前回の記事に対しての深雪さんの御意見、それを踏まえてより詳しくキルラキルにつきまして私の見解を述べさせて頂きましょう。
まず最初に、私はこの作品を「佳作」であると認識しています。脚本・作画・演出などなかなかのレベルでまとまっていて、いずれも平均点は超える出来映えであるだろう、という事です。最終話まで録画して、放送日に眺めさせるだけのものではありました。
では、その佳作に何故「がっかり」したのか。これを簡潔に表現するなら「私がキルラキルという作品を勝手に買い被り過ぎていた」という要因に集約されます。これを前提とした上で、深雪さんの御指摘に対する返答を行います。
・竜と蛆虫の定義について
私が竜としたのは鬼龍院羅暁と針目縫、蛆虫としたのは纏流子とそれに与するその他大勢です。深雪さんの御指摘にもありますように、まずはこの竜と蛆虫の定義をはっきりと示しておかねば、議論の礎が定まりませんね。
竜についての定義は、深雪さんの見解にほぼ異存ありません。流石に良く理解していらっしゃる。「揺らがぬ自我とそれを貫くだけの圧倒的な力を兼ね備える存在」を指して、この場合は竜と称します。揺らがぬ自我とは要するにつまらぬ事でぐだぐだと迷い悩んだりしない強靱な精神構造を持つ事、そして有象無象が定める規範など歯牙にも掛けず己自身の矜恃を最優先とする強固な自我を備える事です。そして、その自我を最後まで曲げずに闘うだけの力を保有していなければなりません。この二つのどちらが欠けても、私は「竜」と認識しません。
一方で、蛆虫の定義とは。これは「惰弱な意思しか持たず現状の肯定しか行えず一人で立つ事も出来ない存在」を意味します。これに関しては力の多寡は関係ありません。弱く無害な蛆虫も危険で有毒な蛆虫も存在する、というだけの事です。醜く群れる連中こそが、私にとっての「蛆虫」という認識です。
さて、このような定義に基づき登場人物を今一度眺めてみます。
鬼龍院羅暁と針目縫、この両者は共に強固な自我を持ち、そして相応の力を備えています。故にこそ私はこの二人を「竜」と称しました。彼女達の目的については、私はどうでも良いと考えています。地球という惑星を1枚の布にするというのは生命繊維という種族の基本行動ですし、それに関しての是非など論じるだけ無駄な事。「闘って勝者が敗者を喰らう」という極めてシンプルな世界の理だけで解決する事に過ぎません。
また、鬼龍院羅暁が人間と生命繊維を天秤にかけて生命繊維を選択したというのなら、それに対する他人の評価もまた、鬼龍院羅暁にとっては意味の無い事でしょう。竜とは基本的に、他者からの評価というモノに価値を見出しません。先述の通り、己以外の有象無象が定める規律規範など意に介さない矜恃と力を備えているのです。やりたい事をやりたいようにやり、邪魔するモノは何であろうと叩き潰し喰らい尽くす。それが竜というものです。
では、続きまして蛆虫サイド。まずは主人公の纏流子から。
纏流子は極めて強い力を保有しています。しかし、精神が惰弱に過ぎます。己が生命繊維との融合体であって純粋な人間ではない等という、極めてつまらないくだらぬ事で悩み迷うのは単に「頭が悪い」で済ませても構いませんが、こいつが出来の悪い頭を捻った末に出した「世界はなんだかよくわからないもので出来ている」という認識こそが、私にとっては惰弱の極みであり不倶戴天ポイントです。
世界には確かに人間の知識の及ばぬ事が多々存在しています。しかし、それらに対して「なんだかよくわからない」で済ませて受け入れるだけでは、気象の仕組みを理解せず生け贄を捧げて雨乞いの踊りを行う土人と変わりありません。病の原因を探らず加持祈祷に縋る無知蒙昧な連中と等しい精神性です。人の人たる強さとは、未知を未知のままとはせず、ひたすら貪欲に知識を探求し、未知を既知へと変えていく事にこそあると私は認識しています。そうであるからこそ人間は強靱な爪牙を持たずして陸を征し、魚に非ずして海を往き、鳥に非ずして空を舞い、神に非ずして天の星にさえ届くのだ、と。
わけのわからぬ事をわけのわからぬままに済ませる事は思考の放棄です。現状への無抵抗な隷属であり、畜獣と変わらぬ行いであると私は考えます。
