夢と希望と

そして力と意志と覚悟があるなら、きっと何でも出来る。

キルラキルという作品。

2014-03-31 | 中身
 前回の記事に対しての深雪さんの御意見、それを踏まえてより詳しくキルラキルにつきまして私の見解を述べさせて頂きましょう。
 まず最初に、私はこの作品を「佳作」であると認識しています。脚本・作画・演出などなかなかのレベルでまとまっていて、いずれも平均点は超える出来映えであるだろう、という事です。最終話まで録画して、放送日に眺めさせるだけのものではありました。
 では、その佳作に何故「がっかり」したのか。これを簡潔に表現するなら「私がキルラキルという作品を勝手に買い被り過ぎていた」という要因に集約されます。これを前提とした上で、深雪さんの御指摘に対する返答を行います。


・竜と蛆虫の定義について
 私が竜としたのは鬼龍院羅暁と針目縫、蛆虫としたのは纏流子とそれに与するその他大勢です。深雪さんの御指摘にもありますように、まずはこの竜と蛆虫の定義をはっきりと示しておかねば、議論の礎が定まりませんね。
 竜についての定義は、深雪さんの見解にほぼ異存ありません。流石に良く理解していらっしゃる。「揺らがぬ自我とそれを貫くだけの圧倒的な力を兼ね備える存在」を指して、この場合は竜と称します。揺らがぬ自我とは要するにつまらぬ事でぐだぐだと迷い悩んだりしない強靱な精神構造を持つ事、そして有象無象が定める規範など歯牙にも掛けず己自身の矜恃を最優先とする強固な自我を備える事です。そして、その自我を最後まで曲げずに闘うだけの力を保有していなければなりません。この二つのどちらが欠けても、私は「竜」と認識しません。
 一方で、蛆虫の定義とは。これは「惰弱な意思しか持たず現状の肯定しか行えず一人で立つ事も出来ない存在」を意味します。これに関しては力の多寡は関係ありません。弱く無害な蛆虫も危険で有毒な蛆虫も存在する、というだけの事です。醜く群れる連中こそが、私にとっての「蛆虫」という認識です。

 さて、このような定義に基づき登場人物を今一度眺めてみます。

 鬼龍院羅暁と針目縫、この両者は共に強固な自我を持ち、そして相応の力を備えています。故にこそ私はこの二人を「竜」と称しました。彼女達の目的については、私はどうでも良いと考えています。地球という惑星を1枚の布にするというのは生命繊維という種族の基本行動ですし、それに関しての是非など論じるだけ無駄な事。「闘って勝者が敗者を喰らう」という極めてシンプルな世界の理だけで解決する事に過ぎません。
 また、鬼龍院羅暁が人間と生命繊維を天秤にかけて生命繊維を選択したというのなら、それに対する他人の評価もまた、鬼龍院羅暁にとっては意味の無い事でしょう。竜とは基本的に、他者からの評価というモノに価値を見出しません。先述の通り、己以外の有象無象が定める規律規範など意に介さない矜恃と力を備えているのです。やりたい事をやりたいようにやり、邪魔するモノは何であろうと叩き潰し喰らい尽くす。それが竜というものです。 

