夢と希望と

そして力と意志と覚悟があるなら、きっと何でも出来る。

最近のお買い物。

2015-10-26 | 中身

 先週末に到着した戦艦レ級と、弟から強奪しました乙女座バルゴの神聖衣。

 まずはレ級。ゲーム中における強さと、それを表現する立体物としての完成度の双方を兼ね備えているので購入に至りました。即腹パンしたくなる笑顔だとか言われているようですけれども、実力を備えるが故の不遜さというのは大好物。私の好きなキャラクターというのは天空戦記シュラトの軍荼利明王クンダリーニであったり、ドラゴンボールにおいてはナッパであったり、銀河英雄伝説ではオフレッサー上級大将であったり、そしてこの戦艦レ級も然り……まずその初対面時の実力が図抜けて高く主人公達を圧倒する存在である事が多いようです。まぁ弱者を愛でる性癖は持ち合わせていませんので、当然の事かも知れません。
 ちなみに立体物として手に取ってみると、こいつの身体構造はラミア的であるように思えます。つまり脚に見える部分は鰭のような物で、両脚を合わせたよりも太い尻尾に見える部分こそが胴体である、と。更に言うならばポケモンにおけるクチート的な生き物ではないでしょうか。そうなりますと人間のように見える部分は疑似餌、海の魔物で言うところのスキュラちっくなクリーチャーかな、とも。

 次に乙女座バルゴの神聖衣。光背と蓮華座の造形に因るものでしょうか、仏像に見えます。タナトスやヒュプノスの冥衣にも匹敵する見栄えの良さ。既に購入済みの獅子座と牡羊座とは事なり、まぁ翼が生えていても納得出来るデザインのように思えました。私は基本的に箱から出す場合は装着形態ではなくオブジェ形態で飾っておきますので、黄金神聖衣シリーズの見栄えの良さは大歓迎。蟹座キャンサーの神聖衣にも脈絡無く翼が生えていたら嫌だなぁ等と思っていましたが、生えているのは翼ではなく蟹の脚のようなので一安心、来年一月末の発売日を楽しみに出来るというものです。

 そして画像は割愛しますが、最近読み始めた「ゴールデンカムイ」が大変面白いです。明治時代の北海道でアイヌ的食文化を楽しみつつ、北鎮第七師団や実は生きていた土方歳三とその一味を相手に三つ巴で殺したり殺されたり互いの皮を剥ぎ合ったりするお話。単行本は4巻まで刊行されていまして序盤は検索すれば試し読みが可能ですので、御覧になってみては如何でしょうか。

つまらない昔話。その2

2015-10-19 | 中身
 私はかなり親しい友人などからも、アスペルガー症候群やらサイコパスやらと称される事が良くあります。論理的思考というものが出来ない馬鹿に対しては圧倒的な効能を発揮するという菅官房長官語で応じるならば「その指摘には全く当たらない」と一言で済むのですけれども、此処を御覧になっている方々にはそのような返答で納得するような愚鈍なカスは居ないと思いたい所ですし、少々説明をしてみましょう。
 まずそもそもアスペルガー症候群もサイコパスも、私に言わせるなら能力の欠如です。空気を読む能力、他人の感情を理解する能力、相手の価値観を推察する能力……これらが欠けているが故に、他者から観ると異質な行動と映るものであると認識しています。
 さて、では私の場合。場の雰囲気、俗に言う空気なんてモノを把握するのは簡単な事です。ただし、その空気とやらと私の望みを天秤にかけ、後者が重いのならば当然ながら前者は斬り捨てられる事になる、というだけの事。至ってシンプルな仕組みです。空気を読めないのは愚鈍、読んだ空気に従う事しか出来ないのは愚劣であると私は考えています。他人の感情や価値観の推察につきましても全く同様で、そんなモノをエミュレートするのは極めて簡単、日常的に行っていますとも。それにくどくどと幾度も申し上げていますように、私にとって大切な人の望みは私の流儀に反さない範囲で最大限に尊重したいと常々考えています。とは言いましても、これは誰しもそうであるように、全ての対象を無差別に尊重するという事ではありません。たとえば皆様とて、遠い異国で数多くの人間が餓えて死んでいるという知識を得ていようとも、自分の食費や娯楽費を削って寄付などなさらないでしょう。「そんな事はない、寄付をする」という方も、それはあくまでも御自身の日常に支障が無い範囲での行為。もっと金を送ればもっと救えると知っていても、冷徹な命の線引きをなさっているモノです。つまり自分にとって関心の無い、無価値な人間というのは庭石の下のダンゴムシも同然であり、生きようが死のうが知った事では無いのです。ダンゴムシなどは、わざわざ庭石をひっくり返して駆除するような対象でもありませんし、餓えて餌を求めていようとも助けてやろうとは思いません。そう、相手の感情が解らないのではなく……単に、理解したその感情の持ち主がどうでも良い相手の場合、それは判断の天秤において限りなくゼロに近い質量しか持たない分銅である、という事です。
 このような思考システムによりアウトプットされる私の行動が、有象無象に対して酷薄に見えるというのも理解はしていますけれども、それこそ有象無象からどう見えようとどう思われようと、どうでも良いモノなのです。そのような仕組みですから私の場合は推察や共感といった能力の欠如ではなく、単なる適切な取捨選択の結果に過ぎません。……まぁこの説明を以前お友達に試みましたら「どんな内部処理がされていても出力結果がサイコパスと同じならサイコパスです」と指摘され、確かに外部からの観察結果としてはそのような事になるのだろうなぁと納得しつつ、それでもその本質は異なるのだという主張を今一度してみました。

