夢と希望と

そして力と意志と覚悟があるなら、きっと何でも出来る。

理想的な殿方。

2015-09-29 | 中身
 幾度か公言しています通り、蟹座キャンサーの黄金聖闘士であるデスマスクこそは、我が初恋の相手と申し上げても過言では無い殿方です。まぁ厳密には兄に対しての方が先ではありましたけれど、このような類の事柄は、肉親をノーカウントとする慣例のようですしね。
 ところで彼のデスマスクという名、実は本名ではありません。

 このように、彼が守護する巨蟹宮全体に彼が殺した死者の顔が浮かび上がっている事に由来する異名という訳です。ちなみにデスマスクの本名は今に至るまで不明のまま、墓碑銘にさえデスマスクと刻まれていましたが……まぁ名前など所詮は缶詰のラベルのようなもの。何をどう貼ろうと内容物が変化する道理も無く、些細な事に過ぎません。
 さて、巨蟹宮を埋め尽くす死者の顔の中には相当数の幼い子供達も含まれていました。これを見咎め、詰問してきた青銅聖闘士のヒヨコ共に対する反応が白眉です。

 完全な正論であると私は認識します。例えば敵が市街地に潜んでいるとして、これを無人の採石場跡などに誘い出して倒す事にメリットなど皆無。逃亡でもされたなら余計な手間となりますし、そもそも敵に心理的にも物理的にも準備を整える時間を与える必要はありません。わざわざ身動きの取れぬ、回避行動もままならぬ場所に居てくれるのならば、有無を言わせぬ先制攻撃で葬り去るのが効率的ですし……その際に巻き添えになる連中などは、それこそ「悪を懲らしめる為の些細な犠牲」というモノです。
 また、仮に敵が女子供を人質として用いた場合を仮定してみましょうか。このような際も、人質など一顧だにせず諸共に殺すのが効果的かつ効率的な事は自明の理。なにしろ敵は余計な荷物を抱えていてくれるのですし、それどころか本来こちらに向けるべき武器を人質に使おうとしてくれているのですから大笑い、こんな好機を逃す手はありません。また、大局的に考えるならば人質の命を重んじて逡巡するなどはまさに愚の骨頂。人質作戦の効果があるとなれば、敵対勢力から今後無限に同じ事を繰り返されるに決まっているからです。故に、人質などというモノは敵自身の手足を縛る枷としかならず、一切の効果は見込めず、そんな事をするくらいならばまともに闘った方がまだ僅かなりとも勝機があると明確に思い知らせてやる必要があります。
 このような明々白々な道理にも関わらず「子供を巻き込むなんて出来ない!」などと惰弱な泣き言をほざくのは、当人の脆弱な精神を慰める効能しか無いのです。デスマスクのような精神的強者にそのような慰めは全く不要無用、何故ならば

 このように冷徹に事実を見据えているからです。生命というのは生まれたならば必ずくたばるのです。誰のどのような命であろうと例外無く、命そのものの価値は等しくゼロ。生きているだけで尊いなどという甘ったれた寝言には、何の力もありません。冷静冷徹に取捨選択する事で、寧ろ結果的に犠牲になる命は少ないとさえ言えましょう。

 そんなこんなで極めて合理的で冷静怜悧な認識を持つデスマスク。しかし世の中には、口先だけでクールを気取り実際には情に流されまくる水瓶座アクエリアスのカミュのような輩も大勢存在します。どのように大層な御題目も、実行出来ないのでは絵に描いた餅に過ぎません。そこで闘争の場におけるデスマスクの立ち居振舞いはどのようなモノかと言いますと……


