真似たにしてもアノンのそれはデザインが大分違う。
「アノン、お前…」
「…な、何?」
呆然と立ち尽くす僕を前にしてアノンはさっとタオルで身体を隠す。
「お前、やっぱり…」
「何?やっぱりって…なんかおかしい?」
本来なら怒りたいところだろうけど、僕の様子に調子を狂わされて普通の反応ができずに困ってるようだ。
「いや、随分…その…なんだ…なかなか」
思わず視線を下に向かわせてしまう僕の本能。
「いいから、もう、早く出て行って!!」
アノンはようやく僕を追い出した。