 そんなこんなで私のサイコパス気質というモノは、大多数の人間をダンゴムシ同然……つまり自分と対等以下の無価値に近い存在と定義づける事に依るのだろうと認識しています。では何故、そのように定義づけてしまうのかと考察するならば、これは前回の記事でも説明しました通り、ありふれた言葉を用いるならば私は俗に言う神童というヤツだったからです。成人するまで私より明確に優れていると認識した相手は、実の兄ただ一人でした。それ以外の人間というのは大人も子供も引っくるめて、どいつもこいつも大同小異のゴミであると感じていました。音楽や美術などを解する心というのを持ち合わせていない無粋者でしたので、そういったジャンルの人々に敬意を持てなかった事も要因かも知れません。
 小学校を卒業した私は、私立の中学校へと進学しました。中高一貫教育を基本とする、学力とお金がどちらも必要とされる学校でした。入試もありましたけれど、母親が入手した過去問題を文字通り一瞥しただけで、あまりの他愛なさに拍子抜けして試験勉強など全くせずに合格。そのように容易に入学したものですから期待もしていませんでしたが……実際には、少々驚きました。入学試験という一応の篩いにかけられているからか、或いは裕福な家庭の子息というのはある程度きちんと躾けられている傾向があるのか、同級生達はチンパンジー擬きではなく「人間の子供」だと感じられたからです。
 ちなみに私の実家の資産レベルは一般的な中流家庭の範囲でしたから、家格も資産も平均を遙かに上回る人達が大勢を占めるその学校においてはかなり下層に位置しました。それ故の侮りを受けもしましたが、週に一度は礼拝があったり、茶華道や礼法の授業があったりするのは新鮮で、新たな知識を得る事は喜びでもあり、これ以降は小学校時代とは比較にならぬ程に楽しく充実した日々となりました。何よりも、理を以て言葉で説けばきちんと通じる、という当然の道理が嬉しかった事を明確に記憶しています。