 ……いつ見ても素敵です。巷には悪ぶってアヒャギャヒャ笑って殺戮行為に及んでおきながら、後になって「本当は誰も傷つけたくなんてなかった」とか「誰よりも優しいからこそ汚れた世界が許せなかった」とか愚にも付かない戯れ言をほざく連中が多いもので、私はそのような輩に対しては有り体に申し上げて反吐が出ます。しかし流石はデスマスク、そのようなつまらぬ欺瞞とは無縁の毅然とした態度と言えましょう。
 何かを為すには、力と意思と覚悟が必要です。力が無ければやり遂げる事が出来ず、意志が無ければやり始めることも出来ず、覚悟が無ければ成功しても失敗しても泣き言を喚き散らす事になります。どれ一つ欠けても、私が「惰弱なカス」と称する輩になり果てます。デスマスクは力と意思と覚悟を兼ね備えているが故に、己が殺した者の怨嗟など意に介さないのです。そもそも一度自分が仕留めた相手、何を恐れる必要などありましょうか。巻き添えになって死んだと言うのなら、そいつに力が無かったことが全て悪いのです。恨むなら、むざむざと殺された己の無力をこそ恨めばよろしい。そんな簡単な道理も弁えずトチ狂って迷い出て纏わり付いてくる鬱陶しい亡者共にトドメをくれてやるなんて、慈悲深いとさえ申し上げても良いような精神であると私は考えます。

 更にデスマスクが素敵な殿方である要素を挙げるならば、それは自律自尊の心です。彼は教皇シオンを殺害してなりすまし、その地位を奪った双子座ジェミニのサガの所業を全て知った上で、敢えてサガに忠誠を誓っています。アテナの聖闘士ともあろう者が、大逆の極みだと批判する方々が多いのも当然でしょう。まぁ仕方ありません、それというのもデスマスクはこのような流儀で生きているのですから。

 デスマスクは「世界に血と破滅と混沌をもたらす」だとか「己自身の栄達」だとか、そういったモノの為に闘っているのではありません。闘争の根底にあるのは「地上の愛と平和の為に」という聖闘士として当然の動機です。ただ、彼はその愛と平和がアテナの手によってのみ成し遂げられるとは考えていないというだけの事。善悪などは相対的なモノであって、所詮それぞれの都合に過ぎません。どのような正義を掲げても、全ては闘争に勝利しなければ寝言同然。だからこそデスマスクは、より強者であると判断したサガに加担したのです。アテナへの反逆も、何も考えず神に盲従するなど良しとせず、己の頭で考えて覚悟を伴い行動した結果というだけの事。力及ばず敗れはしましたが、己が己であるという事を貫いて死んだのですから立派なモノです。命じられるままに生きて命じられるままに死ぬ事に喜びを見出すような、飼い犬以下の奴隷根性の持ち主には不遜と映るのでしょうけれど……少なくとも私には、極めて魅力的であると感じられてなりません。いつぞやにも書きましたように、彼の子供ならば産みたいと願った程に、です。

 それにしても冗談一切抜きにこれだけ素敵な殿方ですのに、世間の評価などというモノは本当にあてになりません。与えられるままに従うのではなく、己の意志で思考し行動する。私もそのように生きて、くたばりたいものです。
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黄金魂感想。

2015-09-29 | 中身
 聖闘士星矢史上最悪の汚点、聳え立つ糞であるΩと比較するならば遙かに面白い作品でした。巷では旧作から変更されていない黄金聖闘士達の声について劣化している云々という意見も見受けられますけれども、12宮編を見返せばアイオリアもアイオロスも当時からあんなもんです。ただしシャカに限っては老化が顕著であり諸行無常の理を痛感させられました。そして逆にアルデバランは全くと言って良い程に声に昔と比べて変化が無く、玄田哲章という声優さんを改めて凄い人だと認識しました。
 さてΩと比べれば面白いと書きましたが、実はこれ、全く褒め言葉ではありません。Ωというのは掛け値無しにあらゆる意味で正真正銘最低最悪のゴミであり、人類屈指と自負する私の精神力を以てしても最終回まで見続けることが困難を極めた代物。それと比較して勝るなど当然であって、黄金聖闘士とアスガルドという最高の素材を使って制作されたアニメーションの出来映えとしては……まぁギリギリ及第点、といった所でしょうか。個人的な不満点を挙げてみると以下のようになります。

