夢と希望と

そして力と意志と覚悟があるなら、きっと何でも出来る。

珍しくSCEに好意的な文章等を。

2011-01-21 | 中身
 とりあえず3DSの予約も無事に済み、心穏やかに2月26日を迎えられそうで一安心です。ま、私が何をした訳でもなく弟に「予約しといて」と単に丸投げしただけではありますけれど、こういう事に関してのみ、あれは如才ない男ですから適材適所という物で。

 そういえばその愚弟曰く、最近PSPが飛ぶように売れているのだとか。これはモンスターハンターポータブル3による効果が大である事は明白ですが、もう一つ、興味深い要素があるように思えます。
 それは新年早々に公開された、PS3のルートキー。これはPS3におけるセキュリティ全ての権限を司る重要極まりない物で、通常は変動する乱数錠を複数組み合わせる等して秘匿する、文字通りシステムの鍵と呼べる代物です。
 で、そのルートキーがハッカーによって割り出されてしまった訳ですね。元はと言えばPS3の機能の一つとして吹聴していたLinux等のOtherOSインストール機能を、システムの脆弱性を招くとしてSCEがアップデートにより削除してしまった事が発端でした。これに怒った方々が法に則った行動としては訴訟を起こし、その一方で実力行使としてPS3のハックを試みたという流れです。
 しかし通常なら前述の通り、ルートキーという物は非常に強固に護られていて、易々と発見出来る物ではありません。それが何故今回、あっさり露見してしまったかと申しますと……これがまたどうしようもない事に、変動しない固定数の錠を用いていたという事らしく。まぁそんな物、突破されない方がおかしい訳です。寧ろそんなので保護しようとしてたSCEの頭がおかしいです。
 兎にも角にも結果としてSCEは藪を突いて蛇どころか竜を出してしまい、PS3は今現在、本体の物理的な改造なしにUSBメモリ一つで可逆的なカスタムファームウェアの導入が可能となりました。コピーソフトの起動は言うに及ばず、ISO起動、オンライン・オフラインを問わずゲーム中でのチートなど、やりたい放題。これは長期的に見れば荒涼とした未来があるのみですが、短期的に見た場合、非常に魅力的です。なんとなれば、3万円程度でPS3さえ買ってしまえば後は無料でPS3の全てのゲームを遊べるような物ですので。
 ちなみにコレはルートキーというシステムの中核を利用されてしまっている為、オンラインアップデートなどでは塞ぐ事の出来ない致命的な状態です。仮にルートキーを変更などしよう物なら、今度はこれまでに発売されている全てのゲームが使用不可になってしまう訳で、有り体に申し上げれば王手詰み。無論こんなセキュリティ的に危ない物はネットに繋いでおけないので、私はさっさとルータから切断しています。
 と、まぁ此処まででもかなりヤバい状況なのは伝わると思うのですが、泣きっ面に蜂とはこの事で、まだ終わりません。PS3というのはPSPと連携するマシンでして、そのPS3のルートキーが割れるという事は、とりもなおさず連動してPSPも丸裸になるという事。
 PSPは発売当初からカスタムファームウェア制作者とSCEの壮絶な鼬ごっこが繰り広げられて来ました。その歴史は書き連ねると長くなりすぎますので割愛しますけれど、対策基板の導入により、最新のPSP3000においては恒常的なカスタムファームウェアの導入は不可能となっていました。電源を落とせば導入手順を一からやりなおさなくてはならないという、結構不便な代物しか存在せず、それさえも本体ファームウェアのヴァージョンによっては入れられないという、かなり限定的な物だったのです。
 ところが、今回のPS3ルートキー割れにより、PSPまで完全に丸裸となりました。何しろどんな自作プログラムにでも、「これはSCEが認めた正式なプログラムだよ」という署名を施せるのですから、防ぎようがありません。喩えるなら、これまでは警察の目を盗んで窃盗を行っていたのに対し、今は警察を名乗りつつ堂々と略奪が可能になったような物。かくしてPSPもPS3同様、非常に「使いでのある」ハードとなったという次第。巷では、これはSCE自身による焦土作戦的行為ではないかという説まで流れる程です。あそこは既に債務超過でソニー本社の管理下にありますし、本体を売り切りさえすれば良いという話であれば、まるで無いともいえない説なのがまた、生臭い所で。
 
 そんなこんなで。PSPとPS3、どちらもそのままでは大した役にも立たないガラクタ同然ですけれど、弄って遊べる環境が整った今となっては、それなりに楽しめる玩具です。

