夢と希望と

そして力と意志と覚悟があるなら、きっと何でも出来る。

思考の天秤。

2012-06-21 | 中身
 気がつけば昨年事故った時よりも此処を放置してしまっていました。
 言い訳というのは始めれば際限なく出来てしまうものですから、綺麗さっぱり斬り捨てると致しまして……とりあえず以前コメントにて予告していました、思考決定のプロセスについて書き殴ってみましょう。

 私は良く他人から、悩みがないとか人間味に欠けるだとか薄情だとか背負ってる物が無いだとか、その類の評価を受けます。まぁ他人が私をどう判断しようとも、それによって私自身がどう変質する訳でもありませんので別段気にも留めません。蜜柑の缶詰に桃のラベルを貼った所で、中身が桃になりはしないのです。
 しかしまぁ実際の所、私とて悩みや迷いが皆無かと言えばそんな事は無く、単にそれを適切に処理しているだけの事。そのシステムは非常に単純で、思考する際に天秤を使用するというもの。
 なにを当たり前の事を、とお思いでしょう。ええ、これは大抵の方が極々当たり前に行っている行為に過ぎません。大雑把な例を挙げるなら、目の前に一つのスイッチがあり、これを押すと自分が死に、押さなければ見ず知らずの他人が一人死ぬとします。この場合、スイッチを押す人間は非常に少数でしょうけれど、要は「自分の命」と「見ず知らずの他人の命」を天秤に掛け、その結果として自分の命の方が重いからスイッチを押さないという結論に至る訳です。

 肝心なのは、此処から。

 先程の例は見ず知らずの他人の命という、全くどうでも良い、自分の命とはそもそも天秤にかけるまでもなく軽重の判断が可能な物が対象でしたけれど……では、これが自分にとって大切な存在であったとした場合、どうでしょう。恋人や家族、友人、恩人などの命であったなら。
 私は、この判断は一瞬で済みます。何故ならば、天秤に掛ける対象である分銅、つまり個々の事象は私の脳内に於いて常に厳密に序列が定められ、その優先順位が決定されているからです。私にとって天秤の使用は、あくまでも最終確認に過ぎないとも言えます。この例の場合、今現在において私自身の命よりも優先される事象は二つだけ存在し、対象がそれであるならスイッチを押し、そうでないなら押さない事になります。大切なものである以上、必然的に残念に思う気持ちは生じますけれど……天秤の運用は厳密厳格に行われ、そこに例外処理はありません。
 何かを選択するという事は、選択しなかったモノを斬り捨てるという事です。その認識と覚悟が伴わなければ、そもそも「どちらも大切だから選べない」等と選択から逃避したり、選択した後になって埒もない泣き言を叫いたり、ああすれば良かった、こうすれば良かった等と悔いる羽目になります。それは人間味のある、温かい心というものなのかも知れません。しかし私にしてみれば、認識が甘い惰弱な思考です。

 何が自分にとって重要であり、何がそうではないのか。誰が誰よりどれだけ価値があるのか。そういった事を、虚飾なしに定義付けて自身の内に整頓し、また状況の変化に応じて適宜更新を行い、天秤に掛ける。天秤の傾きを確認したなら、軽いと判断した側は斬る。
 要するにきっちりと現実を認識し、覚悟を以て臨むという、それだけの事。ベイブレードの竜牙は、このあたりがきっちり出来ていたように見受けられるので、私からは好印象という事ですね。