 そのような環境で、私はかつて母親に言われた修練を今こそ実行する機会かもしれないと考えました。かつて小学校に入学する際、母親は私にこのような事を諭していたのです。
「女の子にとって、学校の勉強なんて大して重要ではないの。出来れば出来るに越したことはないけれど、もっともっと重要な事がある。それは、人の心を理解して自分の思うように動かす能力を身につける、という事。同級生や先生を良く観察して、その人達が理解して欲しいと思うように、理解してあげているように見せかける技術。人は誰だって自分を理解されたいと願っているから、良き理解者というのはとても大切に感じるの。つまり誰かの良き理解者にさえなってしまえば、その誰かはもう此方を裏切れないし、それどころか最大限の尽力をしてくれるもの。この技術をきちんと習得すれば、一人で無人島にでも漂着しない限り、快適に生きていけるのよ」
 ……まるで、北斗の拳のジャッカルみたいな言葉ですよね。自分で象を倒す必要は無い、要は象の肉を喰えれば良いんだ!的な。
 ところが、先述のように小学校では周囲はどいつもこいつも人間未満のチンパンジーばかり。人間とならばいざ知らず、ウッキーと吠え立てるばかりで物の道理を介さない連中を相手にそんな技術を磨く気にもなれませんでした。それがこうして未熟とはいえ人間が相手ならば、好みの問題はあるにせよ、技術の一つとして習得してみようかという気分になったのです。
 結論から言えば、この母親のアドバイスを実行した事の効果は絶大でした。
 相手が何を考えているのか、何をどう感じているのか、どのような自分でありたいのか。これを把握し、共感して見せ、理解者であると錯覚させる事はそれ程難しい事でもありません。相手の思考を引っくるめてエミュレートすれば良いだけの事です。たったそれだけで、相手にとって自分はかけがえのない存在となってしまいます。把握と共感の導入、その小道具として占いの類が極めて有効な事も学びました。タロットカードやルーンストーンを操って見せるだけで、通常ではなかなか口にしないような悩みや想いをぺらぺらと喋ってくれますし、それらを解析して再構築してもっともらしい言葉で「占い」を行って差し上げれば、当たる当たると御相手は大喜び。恋煩いや将来の進路、休日の過ごし方まで私の占術に依存する同級生も居た程で、内心辟易していました。己というモノを確立していない人間、行動の基底を己以外の部分に置く人間というのは、こうも容易く踊らされるモノなのか、と。宗教でも国家でも、己以外の何かに依存する人間とは、誇りを己自身に見出せない輩なのだ、と。現実を冷徹に直視せず、日々の痛みや苦しみから逃避し酔っ払う為に、理解者等という精神的な麻薬に頼ってしまうのだ、と。
 幾度も書いてきましたように、私は怪力乱神の類を体感した事はありませんし、欠片も信じていません。仮にそれらが実在するのならば、それらとも闘って勝つか負けるかして、喰らうか喰らわれるかするだけの事だと考えています。神などというモノがもしも存在したとしても、神だから尊い訳ではありません。相対的強者が相対的弱者を蹂躙して喰らう、その理の一部に過ぎまいと認識しています。

 と、このように人心を把握する技術そのものは比較的簡単に会得しました。人間の多くは寂しがり屋で、孤独を嫌い、肌身を寄せ合い互いを舐め合う傾向があります。その性質を利用すれば人の心を私にとって都合の良い方向に誘導する程度は造作も無い事です。ただし、その技術が効果絶大で有効であったとしても……私の好みかどうかと言えば、否でした。そのような唾臭い真似、出来る事ならしたくはないものだと考えるに至ったのです。私を崇拝する手駒を用いて、安全圏から確実に目的を達する事は、戦術として優れているとしても……ただ勝てば良いというモノでもあるまいと考えた、と申し上げても良いでしょう。私は勝ちたいように勝たなければ、満足感が得られない性質なのです。勝利とは自己満足の為にこそ必要なのであり、満足感が得られない勝利などに価値はありません。逆に言うなら、敗北したとしても闘いに満足して負けたのならばそれで良い、という事でもあります。勝利は重要な目的ではあっても、天秤における最重要の分銅ではなく……手段としての闘争を楽しみ、そこに価値を見出す事こそが軍人ではなく戦士の思考形態であるというのは、以前にも記した通り。
 まぁしかし、この技術に関する見切りは経験不足故のものであって、井の中の蛙というヤツでした。やがて成人してから、この世の魔性と形容するに相応しい恐るべき人と出会い、戦慄する事となりますけれども……それはまた別のお話。


