夢と希望と

そして力と意志と覚悟があるなら、きっと何でも出来る。

必要であれば奪う 皆そうして生きている。

2015-05-28 | 中身
 表題として引用致しましたのは、「乙嫁語り」の登場人物であるアゼルの台詞です。この人の思考形態はなかなか共感できる所が多く、そうであるが故に因習に縛られる彼の姿が歯痒くもあり……と、まぁそれはさておき。先日、どこぞのアイドルグルーブの「僕たちは戦わない」とかいう歌を耳にしました。これがまた、徹頭徹尾狙い澄ましたように惰弱極まる反吐が出る歌詞。端的に言ってしまえば、

 この羅将ハン的な気分になりました。
 復讐は何も産み出さないだとか、許し合おうだとか、拳をおろせば平和になるだとか、よくもまぁ脆弱な心の持ち主の耳にはさぞ心地良いであろうゴミみたいなフレーズだけで構成できたものだと、感心さえしてしまいます。純粋な誤解による諍いならば対話で解決も出来ましょうけれど、それが拗れてしまえば言葉は役に立ちませんし、そもそも利害の対立であればその本質は奪い合いであって、強者が弱者を喰らうだけの事です。ついでに言うならこの世界における涙の総量なんてモノは決まっている筈もなく、前提からしてこの歌詞は破綻しています。
 あと、これはお友達には常々申し上げている事ではありますけれども、憎しみの連鎖を絶ち斬るなんてのは非常に簡単な事。つまり一切の情を排除して適切に対象を皆殺しにしておけば済むのです。手を抜いて中途半端な事をするから反撃を受けるのであって、徹底的に息の根を止めて死者にしてしまえば、何も恐れる必要などありません。とはいえ、実は私のようなメンタルを持つ者にとっては、憎悪もまた闘争のエッセンスの一つであり、憎まれる事もまた愉悦だったりするのですね。

 ジンメンは「デーモンにとって」と条件付けしていますが、別にデーモンに限ったお話でもないと私は考えます。闘いとは相対的強者が必要なモノを相対的弱者から奪う事。その必要なモノとは食料であったり悦楽であったり地位であったり恋であったり居場所であったりと様々ですが、何にしても奪われた者……つまり弱者から受ける怨嗟の念は、そのまま己の勝利の証、強さの勲章に他なりません。昨今はこういう意見を表明しますとサイコパスだの何だのと言われますけれども、至極当然の闘争の理であって、至ってシンプルなお話に過ぎないのです。

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