更に流子は、劇中でもしつこい程に描写されているように、一人で立つ事が出来ない甘ったれたカスです。神衣鮮血や満艦飾マコと相互依存しなければ闘う事さえ出来ない脆弱な精神。たかだか争い滅ぼし奪い殺し合うだけの事に、一々御大層な理由を見つけなければ立っていられないその弱さは、蛆虫以下だとさえ感じられます。
上記の理由を以て、私は纏流子を「危険で有毒な蛆虫」と認識します。
次に、鬼龍院皐月につきまして。
彼女に対しては、正直に言ってしまえば少々可哀想な評価をしたかも知れないという自覚があります。それは前の記事でも書きましたように、「男組」における神竜剛次との比較要素が入っているからです。神竜剛次は紛れもない「竜」でしたから、その彼と比較してしまえばより一層惰弱さが際立つのは当然の事。そんな訳で今一度改めて、鬼龍院皐月を眺めて行きましょう。
力に関しては、鬼龍院皐月はお話にならないゴミです。根本的な資質として纏流子の足元にも及ばず、そもそも針目縫や鬼龍院羅暁と対等に闘えるレベルではありません。故に鬼龍院皐月は策を弄します。深雪さんの御指摘にあるように、本能寺学園を利用して手駒を揃えて鬼龍院羅暁に王手詰み、必至をかけようとしました。彼女の策というのは従順を装い己のテリトリーに鬼龍院羅暁を誘き寄せ、不意を突いて背中から刺すというモノでしたけれど、この策そのものを私は卑怯云々と批判はしません。ゴミはゴミなりに考えての事でしょうし、そもそも闘いに卑怯もヘッタクレもありはせず、ただ相対的強者が相対的弱者を喰らうだけのものなのですから。私が鬼龍院皐月を力のみならず精神に於いてカスと断じる理由は、そこではありません。
では、何を以て私は鬼龍院皐月を蛆虫と断じたのか。それは彼女が己の策が敗れるや即座に有象無象の力に縋り始めたという、その一点に拠ります。元々彼女は一般生徒や大衆を「服を着た豚」と称していました。その認識に、私は概ね賛同します。大衆というものは、そのほぼ全てが豚も同然。理想も無く目先の欲を追い、力ある者に媚び諂い、他人より少しでも多くの餌を喰らう事しか考えないものです。喉元を過ぎればすぐに熱さを忘れ、同じ過ちを何度でも繰り返し、支配者から与えられるほんの僅かの悦楽に容易に膝を屈するのが大衆です。豚は百年経っても千年待っても豚のままであり、人間としての言葉をかけてやっても無駄な事。豚は鞭で叩き痛みと恐怖で律して場に引っ立てるしかないのです。鬼龍院皐月はそのような信念に基づき大衆を支配し、己の理想の為に使用しようとしているのだと思えばこそ、私は彼女をある程度評価していました。ところが、それは私のとんだ買い被り。所詮彼女も豚であり、豚であるが故に豚を救おうとしているに過ぎませんでした。だからこそ手駒の筈の豚と迎合可能なのです。
そういう意味で、鬼龍院皐月は蛆虫というよりは豚と称するのがより正確かも知れません。無力な豚、それが鬼龍院皐月です。豚とは大衆の事であり、大衆が人類の9割以上を占めるからには「無力な人」と称しても構いませんが……こいつもまた、「なんだかよくわからないもの」を解明しようともせず賛美し始めた時点で人は人でも未開の土人レベル。蛆虫との差異は極めて小さいと言わざるを得ないと私は考えます。
更に、本能寺学園四天王以下その他大勢。生命繊維を用いた極制服を着用しなければ戦力にならない、つまり敵である竜の鱗を拾って使わなければ闘えないような輩は力に於いて論じるに足らないゴミどもです。
彼等の精神について言及すれば、人は服の為に生きるのではない等と言いながら、生命繊維の力は利用しようという訳で、それは一方的な搾取というもの。生命繊維が人類にやろうとしている事となんら変わりは無く、個々の力で劣る分、寧ろ卑しいとさえ私は感じます。卑しさとは醜さです。闘争の是非とは別の問題として、私は醜いものを好みません。
ヌーディストビーチの面々に関しては、あいつら居なくても何も問題無かったでしょう。一生裸で野山を駆けていれば良いと思います。それこそ、畜獣のように。
・人が自分達の足で歩き始めるお話?