 では、続きまして蛆虫サイド。まずは主人公の纏流子から。
 纏流子は極めて強い力を保有しています。しかし、精神が惰弱に過ぎます。己が生命繊維との融合体であって純粋な人間ではない等という、極めてつまらないくだらぬ事で悩み迷うのは単に「頭が悪い」で済ませても構いませんが、こいつが出来の悪い頭を捻った末に出した「世界はなんだかよくわからないもので出来ている」という認識こそが、私にとっては惰弱の極みであり不倶戴天ポイントです。
 世界には確かに人間の知識の及ばぬ事が多々存在しています。しかし、それらに対して「なんだかよくわからない」で済ませて受け入れるだけでは、気象の仕組みを理解せず生け贄を捧げて雨乞いの踊りを行う土人と変わりありません。病の原因を探らず加持祈祷に縋る無知蒙昧な連中と等しい精神性です。人の人たる強さとは、未知を未知のままとはせず、ひたすら貪欲に知識を探求し、未知を既知へと変えていく事にこそあると私は認識しています。そうであるからこそ人間は強靱な爪牙を持たずして陸を征し、魚に非ずして海を往き、鳥に非ずして空を舞い、神に非ずして天の星にさえ届くのだ、と。
 わけのわからぬ事をわけのわからぬままに済ませる事は思考の放棄です。現状への無抵抗な隷属であり、畜獣と変わらぬ行いであると私は考えます。
 更に流子は、劇中でもしつこい程に描写されているように、一人で立つ事が出来ない甘ったれたカスです。神衣鮮血や満艦飾マコと相互依存しなければ闘う事さえ出来ない脆弱な精神。たかだか争い滅ぼし奪い殺し合うだけの事に、一々御大層な理由を見つけなければ立っていられないその弱さは、蛆虫以下だとさえ感じられます。
 上記の理由を以て、私は纏流子を「危険で有毒な蛆虫」と認識します。

 次に、鬼龍院皐月につきまして。
 彼女に対しては、正直に言ってしまえば少々可哀想な評価をしたかも知れないという自覚があります。それは前の記事でも書きましたように、「男組」における神竜剛次との比較要素が入っているからです。神竜剛次は紛れもない「竜」でしたから、その彼と比較してしまえばより一層惰弱さが際立つのは当然の事。そんな訳で今一度改めて、鬼龍院皐月を眺めて行きましょう。
 力に関しては、鬼龍院皐月はお話にならないゴミです。根本的な資質として纏流子の足元にも及ばず、そもそも針目縫や鬼龍院羅暁と対等に闘えるレベルではありません。故に鬼龍院皐月は策を弄します。深雪さんの御指摘にあるように、本能寺学園を利用して手駒を揃えて鬼龍院羅暁に王手詰み、必至をかけようとしました。彼女の策というのは従順を装い己のテリトリーに鬼龍院羅暁を誘き寄せ、不意を突いて背中から刺すというモノでしたけれど、この策そのものを私は卑怯云々と批判はしません。ゴミはゴミなりに考えての事でしょうし、そもそも闘いに卑怯もヘッタクレもありはせず、ただ相対的強者が相対的弱者を喰らうだけのものなのですから。私が鬼龍院皐月を力のみならず精神に於いてカスと断じる理由は、そこではありません。
 では、何を以て私は鬼龍院皐月を蛆虫と断じたのか。それは彼女が己の策が敗れるや即座に有象無象の力に縋り始めたという、その一点に拠ります。元々彼女は一般生徒や大衆を「服を着た豚」と称していました。その認識に、私は概ね賛同します。大衆というものは、そのほぼ全てが豚も同然。理想も無く目先の欲を追い、力ある者に媚び諂い、他人より少しでも多くの餌を喰らう事しか考えないものです。喉元を過ぎればすぐに熱さを忘れ、同じ過ちを何度でも繰り返し、支配者から与えられるほんの僅かの悦楽に容易に膝を屈するのが大衆です。豚は百年経っても千年待っても豚のままであり、人間としての言葉をかけてやっても無駄な事。豚は鞭で叩き痛みと恐怖で律して場に引っ立てるしかないのです。鬼龍院皐月はそのような信念に基づき大衆を支配し、己の理想の為に使用しようとしているのだと思えばこそ、私は彼女をある程度評価していました。ところが、それは私のとんだ買い被り。所詮彼女も豚であり、豚であるが故に豚を救おうとしているに過ぎませんでした。だからこそ手駒の筈の豚と迎合可能なのです。
 そういう意味で、鬼龍院皐月は蛆虫というよりは豚と称するのがより正確かも知れません。無力な豚、それが鬼龍院皐月です。豚とは大衆の事であり、大衆が人類の9割以上を占めるからには「無力な人」と称しても構いませんが……こいつもまた、「なんだかよくわからないもの」を解明しようともせず賛美し始めた時点で人は人でも未開の土人レベル。蛆虫との差異は極めて小さいと言わざるを得ないと私は考えます。

