夢と希望と

そして力と意志と覚悟があるなら、きっと何でも出来る。

「背教者ユリアヌス」読了。

2010-02-27 | 中身

 ローマの素晴らしさは寛容さにあり、人の素晴らしさは歩み続ける事にあるというユリアヌスの信条には心より同意するのですけれど、ならばキリスト教は言うに及ばずローマ神教さえも不必要であるように私には思えます。己の無知を認識する事と神の前に己の全てを擲つ事は似て非なるモノであり、物であろうと人であろうと神であろうと、己の力以外の何かを心の拠り所とする事は、その時点で既に惰弱である、と。
 更に言うなら、金糸の衣服に身を包み供回りを引き連れた宮廷理髪師は確かに無駄ですけれど、アポロン神殿に供える一日百頭の牛も同様に無駄です。折角無駄な支出を省き効率的な統治機構を作成しようという時に、信仰によって徹しきれないとは勿体ない事だと感じました。
 そして、一番強烈だったのはエウセビアさん。恋は盲目とは言いますが、嫉妬して離宮に引き籠もってたら好きな人の状況が不利になりましたとか洒落になりません。自分の存在が宮廷においてどれだけユリアヌスの後ろ楯として有益無類であるかを認識し、さっさとエウビウスに適当な難癖を付けて処刑しておいたらなら、どれだけ事が簡単に済んだでしょう。理知的でありながらも完全に理詰めでは行動出来ないところが可愛いと言えばその通りなのでしょうけれど、この辺りは昨今の萌えキャラにも通じる意図的な頭の悪さの香りがして、むぅと唸ってしまいました。

 ……等と悪態ばかり述べていますが、つまらない作品なら上中下巻を投げ出さずに読み通したりはしません。素敵な叙事詩であると思えばこそ、細かい所が気になってしまうという感じ。久しぶりに読み応えがあり、楽しい思索に誘ってくれる作品でした。

雪の想い出。

2010-02-03 | 中身
 先日、私が棲息している地域にも降雪がありました。窓を開き、暗い空から静かに舞い落ちる雪片をぼんやりと眺めていると無粋極まりない私でも若干センチメンタルな気分になるようで、まだ片手で歳を数えられた頃の事を思い出します。

 珍しく、かなりの積雪があった年でした。弟はまだ子供だけで外に連れ出せる歳ではありませんでしたから、兄と私でかまくらや雪だるまを作り、雪のトーチカを幾つも築いて雪合戦をして遊んだ日。それはもう楽しくて楽しくて、寒さなんて微塵も感じずに雪と戯れました。
 しかし関東の雪というものは儚いモノで、二日続いて降り続ける事は極めて稀ですし、翌日には大抵からりと晴れて融け始めてしまうもの。私は自分が作った雪だるまに名前を付けて可愛がるタイプでしたから、それが日に日に融けていってしまう事は……当時としてはとても、悲しい事でした。
 そこで私は帰りがけに、掌に乗るくらいの小さな雪だるまを作りました。大きな雪だるまの命をそれにこめるお呪いをして、家に持って帰って冷凍庫で保存しようと思ったのです。そうすれば、雪だるまは融けずに済む。そうすれば、この楽しい想い出も消える事はない。そう考えたのですね。
 ……冷凍庫の中の雪だるまは、確かに融けませんでした。ただ、数日を経る内にそれはもう大好きな雪だるまではなく、単なる氷の塊でしかなくなっていました。物理的な組成がどうのこうのではなく、私の心の内において。楽しかった想い出を不変とする輝かしい象徴である筈が、それは想い出の残滓を纏った干涸らびたミイラであるかのように思えてしまい……冷凍庫を開けるのが、日に日に辛くなっていきました。この辺りの心の動きは、説明してもあまり解って頂けません。やはり私の性根が酷薄という事なのでしょうかねぇ。
 そんなこんなで二週間ほど経過した日、冷凍庫の雪だるまは兄に取り出され、私の目の前で庭の土に置かれ、そしてシャベルで叩き壊されました。突然の事で、その時私は泣いてしまったのですけれど、実は悲しみよりも安堵感で満たされていたように思います。あぁ、これであの子を解放してあげられた、と。
 私はあまり泣き喚く子供ではなかったのですが、自分でも不思議なくらい涙が零れ続けて、どうして泣いているのかも解らなくて。両親が兄を叱る声や、つられて泣き出す弟の声などが遠くに聞こえて。
 どれくらいそうしていたかは、憶えていません。けれどやがて泣きやんだ私に、兄が告げた言葉は、今でもはっきりと記憶しています。兄はこう言いました。「次からは自分で壊せよ」、と。
 それ以来、私は想い出というモノを形に残す事を極力しないように心がけるようになりました。形に残そうとする余力があるなら、その分もその瞬間に注ぎ込もう、と。記憶は薄れて消えるかも知れないけれど、それで良い。想い出は消えない事に価値がある訳ではないのだ、と考えるようになりました。
 喩えるなら旅に出かけ未知の世界と遭遇した、その感動のお裾分けとしてお友達にお土産を贈るのは良いのです。お友達は実際にはそれらを体験していないのですから、感動を共有する為のよすがとして形のある品も有用でしょう。けれど、自分自身の為の記念写真は不要です。カメラを覗く暇があれば、己の目で見て心に刻めば済む事です。感動というのは、その瞬間に己の心が突き動かされる事が肝要なのであって、その余韻を未練がましく後生大事にしゃぶり続ける事は弱さであり、むしろ想い出を穢す事にもなりかねないと私は思うのです。
 無論、形として留め幾度となく振り返る事によって得られる新たな発見というモノもあるのでしょう。それはそれで素晴らしいものであり、誰かがそれを大切にする事を、私は咎めたりしません。ただ、私個人の嗜好として身軽である事が優先するというだけ。 

 等と徒然なるままに思案していたのですが、どうやらそのまま窓全開で眠りに落ちてしまったらしく、危うくフランダースの犬の最終回的な死に方をする所でした。まぁ眠るように安らかに死ぬなんてのは贅沢の極みですし、実際には寒くて目が覚めるというドラマチックでもなんでもない展開だったのですけれどね。