このフレーズに私は大きな違和感を抱きます。
何故ならば、鬼龍院羅暁を打ち倒したのは一匹の有毒蛆虫である纏流子であって、その他大勢の蛆虫の力など関与していないからです。神衣鮮血が他の生命繊維を吸収はしたのでしょう。それによって強くなったことは事実でしょう。しかし鬼龍院羅暁を打ち倒したのは生命繊維と融合した生命体である纏流子単身の力。徹頭徹尾大した役に立たず、最後は空を見上げるしか能が無かった連中が、自分達の脚で歩き始めるとは滑稽です。
それどころか……ここは大魔王バーンが非常に適した言葉を残していますから引用しておきましょう。
「人間は最低だぞダイ。おまえ程の男が力を貸してやる価値など無い連中だ。そんな奴等の為に戦って……それで勝ってもどうなる…?…賭けても良い、余に勝って帰ってもおまえは必ず迫害される…!そういう連中だ人間とは。奴等が泣いて縋るのは自分が苦しい時だけだ。平和に慣れればすぐさま不平不満を言い始めよる。そして…おまえはすぐに英雄の座を追われる…勝った直後は少々感謝しても誰も純粋な人間でない者に頂点に立って欲しいとは思わない…!それが人間どもよ…!」
こうなる事は明白ではないでしょうか?個人的好意を持っている満艦飾マコと鬼龍院皐月はいざ知らず、その他大勢にしてみれば、纏流子などは侵略生命体である生命繊維を内包した化け物に他なりません。最終回を眺めた限り一時的にヒロイックな気分に酔っ払っているようですが、酔いというのは醒めるモノ。所詮はつまらぬ誤魔化しに過ぎないと考えます。
上記の理由から、より正確に言い直すなら私にとってキルラキルという物語は「弱い蛆虫共が強い蛆虫におんぶに抱っこで竜を斃すお話」という認識です。
私は、竜が竜と闘い喰らい合う事を美しいと感じます。
人が人たる強さをもって竜に挑み、竜を打ち負かす事も美しいと感じます。力及ばず敗れたとしても、その意思の輝きに敬意を抱きます。
しかし、闘争の本質を見誤った認識の甘いカスの群がべたべたと唾臭く舐め合いながら竜に絡みつく様には嫌悪しかありません。そんな連中は滅びれば良いと思いますし、もしもそんな輩に斃されるのなら……私ならば比喩ではなく死を選択します。鬼龍院羅暁は竜としては驕りと油断が過ぎましたけれども、そういう意味に於いて最後の死に方だけは、わりとまともに竜であったと言えます。
……と、言いたい事を羅列するとこんな所ですね。
で、勝者故の退屈ですか、はっはっは。どうあれ私に勝利した事は揺るぎない事実、勝者は存分に好きなように振る舞えば宜しい。ただし一言忠告をしておくならば……闘争そのものを愉悦として楽しみ続ける事も、私が定義する闘争の才能に含まれます。どうか努々油断などなさいませんように。油断した相手、衰えた相手を仕留める事は、少なくとも決闘における私の流儀ではありませんから。
まず最初に、私はこの作品を「佳作」であると認識しています。脚本・作画・演出などなかなかのレベルでまとまっていて、いずれも平均点は超える出来映えであるだろう、という事です。最終話まで録画して、放送日に眺めさせるだけのものではありました。
では、その佳作に何故「がっかり」したのか。これを簡潔に表現するなら「私がキルラキルという作品を勝手に買い被り過ぎていた」という要因に集約されます。これを前提とした上で、深雪さんの御指摘に対する返答を行います。
・竜と蛆虫の定義について
私が竜としたのは鬼龍院羅暁と針目縫、蛆虫としたのは纏流子とそれに与するその他大勢です。深雪さんの御指摘にもありますように、まずはこの竜と蛆虫の定義をはっきりと示しておかねば、議論の礎が定まりませんね。