 更に、本能寺学園四天王以下その他大勢。生命繊維を用いた極制服を着用しなければ戦力にならない、つまり敵である竜の鱗を拾って使わなければ闘えないような輩は力に於いて論じるに足らないゴミどもです。
 彼等の精神について言及すれば、人は服の為に生きるのではない等と言いながら、生命繊維の力は利用しようという訳で、それは一方的な搾取というもの。生命繊維が人類にやろうとしている事となんら変わりは無く、個々の力で劣る分、寧ろ卑しいとさえ私は感じます。卑しさとは醜さです。闘争の是非とは別の問題として、私は醜いものを好みません。
 ヌーディストビーチの面々に関しては、あいつら居なくても何も問題無かったでしょう。一生裸で野山を駆けていれば良いと思います。それこそ、畜獣のように。



・人が自分達の足で歩き始めるお話?
 このフレーズに私は大きな違和感を抱きます。
 何故ならば、鬼龍院羅暁を打ち倒したのは一匹の有毒蛆虫である纏流子であって、その他大勢の蛆虫の力など関与していないからです。神衣鮮血が他の生命繊維を吸収はしたのでしょう。それによって強くなったことは事実でしょう。しかし鬼龍院羅暁を打ち倒したのは生命繊維と融合した生命体である纏流子単身の力。徹頭徹尾大した役に立たず、最後は空を見上げるしか能が無かった連中が、自分達の脚で歩き始めるとは滑稽です。
 それどころか……ここは大魔王バーンが非常に適した言葉を残していますから引用しておきましょう。
「人間は最低だぞダイ。おまえ程の男が力を貸してやる価値など無い連中だ。そんな奴等の為に戦って……それで勝ってもどうなる…?…賭けても良い、余に勝って帰ってもおまえは必ず迫害される…!そういう連中だ人間とは。奴等が泣いて縋るのは自分が苦しい時だけだ。平和に慣れればすぐさま不平不満を言い始めよる。そして…おまえはすぐに英雄の座を追われる…勝った直後は少々感謝しても誰も純粋な人間でない者に頂点に立って欲しいとは思わない…!それが人間どもよ…!」
 こうなる事は明白ではないでしょうか?個人的好意を持っている満艦飾マコと鬼龍院皐月はいざ知らず、その他大勢にしてみれば、纏流子などは侵略生命体である生命繊維を内包した化け物に他なりません。最終回を眺めた限り一時的にヒロイックな気分に酔っ払っているようですが、酔いというのは醒めるモノ。所詮はつまらぬ誤魔化しに過ぎないと考えます。
 上記の理由から、より正確に言い直すなら私にとってキルラキルという物語は「弱い蛆虫共が強い蛆虫におんぶに抱っこで竜を斃すお話」という認識です。

 
 私は、竜が竜と闘い喰らい合う事を美しいと感じます。
 人が人たる強さをもって竜に挑み、竜を打ち負かす事も美しいと感じます。力及ばず敗れたとしても、その意思の輝きに敬意を抱きます。
 しかし、闘争の本質を見誤った認識の甘いカスの群がべたべたと唾臭く舐め合いながら竜に絡みつく様には嫌悪しかありません。そんな連中は滅びれば良いと思いますし、もしもそんな輩に斃されるのなら……私ならば比喩ではなく死を選択します。鬼龍院羅暁は竜としては驕りと油断が過ぎましたけれども、そういう意味に於いて最後の死に方だけは、わりとまともに竜であったと言えます。


 ……と、言いたい事を羅列するとこんな所ですね。
 で、勝者故の退屈ですか、はっはっは。どうあれ私に勝利した事は揺るぎない事実、勝者は存分に好きなように振る舞えば宜しい。ただし一言忠告をしておくならば……闘争そのものを愉悦として楽しみ続ける事も、私が定義する闘争の才能に含まれます。どうか努々油断などなさいませんように。油断した相手、衰えた相手を仕留める事は、少なくとも決闘における私の流儀ではありませんから。