 前回と今回、二度に分けて私というシステムがどのように構築されているのかを大雑把に解説してみました。多くの方々にとって反吐が出るようなシステムであって、好感度が大幅に低下する類の愚かな自傷行為である事は充分に理解しています。とは言いましても、それでもこれらの事項を説明する事は、私にとって必要だったのです。
 私が強さというモノを重視するのは、誰に言われたからでも感化されたからでもなく、ただ私自身の在り方によるものだ、と。「一個人、一個体が強いとか弱いとか、そんなことはどうでもいい」と考える人も居るのでしょう。そう考える事は、その人の自由。太古より継がれ紡がれてきた命の螺旋、その端に連なる者としてこの世界に存在するだけで奇跡であり、価値ある事だと認識するのも自由。ただ、私は命の螺旋を継いで紡ぐのも力があればこそ為せると考えていますし、力無きモノが淘汰されてきたからこその現在であろうと認識しています。輪廻などは死を直視する事に耐えられぬ脆弱な精神の持ち主が逃避する為の概念であって、生命活動の停止は単に己という存在の終焉以上でも以下でもありません。命に限らず万物は始まれば終わるのは至極当然の理、ならばこそ好きなように生きて、好きなように闘い、好きなようにくたばる事を望むのだと……そのように返答しておきましょう。

つまらない昔話。その1

2015-10-13 | 中身
 このような場所で昔のことをペラペラと喋るなど、大抵の場合において百害あって一利も無いもの。断じて賢い行いではありませんけれども、まぁそれが必要な状況というのも存在しますから、少々独白してみましょう。


 巷にありふれた妄想の一つとして、「現在の意識を保持したまま幼い頃に戻る」というのが存在するそうです。文明レベルの低い異世界の土人を蹂躙し、暴虐と私利私欲の限りを尽くしたいという願望は古来より人類の多くが持っていますから、その変形と考えれば理解出来なくもありません。
 しかし、およそ似たような経験を保持する者として、そんなのは楽しいモノではないですよと申し上げておきます。というのも私は2歳数ヶ月の頃より今に至るまで、ほぼ変わらぬ自我を保持して来たからです。無論知識量の多寡は異なれど、あの日以降私の意識のシステムは大きく変動していません。
 意識の目覚めは唐突でした。私が認識した最初の光景は、母親がチョコレート菓子を後ろ手に隠して私に歩み寄ってくるところ。「良いものをあげるよー、なにかなー?」などと言いながら接近してくる母親に、私は憤慨したものです。私の眼前で背中に隠しておいて、何かなではないだろう、と。既に隠す場面を目撃している以上、謎かけとして成立していませんもの。なめるな、という思考こそが意識覚醒の契機だったのでしょうか。後日、この日の事を母親に聞いてみましたら、しっかり覚えていました。曰く、「あの時まではおまえも可愛かったのに」との事。その場に居合わせていた兄は私と同様の経験を経ていたらしく「やっと妹にもスイッチが入った」と思ったとか。
 そんなこんなで、その日以来私は現在と大差ない私であるという訳です。それからは猛烈な知識欲に突き動かされ、両親を質問攻めにして鬱陶しがられ、自力で書物から知識を習得する為に兄から文字を学びました。

 やがて私は幼稚園というものに入園させられました。これが、もう兎に角苦痛の極み。周囲にいるのは人間未満、チンパンジーにも劣るような阿呆ばかり。その阿呆に合わせた指導内容ですから、私にとっては退屈というよりひたすら馬鹿馬鹿しく、歌だのお遊戯だの完全に無視して持参した本をずっと読んでいました。そうしますと、幼稚園の教諭が「読めもしない本を抱えて意地はってないで、みんなと踊りましょうね」などと揶揄してきます。私としては、読めるからこそ読んでいる、と事実を述べる他ありません。教諭はパンパンと手を叩きチンパンジー共を呼び寄せ、「この難しい本を、これから静流の中身ちゃんが読んでくれます。みんなで聞いてあげましょう」的な事をほざきました。跳ねっ返りに恥をかかせてやろうとでも考えたのでしょうけれども、元よりその程度は雑作もない事。実際に朗読してみせましたら、チンパンジー共からは拍手を受けましたが教諭には平手で頬を幾度も打たれました。なんという理不尽な、と憤りつつ帰宅後兄にその話をしましたら、呆れ顔でこのように言われました。
「どれだけ自分が正しいと思う事を言ってもやっても、それを裏打ちする力が伴わなければ結局そうやって暴力で押さえ込まれてしまうのだ。愚劣な教師が悪い訳ではなく、弱いお前が全て悪い。弱いヤツは強いヤツに何をされても仕方がないのだから、それが嫌なら心身共に強くなれ」
 まったく正論だと感じましたから反論など出来ず、この言葉は今も変わらず私の中に息づいています。肉体的な鍛錬に意味を見出した瞬間でもあります。