竜についての定義は、深雪さんの見解にほぼ異存ありません。流石に良く理解していらっしゃる。「揺らがぬ自我とそれを貫くだけの圧倒的な力を兼ね備える存在」を指して、この場合は竜と称します。揺らがぬ自我とは要するにつまらぬ事でぐだぐだと迷い悩んだりしない強靱な精神構造を持つ事、そして有象無象が定める規範など歯牙にも掛けず己自身の矜恃を最優先とする強固な自我を備える事です。そして、その自我を最後まで曲げずに闘うだけの力を保有していなければなりません。この二つのどちらが欠けても、私は「竜」と認識しません。
一方で、蛆虫の定義とは。これは「惰弱な意思しか持たず現状の肯定しか行えず一人で立つ事も出来ない存在」を意味します。これに関しては力の多寡は関係ありません。弱く無害な蛆虫も危険で有毒な蛆虫も存在する、というだけの事です。醜く群れる連中こそが、私にとっての「蛆虫」という認識です。
さて、このような定義に基づき登場人物を今一度眺めてみます。
鬼龍院羅暁と針目縫、この両者は共に強固な自我を持ち、そして相応の力を備えています。故にこそ私はこの二人を「竜」と称しました。彼女達の目的については、私はどうでも良いと考えています。地球という惑星を1枚の布にするというのは生命繊維という種族の基本行動ですし、それに関しての是非など論じるだけ無駄な事。「闘って勝者が敗者を喰らう」という極めてシンプルな世界の理だけで解決する事に過ぎません。
また、鬼龍院羅暁が人間と生命繊維を天秤にかけて生命繊維を選択したというのなら、それに対する他人の評価もまた、鬼龍院羅暁にとっては意味の無い事でしょう。竜とは基本的に、他者からの評価というモノに価値を見出しません。先述の通り、己以外の有象無象が定める規律規範など意に介さない矜恃と力を備えているのです。やりたい事をやりたいようにやり、邪魔するモノは何であろうと叩き潰し喰らい尽くす。それが竜というものです。
では、続きまして蛆虫サイド。まずは主人公の纏流子から。
纏流子は極めて強い力を保有しています。しかし、精神が惰弱に過ぎます。己が生命繊維との融合体であって純粋な人間ではない等という、極めてつまらないくだらぬ事で悩み迷うのは単に「頭が悪い」で済ませても構いませんが、こいつが出来の悪い頭を捻った末に出した「世界はなんだかよくわからないもので出来ている」という認識こそが、私にとっては惰弱の極みであり不倶戴天ポイントです。
世界には確かに人間の知識の及ばぬ事が多々存在しています。しかし、それらに対して「なんだかよくわからない」で済ませて受け入れるだけでは、気象の仕組みを理解せず生け贄を捧げて雨乞いの踊りを行う土人と変わりありません。病の原因を探らず加持祈祷に縋る無知蒙昧な連中と等しい精神性です。人の人たる強さとは、未知を未知のままとはせず、ひたすら貪欲に知識を探求し、未知を既知へと変えていく事にこそあると私は認識しています。そうであるからこそ人間は強靱な爪牙を持たずして陸を征し、魚に非ずして海を往き、鳥に非ずして空を舞い、神に非ずして天の星にさえ届くのだ、と。
わけのわからぬ事をわけのわからぬままに済ませる事は思考の放棄です。現状への無抵抗な隷属であり、畜獣と変わらぬ行いであると私は考えます。
更に流子は、劇中でもしつこい程に描写されているように、一人で立つ事が出来ない甘ったれたカスです。神衣鮮血や満艦飾マコと相互依存しなければ闘う事さえ出来ない脆弱な精神。たかだか争い滅ぼし奪い殺し合うだけの事に、一々御大層な理由を見つけなければ立っていられないその弱さは、蛆虫以下だとさえ感じられます。
上記の理由を以て、私は纏流子を「危険で有毒な蛆虫」と認識します。