竜と蛆虫。

2014-03-29 | 中身
 先程、キルラキルの最終回を眺め終えました。この作品、私が大好きな男組のオマージュとしか思えない部分も多々あり、とても期待していましたし実際途中までは楽しめたのですけれど……最後まで眺めた結果の感想を一言にまとめてしまうなら、「がっかりした」というフレーズになります。
 がっかりの要因は、色々と存在します。たとえば男組でいうところの神竜剛次である鬼龍院皐月が、影の総理的立ち位置の鬼龍院羅暁に単身では歯が立たないと知るや即座に主人公達と仲良く手に手を取って闘ってしまう見苦しさを露呈して、魅力が一気にゼロになったのも大きなマイナス要因。ちなみに神竜剛次は「俺を獅子に例えるなら、残念ながら部下共は犬ころの群」と豪語する矜恃と実力の持ち主です。最終的には主人公と決闘して敗れて死にましたが。
 まぁ余談はさておき最大の個人的反吐ポイントは、このキルラキルという作品が要するに「蛆虫共が寄って集って竜を斃すお話」だからです。蛆虫に感情移入なんて出来ませんし、竜も竜で驕りと油断から本来負けずに済む闘いに負けるという醜さ。見るに堪えないとはこの事で、自戒の材料にする以外の使い途はありません。

 一方で、少し先に最終回を迎えたウィッチクラフトワークス。こちらは当初、微塵も期待していなかった作品ですが、最後まで観た上での個人的評価は素晴らしく素敵。この物語は「竜が竜たる力を以て、小賢しく策を弄する蛆虫の群れを焼き払うお話」とでも言えましょうか。偏屈なこの私が全編通してストレス無く楽しむ事が出来たという意味でも希有な作品でした。
 どれくらい気に入ったかと言えば、とても久しぶりに円盤などを全巻予約してしまったくらい。青い円盤に限れば初めてだったりします。可愛いし面白いし、本当にお薦めです。劇中の台詞を一つ借りるなら、これ。
「最近の若者はカオスで良いのう、青春とは暴力じゃ!」

射法八節(笑)。

2014-03-27 | 中身
 艦これアニメの加賀さんイラストが、弓の構え方が出鱈目だ云々と弓道経験者に叩かれたようです。
 ちなみに私はかつて弓道部に所属して二段まで取りました。二段程度で知ったような口を叩くのは笑止な事ですが、敢えて言わせて頂くなら……
・そもそも加賀の弓は艦載機を射出する為のモノであり、直接照準で標的に矢を当てる事を目的としていない。
・つまり加賀の闘技は「弓道」でない事は言うに及ばず「弓術」でさえない。
・その異なる闘技に対して弓道の構えやら体捌きやらと異なっているとの指摘は見当違いも甚だしい。
 と、こんな感じでしょうか。
 ついでに言ってしまえば、走りながら撃つのは曲芸が過ぎる等の指摘は更に頭の悪い代物でして、空母は艦載機を発艦させる際、合成風力を得る為に風上に向かって進むもの。寧ろ正しい描写であるとさえ言える程です。
 根本的な問題として、回避も反撃もしてこない的をのんびり落ち着いて撃つのと、互いに命の取り合いをしている状況で撃ち合うのとでは求められる技術が異なります。戦場で肝心なのは自分に合った技法で迅速的確に敵を殺す事であり、画一的な型を杓子定規に堅持する事では無い訳で……そこの所を履き違えて、自分の尺度で無理に測ろうとするからみっともない事になるのではないかな、と感じますね。

決闘の結果。

2014-03-09 | 中身


 この私が、三本勝負を悉く落とすという失態。選出順を読み誤ったとか、命中90%の技が何度も外れたとか、そういった見苦しい言い訳をどれだけ述べようとも結果は一つ。総合力で敗北した、というだけの事です。
 アンティルールを採用した勝負でしたから、我が6Vポケモンを三匹+おまけで献上する事になりましたが、元より負ければ奪われ喰らわれるのが闘争の理。そんな些細な損失よりも、舐めた地の味、この身を焦がす屈辱……実に久しぶりです。素晴らしい、やはり闘いはこうでなくては。勝利の栄光を追い求める欲求と同等に、喫した敗北もまた糧として強くならねばなりません。
 本戦後に行った余戯のような2戦では勝利を拾いましたが、勝つべき時に勝たなければ、意味を持たぬもの。喰らい尽くされなかった幸運を活かし、這い蹲った地を速やかに蹴り、再び立ち上がり拳を鍛えます。