 そして、私が小学校に入学して間もない頃のお話です。教師にこんな事を言われました。
「自分がされて嫌な事は、他の人にもしてはいけません。自分がされて嬉しい事をしてあげましょう」
 実に底の浅い、愚かな指導です。これは一定の価値観を共有している事が前提であって……私のような輩には全く効能を発揮しない代物でしかありません。たとえば、私が昔から他人にされて一番嫌な事は「手加減」です。逆に、されると嬉しいのは「闘争を仕掛けられる事」。ですから教師の指導に敢えて従って見せ、手加減抜きの闘争を片っ端から仕掛けてやりました。母親が学校に呼び出される事態となりましたけれど、その程度は想定済みの事態、母親からも呆れられつつ、先生をからかって遊ぶのは程々にしなさいと言われただけ。
 勿論教師の本意程度は推察しています。相手の心を把握して、相手が望むように取り計らう事で円滑な人間関係を築けとでも言いたかったのでしょう。しかし、相手ではなく己を基準にやれという失言を放ったのは他ならぬ教師本人。幼稚園とは異なるだろうと僅かながら期待していた反動もあり、つい少々意地悪な対応をしてしまいました。戦闘民族であるサイヤ人に平和の尊さを説いても無駄な事なのです。何が幸せで何をして喜ぶのか、その根底が異なれば基本的に相入れないのであって、関わらぬようにするか滅ぼし合うか、二つに一つであると今も昔も私は考えます。

 このようにして小学校生活がスタートしましたけれども、相も変わらず学校には馬鹿しか居ないように見えました。女子には知性の芽生えを感じさせる子も数人居ましたが、男子の愚劣さは幼稚園の頃以上のように感じていました。衛生観念というモノが根本的に欠如しており、不潔で臭く粗雑で粗暴、発言の6割までがウンコとチンコ。品の無い下らぬ悪戯を飽きもせずに繰り返し、飼い犬の方が遥かに知的だとさえ思ったものです。単体では臆病な癖に群れると威丈高になり、それでいて教師に対しては卑屈に諂う彼らの姿は、今もしっかりと記憶しています。とはいえ実はこれらは未熟な子供だからという問題ではなく、大衆というモノの本質であると気がつくのは、もう少し時間を経てからの事でした。
 余談ですけれど中学生の頃、近所の同級生に俗に言う愛の告白というのをされた事があります。ずっと好きだったとか言われましたが、そいつが水泳の授業の後に全裸でブリーフを頭に被ってキンタマスクとかほざいて走り回っていた事も憶えていますし、私のランドセルにカマキリを詰め込みやがった事も忘れていません。学級会その他で意見を求められても常に「考え中です」などと自分の意見もまとめられぬ無能であると表明していた事も記憶しています。サカリが来て色気づいて整髪料など頭に塗りたくってみても、そういうカスであるからには恋愛対象になどなる道理も無く……寝言は寝て言えと申し渡して差し上げたものです。
 