次に、鬼龍院皐月につきまして。
彼女に対しては、正直に言ってしまえば少々可哀想な評価をしたかも知れないという自覚があります。それは前の記事でも書きましたように、「男組」における神竜剛次との比較要素が入っているからです。神竜剛次は紛れもない「竜」でしたから、その彼と比較してしまえばより一層惰弱さが際立つのは当然の事。そんな訳で今一度改めて、鬼龍院皐月を眺めて行きましょう。
力に関しては、鬼龍院皐月はお話にならないゴミです。根本的な資質として纏流子の足元にも及ばず、そもそも針目縫や鬼龍院羅暁と対等に闘えるレベルではありません。故に鬼龍院皐月は策を弄します。深雪さんの御指摘にあるように、本能寺学園を利用して手駒を揃えて鬼龍院羅暁に王手詰み、必至をかけようとしました。彼女の策というのは従順を装い己のテリトリーに鬼龍院羅暁を誘き寄せ、不意を突いて背中から刺すというモノでしたけれど、この策そのものを私は卑怯云々と批判はしません。ゴミはゴミなりに考えての事でしょうし、そもそも闘いに卑怯もヘッタクレもありはせず、ただ相対的強者が相対的弱者を喰らうだけのものなのですから。私が鬼龍院皐月を力のみならず精神に於いてカスと断じる理由は、そこではありません。
では、何を以て私は鬼龍院皐月を蛆虫と断じたのか。それは彼女が己の策が敗れるや即座に有象無象の力に縋り始めたという、その一点に拠ります。元々彼女は一般生徒や大衆を「服を着た豚」と称していました。その認識に、私は概ね賛同します。大衆というものは、そのほぼ全てが豚も同然。理想も無く目先の欲を追い、力ある者に媚び諂い、他人より少しでも多くの餌を喰らう事しか考えないものです。喉元を過ぎればすぐに熱さを忘れ、同じ過ちを何度でも繰り返し、支配者から与えられるほんの僅かの悦楽に容易に膝を屈するのが大衆です。豚は百年経っても千年待っても豚のままであり、人間としての言葉をかけてやっても無駄な事。豚は鞭で叩き痛みと恐怖で律して場に引っ立てるしかないのです。鬼龍院皐月はそのような信念に基づき大衆を支配し、己の理想の為に使用しようとしているのだと思えばこそ、私は彼女をある程度評価していました。ところが、それは私のとんだ買い被り。所詮彼女も豚であり、豚であるが故に豚を救おうとしているに過ぎませんでした。だからこそ手駒の筈の豚と迎合可能なのです。
そういう意味で、鬼龍院皐月は蛆虫というよりは豚と称するのがより正確かも知れません。無力な豚、それが鬼龍院皐月です。豚とは大衆の事であり、大衆が人類の9割以上を占めるからには「無力な人」と称しても構いませんが……こいつもまた、「なんだかよくわからないもの」を解明しようともせず賛美し始めた時点で人は人でも未開の土人レベル。蛆虫との差異は極めて小さいと言わざるを得ないと私は考えます。
更に、本能寺学園四天王以下その他大勢。生命繊維を用いた極制服を着用しなければ戦力にならない、つまり敵である竜の鱗を拾って使わなければ闘えないような輩は力に於いて論じるに足らないゴミどもです。
彼等の精神について言及すれば、人は服の為に生きるのではない等と言いながら、生命繊維の力は利用しようという訳で、それは一方的な搾取というもの。生命繊維が人類にやろうとしている事となんら変わりは無く、個々の力で劣る分、寧ろ卑しいとさえ私は感じます。卑しさとは醜さです。闘争の是非とは別の問題として、私は醜いものを好みません。
ヌーディストビーチの面々に関しては、あいつら居なくても何も問題無かったでしょう。一生裸で野山を駆けていれば良いと思います。それこそ、畜獣のように。
・人が自分達の足で歩き始めるお話?