「好き」と「嫌い」と「正しさ」。

2011-01-04 | 中身
 新年早々空気を読んでも従わず、生臭いお話を一つ。

 それなりに前、週刊少年ジャンプであっさり打ち切られた「ツギハギ漂流作家」という作品の台詞ですので、知名度はあまり高くないかも知れませんけれど
「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ!」
 という言葉があります。
 そもそも何が好きで何が嫌いか等という事は単に嗜好の表明に過ぎず、それで自分を語るという御大層な物でもないと考えますが、要するに何かを嫌うというネガティヴな感情を表に出す事はみっともないし他人に不快感を与えるから控えた方が良い、という意味合いだと私は解釈しています。ぶっちゃけて申し上げるなら、自分が好きな物を誰かに貶されたら嫌だ、だから自分も貶さないようにしよう、と。
 しかしコレは私にしてみれば実に認識の甘い言葉で、闘争の才能を持ち合わせない上に覚悟も出来ていない惰弱なカスの泣き言としか聞こえません。
 自分を語る、己の意見を表明するという事は、それがネガティヴであろうとポジティヴであろうと一切合財関係なく、他人の感情と意見の干渉を受ける状態になるという事。そもそもネガティヴだのポジティヴだのという区分からして短絡的な思考であり、闘争の場において相手の刃が自分を害しそうだからと泣き叫いて何になりましょうか。誰にも批判されたくなければ意見なんて自身の胸の内に秘めておけば済む事であり、それを外部に向けて発信しておきながら、賛同だけを欲し、自分にとって好ましくない意見は封殺したい等とは笑止の極みです。
 批判であろうと賞賛であろうと、否定であろうと肯定であろうと、闘争ならば死力を尽くし全力で互いの胸を刺し合い抉り合い、息の根を止めるべく生臭く臨めば良いだけの事。それが出来ないのならばそもそも闘争には不向きなのだ……と申し上げたい所ではありますけれど、実はコレ、例外というものが存在します。
 それはつまり、「純粋な好きと嫌いに対しては、あらゆる理論理屈は無力である」という事です。
 具体的にどういう事か、今度はみさくらなんこつ氏の同人誌「ミーアちゃんの玉音放送」から引用してみましょう。
「理屈や歴史認識に基づく差別はグダグダと反証を持ち出されて泥沼になってしまうので大変だよー❤ 子供からお年寄りまでみんなでできる差別の基本は『毛嫌い』です!!『キモい』『うざい』ってはっきり言おう♪」
 ……とんでもなく酷い意見です。が、しかし私はコレに反論出来ません。個人が個人の主観として誰を好もうと嫌おうと、それは当人の勝手ですので。勿論、こうした意見を口にした相手に殴りかかって殺す事は可能でしょう。しかし紳士的に論破する事は未来永劫永遠に不可能。この意見には、議論の基盤となる論旨が存在しないが故に。
 人というのは基本的に何か行動を起こす際に大義名分を求める物です。他人に己の正しさを訴え、自身の心を支えつつ味方を増やす為に、理論武装を行い「正しさ」が自分にあると主張する訳です。この理論武装が強固であれば闘いは有利になりますし、逆に不完全で穴がある代物ならば、其処を突かれて瓦解する可能性が高くなります。ところが、先程の意見は最初からこの理論武装を放棄して、己の主観のみを叫ぶモノ。これでは賛同者は集まり難いでしょうけれど、こう言われてしまっては、私としては「なるほど、それは貴方の勝手ですねぇ」としか言えません。その後、私の勝手としてどういう態度に出るかは兎も角として、論戦の余地は無いのです。
 この乱暴な意見は、闘争に於いて勝利する為には賢い手段ではありません。しかし敗北しない為の手段としては、非常に有効です。まさに無から転じて生を拾うという北斗神拳の奥義に通じる物があります。理論は理論に対してのみ有効な刃となり得るのであって、感情に対しては何ら効果を発揮しないのですから、少なくとも論戦で負ける事は一切無くなるのです。
 とどのつまりは要するに、まともなロジックを構築する事が出来ないのであれば、無理に論理立てて自分の正しさを主張しようとせず、ただ好きとか嫌いとか主観による感情だけを口にしていれば良いという事。好き嫌いは当人の自由ですけれど、正しさという物は議論の対象となるのです。「自分は正しい事をしている」という着心地の良い鎧は、自身を燃やす薪となる可能性を常に孕んでいる事を忘れてはいけません。
 無は砕けない、何も本気で愛さず憎まず取り組まず、全ての主張はその場限りの戯れ言、故にどんな状況でも痛みを感じない……これは我が愚弟の得意技でもありますが、完全に実行されると、なかなかに厄介なモノです。ま、闘争の才能に欠けている場合、どうしても他者の賛同という甘ったるい砂糖菓子を求めてしまう物なので、解っていても実行する事はかなり困難でしょうけれども。

新年。

2011-01-01 | 中身
 相も変わらず盆暮れ正月の存在しないヤクザな稼業ですので今ひとつ実感が湧きませんけれど、2011年ですねぇ。年が明けたからと言いましても何が変わるわけでもありませんが、だからこそ……私が私であり、お友達の皆様が皆様である限り、共に素敵な時を過ごせる事を願い、信じています。