中央区立第二中学校
所在地:中央区明石町1-6
建設年:1926(大正15)
構造・階数:RC・3F
解体年:2002(平成14)
Photo 1995.6.20
モダニズムと言ってよいのかな。装飾は全くない。四角い窓が出入りのほとんどない壁面に並び、特徴といえば、控壁らしき出っ張りが壁面に付いているだけだ。
撮影時は区民施設として使われていたらしいが、壁の表面は既にところどころ剥がれるなどしており、やや傷んでいた。将来、建て替えるつもりだったから修繕などをしなかったのだろうか。
2019.1.17 追記
「ぼくの近代建築コレクション」の流一さんが、資料をいろいろ調べられて、この建物の来歴を整理されました。
区立第二中学校/明石町 - ぼくの近代建築コレクション
上記の記事の方が、正確だと考えられますので、本記事についても修正しました。
この中学校の来歴はかなり複雑で、数年前に記事化した際にはよくわからなかったため、以前は1937(昭和12)竣工としていましたが、これは違っていたので修正しました。以下はこの建物の使われ方を諸々の情報を元に整理したもの。戦後は二つの学校(後の区立第二中学と都立京橋高校)として使われていたようです。
中央区立第二中学校について
1911(明治44) 京橋高等小学校が創立。
1926(大正15) 京橋高等小学校の校舎として、写真の建物が建てられる。
1947(昭和22) 中央区立文海中学校が発足。
1953(昭和28) 文海中学校がこの校舎に移転。
1968(昭和43) 文海中学校と明正中学校が統合され、第二中学校となる。
1984(昭和59) 第一中学校・第二中学校が統合され、銀座中学校(銀座8丁目)となる。旧第二中学校の校舎は区民施設となり、以後、他の学校の建て替え時などの暫定施設として使われたりもした。
2002(平成14) 使用停止、解体。
都立京橋高等学校について
1910(明治43) 東京市京橋区女子実業(補修?)学校が南槙町小学校内に創立。
1911(明治44) 京橋高等小学校に間借りするかたちで移転。
1918(大正7) 東京市京橋区実業補習京橋女学校と改称。
1927(昭和2) 東京市京橋区京橋専修女学校と改称。
1949(昭和24) 都立京橋高等学校(共学)になる。
1963(昭和38) 都立京橋高等学校が晴海に転出。以後、校舎は文海中学校が単独で使用。
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Tokyo Lost Architecture
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