このフレーズに私は大きな違和感を抱きます。
何故ならば、鬼龍院羅暁を打ち倒したのは一匹の有毒蛆虫である纏流子であって、その他大勢の蛆虫の力など関与していないからです。神衣鮮血が他の生命繊維を吸収はしたのでしょう。それによって強くなったことは事実でしょう。しかし鬼龍院羅暁を打ち倒したのは生命繊維と融合した生命体である纏流子単身の力。徹頭徹尾大した役に立たず、最後は空を見上げるしか能が無かった連中が、自分達の脚で歩き始めるとは滑稽です。
それどころか……ここは大魔王バーンが非常に適した言葉を残していますから引用しておきましょう。
「人間は最低だぞダイ。おまえ程の男が力を貸してやる価値など無い連中だ。そんな奴等の為に戦って……それで勝ってもどうなる…?…賭けても良い、余に勝って帰ってもおまえは必ず迫害される…!そういう連中だ人間とは。奴等が泣いて縋るのは自分が苦しい時だけだ。平和に慣れればすぐさま不平不満を言い始めよる。そして…おまえはすぐに英雄の座を追われる…勝った直後は少々感謝しても誰も純粋な人間でない者に頂点に立って欲しいとは思わない…!それが人間どもよ…!」
こうなる事は明白ではないでしょうか?個人的好意を持っている満艦飾マコと鬼龍院皐月はいざ知らず、その他大勢にしてみれば、纏流子などは侵略生命体である生命繊維を内包した化け物に他なりません。最終回を眺めた限り一時的にヒロイックな気分に酔っ払っているようですが、酔いというのは醒めるモノ。所詮はつまらぬ誤魔化しに過ぎないと考えます。
上記の理由から、より正確に言い直すなら私にとってキルラキルという物語は「弱い蛆虫共が強い蛆虫におんぶに抱っこで竜を斃すお話」という認識です。
私は、竜が竜と闘い喰らい合う事を美しいと感じます。
人が人たる強さをもって竜に挑み、竜を打ち負かす事も美しいと感じます。力及ばず敗れたとしても、その意思の輝きに敬意を抱きます。
しかし、闘争の本質を見誤った認識の甘いカスの群がべたべたと唾臭く舐め合いながら竜に絡みつく様には嫌悪しかありません。そんな連中は滅びれば良いと思いますし、もしもそんな輩に斃されるのなら……私ならば比喩ではなく死を選択します。鬼龍院羅暁は竜としては驕りと油断が過ぎましたけれども、そういう意味に於いて最後の死に方だけは、わりとまともに竜であったと言えます。
……と、言いたい事を羅列するとこんな所ですね。
で、勝者故の退屈ですか、はっはっは。どうあれ私に勝利した事は揺るぎない事実、勝者は存分に好きなように振る舞えば宜しい。ただし一言忠告をしておくならば……闘争そのものを愉悦として楽しみ続ける事も、私が定義する闘争の才能に含まれます。どうか努々油断などなさいませんように。油断した相手、衰えた相手を仕留める事は、少なくとも決闘における私の流儀ではありませんから。