 まぁ色恋沙汰はさておき、小学校生活も退屈そのものでした。学業なんてものは予習も復習も一切せず、ただ授業を聞いてさえいればテストで悉く満点を取れました。あまりに低レベルな内容故に、ノートなど全く使いません。宿題も、計算問題の類なら指名された時に解き始めれば瞬時に終わりました。漢字の書き取り系は苦痛で、とっくに覚えている漢字を何回も書くような事に意味など見出せず、これはやがて提出をサボるようになりました。当然ながら叱られましたけれど、やらずとも習得している事は結果として示していましたし、その頃には既に教師の暴力などは大凡の限度を見切っていましたから恐ろしくもありません。彼等は生徒に肉体的苦痛を与える事で統制しようとしていたのでしょうけれども、そんな行為が通用するのはチンパンジー擬きに対してのみ。「好きなだけ殴れば良い、しかしこんな痛みで意見は変えません。私の考えを変えたければ筋の通った理論を提示して下さい」と明確に告げれば、それ以上何をされる事もありませんでした。そして、小学生相手に筋の通った理論を示せない教師の腑甲斐なさに、私はその都度失望したものです。

 そんなくだらぬ学校での日々でしたけれど、楽しい事も少しはありました。私の通っていた小学校は、道徳教育推進校なる指定を受けていたようで、週に3回くらいは道徳の授業があったのです。道徳なんて物は民衆を支配者にとって都合の良い歯車に仕立て上げる為の方便だという認識でしたから、授業の度にそのように持論を展開し、教師もクラスメートもまとめて相手取るのが大好きでした。カスがどれだけ束になろうとも所詮はカスで敵では無く、足を引っ張る無能なゴミがいない孤独という身軽さを私は心から心地良いと感じていたものです。これらの経験で学んだのは、無能な味方の尻ぬぐいというのは面倒極まりないもので、それならば周囲全てを敵として闘った方が遙かに簡単だし気楽だ、という事でしょうか。幼い頃から今に至るまで、私は勝とうと考えて臨んだ論戦で兄以外に敗北した事は、ただの一度もありません。論理的に思考し覚悟を伴い行動し、その結果として波風が立つなら蹴散らして進む。私は闘争そのものも喜びであるという精神構造ですから、今も昔もそういう事が大好きです。

 さて、とりあえず意識の目覚めから小学校時代までを雑然と書き殴ってきましたけれども……要するに、蟻を潰す遊びなどはすぐに飽きるという事です。闘いというのは実力がある程度近くなければ面白くない、というのはセルの台詞だった気がしますが、これは正鵠を射ていると私は認識します。弱者を蹂躙するなどというのは所詮は闘いでは無く作業に類するもので、退屈でしかありません。己と同等以上の相手との、胸の内側がひりひりと熱くなるような闘争こそが素敵なのです。
 ちなみに子供の頃に教師達から幾度か言われた事に「大人になったら絶対に今の行動を後悔して先生に感謝する」とか「社会に出たら絶対に子供の頃のほうがずっと楽だった、あの頃に戻りたいと思うようになる」という台詞があります。私は現在、どちらも全くそうだとは思いません。幼い私に対して物の道理を論理的に示せず暴力で誤魔化した教師達はモノを教える職業には不適格で愚劣なゴミだと今でも認識しています。学校なんて、やりたくもない低レベルな作業を延々と繰り返すことを強要される監獄に他なりませんでした。自分の裁量でのぴのびと好き勝手が出来る現在の方が、比較にならぬ程に快適。ですから、あの頃に戻るなんて真っ平御免です。

主人公が才賀勝に見えます。

2015-10-05 | 中身
 さほど期待していなかった「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」が思いの外に面白く、嬉しい誤算でした。一話切りどころか第一話を眺め通す事さえ苦痛なゴミ作品が溢れる昨今、珍しく「早く次が観たい」と思わせてくれる出来栄え。
 ストーリーに関しましても私好みな予感がしますけれど、今後の展開はまだまだ未知数。ただし第一話における主人公機の登場としては実に正統派な……有り体に申し上げて格好良いと呼べるモノでした。手元のホヒージャパンによればガンダムフレームが72体存在するという事で、おそらくソロモンの72柱にちなんでいると予測します。個人的にはアスタロトやアモンが気になるところ。ラスボスはアスモデウスあたりと見せかけてヤハウェ或いはテトラグラマトンを持ってくるのではないかな、と。ミカエルやガブリエルなどの天使系機体まで出すと、幾ら何でも尺が足りないでしょう。

 何はともあれバンダイチャンネル等で第一話は無料配信されているようですし、今ならまだ間に合いますから眺めてみる事をお勧め致します。