 しかし。
 今という瞬間を真摯に重ね、悔しかろうが悲しかろうが歩み続け、喰らったり喰らわれたりする。それが私の流儀ですけれども……私が私である限り、勝者への敬意と敗北の苦さは生涯忘れる事はないでしょう。
「これがッ!!!これがッ!!!これが正義かっ!!? 
より強い力でぶちのめされればおまえは満足なのかッ!!?
こんなものがっ…!!! こんなものが正義であってたまるかっ!!!!」
 というのは大魔王バーンをボコボコに殴りながら勇者ダイが口にした台詞ですが、私にとっては実にその通り。力とは正義ではなく真理と呼ぶのが正確であり、より強い力でぶちのめされたなら、私は満足なのです。

大好きな歌 その2。

2014-03-07 | 中身

卒業

作詞 岩男潤子 /作曲 HALNEN


茜色に染まる校舎に 二つの影落としてたあの頃
いつもとりとめのない話で 時間さえ忘れてたね

いくつもの夢を描いてた
「永遠」なんて言葉も信じた
でも風に舞うようにあなたは消えた 見上げた遠い空へ

憶えてますか私を
ありふれた日々 かけがえのない日々
今の私が歩いてゆくのは 人を愛すること教えてくれた
あなたがいたから

あれから私はこの街で いくつかの卒業を受け止めた
生きてゆくのに何が大切か 少しずつ見えてきたの

忘れないからあなたを
同じ気持ちでいられないけど
いつか二人が夢見たものは 形を変えて 言葉を変えて
私を導くの

そして時は過ぎてゆく 私は今を抱きしめる

憶えていてね私を
想い出でいい それだけでいい
あの日生まれた痛みはきっと 自分を愛する優しさになる

忘れないからあなたを
もう振り向かず生きてゆくため
あの日の空に言えなかったけれど
今日なら言える 本当にありがとう
そしてさよなら


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 私は天猛星ワイバーンのラダマンティスと同等か、或いは彼以上に音楽を解する耳というモノを持ち合わせていません。故にこの歌も旋律というよりは、歌詞に共感する部分が多い事が、お気に入りである要因です。いやまぁ曲も好きではありますけれども。
 生者必滅会者定離は世界の理ですから抗い難いもの。しかし人は、それさえも己の力として歩めるのだと私は認識しています。闘い、敗れ、喰らわれて息絶えるその瞬間まで。


絶望を啜り、憎しみを喰らい、悲しみの涙で喉を潤す。

2014-03-01 | 中身
 表題のように形容されたのはドラゴンクエストⅢにおける大魔王ゾーマです。昨今の魔王や大魔王共は「誰よりも優しい心を持つが故に人間の心の汚さに絶望した」とか「本当は平等で差別の無い世界を作りたかった」等と惰弱な動機で行動を起こしている場合も多く、有り体に申し上げて反吐が出るのですけれども……ゾーマは異なります。アレフガルドを一気に滅ぼさないのは人間達の絶望を楽しみたいからであり、勇者一行と闘うのもまた、人間達の最後の希望を自らの手で砕き散らす事により、更に上質で味わい深い愉悦を得る為です。動機は徹頭徹尾、私利私欲。そしてその私利私欲を聞こえの良い美辞麗句で飾る事なく、堂々と胸を張り貫いています。実に素晴らしい。

 そんなこんなで大魔王ゾーマに他人とは思えないシンパシーを感じたりもする私が、一週間後の3月9日にポケモンで決闘を行う事と相成りました。とりあえず、御相手には有名なこの言葉を贈っておくとしましょう。
「かしみあよ 何ゆえもがき 生きるのか? 滅びこそ我が喜び 死にゆく者こそ美しい。 さあ、我が腕の中で息絶えるがよい!」