・作画の乱れ
 酷い回は本当にアレでした。黄金神聖衣のプロモーションとしても、もう少し頑張って頂きたかったところ。
・神闘士達が揃いも揃って雑魚ばかり
 とは言え所詮彼等は補欠の神闘士、予備であり二軍です。聖闘士で言う所の青銅二軍、つまり邪武や蛮に相当する連中……いえ、聖闘士でもなんでもない趣味のコスプレ集団に過ぎない暗黒聖闘士レベルでしょうから、黄金聖闘士を相手にむしろ健闘した方かも知れません。
・謎のリフィア推し
 オーディーンの地上代行者であるヒルダ様を差し置いて、このポンコツ娘が出しゃばりまくります。
・役に立たないオーディーン
 北欧神話主神としてアスガルドの危機に際して勇者を甦らせるなら、ジークフリートやシドのような正統の神闘士ではないでしょうか。自分の管轄外であるアテナの黄金聖闘士を復活させ、申し訳程度にオーディーンローブを与えましたが、このゴッドローブが全く役に立ちませんでした。付録のバルムンクの剣はアイオリアが空中戦を行う足場代わりに踏みまくられ、それもすぐに御役御免。あんな産廃が無くとも最初からドラウプニルさえあれば事足りました。やはりオーディーンサファイアを7つ集めないと、こいつは基本的にやる気にならないようです。

 このように色々書きましたが、まぁこれだけならば楽しかったと評価出来たのです。突っ込み所も昨今のアニメのように理不尽な域ではありませんし、黄金聖闘士達は一人を除いて格好良かったですし。では、何故それが「ギリギリ及第点」などという事になってしまったのかと言えば。

・デスマスクがおかしい

 この一点に尽きます!蟹座キャンサーのデスマスクは、黄金聖闘士12人の中で最強の戦闘力という訳ではありません。正面から闘えばおそらくサガやシャカには勝てないでしょう。しかし彼は紛れもなく、黄金聖闘士12人は言うに及ばず聖闘士星矢のあらゆる登場人物達の中で、最強の精神構造を誇っていた筈なのです。それが今作では、アスガルドで知り合ったつまらぬ小娘に情を移し、愛だの情だのといった惰弱な感情に我を忘れるという醜態を晒してしまいます。人情味のある魅力的でコミカルなキャラクターとして描こうとしたようですけれども、制作陣はデスマスクの素晴らしさを完全に取り違えているとしか思えません。あれでは凡百の、取るに足らない聖闘士でしかありませんもの。
 そんな訳で次回、デスマスクのどこがどう素敵な殿方なのかにつきまして、今一度しっかりと解説しようと思います。
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今週の刃牙。

2015-09-24 | 中身

 あのようにヒステリックな勇次郎は見たくありませんでした。というかですね、実際に戦場に君臨し米軍さえ蹴散らしてきたオーガともあろう者が、所詮は口先だけで実戦柔術とかほざいている雑魚に遅れをとる道理がありません。本部如きはオーガどころかガイアにだって瞬殺されるレベルでしょう。

 そもそも武蔵に日本刀持たせるなら、ガイアには近代兵器を使用させて然るべきです。どうしても剣術勝負を描きたいなら、上泉信綱のクローンでも持ってきて闘わせれば良いのではないでしょうか。どうもあの武蔵は、岩本虎眼にも勝てそうに無いように見受けられますけれども。
 
 ちなみに今週は、漫画の出来としても読者を舐めきっていました。冗談抜きに、
 
 こういうレベルです。
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両極の能力。

2015-09-01 | 中身

http://s.news.mynavi.jp/news/2015/08/20/753/

 およそ芸術家という方々は、論理よりも感性の方向にパラメータを割り振っているケースが大半を占めると私は認識しています。これは芸術に携わるからには特性上当然の事であり、そうする事でより素晴らしい作品を創造できるのであるならば、ロジカルである事の重要性は相対的に低いと言えましょう。
 そのような仕組みからでしょうか、芸術家の方々が語るアート論というモノは極めて抽象的である場合が多く、ロジックとして成立していない場合が殆どです。運良く共通する感性を持ち合わせた相手には伝わるのかも知れませんけれど、そうでない相手には言語的にも論理的にも破綻した内容にしか受け取れません。
 しかし上記のリンク先の文章は理知的かつ論理的でありながら、芸術という概念を私のように野蛮極まりない無粋な輩にも、ある程度理解させる事が可能な秀逸な逸品。悲しい事に最高学府の教授と言えど必ずしも賢い者ばかりではないという現実がありますが……この人からは深い知性と教養と情熱、そしてそれらを備えるが故の憤りを感じます。憤りながらも、その激情に身を任せず、きちんと伝わるようロジカルに組み上げて文章として成立させる能力を持っていらっしゃる、と。
 このような人は本当に稀有であり、そのような強さを私は心の底より尊敬いたします。
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