夢と希望と

そして力と意志と覚悟があるなら、きっと何でも出来る。

天空の破片

2007-04-28 | 中身
 先日、友人に付き合わされる形で池袋まで出向く事になりました。
 その友人というのが電車の中という公共の場で白昼堂々と「宮崎駿と高畑勲って、どっちが攻めだと思う?私は断然勲×駿なんだけど、あんた主人公攻めの傾向があるから、やっぱ勲×駿だったりするの?今度、勲&吾郎に辱められる駿の本作る予定なんだけど(以下省略)」とか口にする輩でして、まぁ俗に言う所の腐った女子というヤツだったり致します。そんな訳でK-BOOKSやらスワローテイルやら色々連れ回されて心身共に疲弊しまくり、唯一の心のオアシスである東急ハンズに足を踏み入れた時は、フルマラソン完走後にアクエリアスを口にした気分。やはり池袋ハンズの4階は心が和みますねぇ。

 と、前置きが長くなりましたけれど要するに今回は、東急ハンズの工具・塗料フロアで素晴らしい塗料を発見して幸せ、という事が言いたいだけなのです。
 その名もウルトラマリンブルーという色でして、これは古代ローマの博物学者プリニウスが「星の煌めく天空の破片」と讃えた貴石ラピスラズリを砕き、乳鉢で微細な粉末状にしたものを溶液に溶かしてから上澄みを捨てる事を繰り返して純化し、それを植物油脂で溶く事で完成する顔料。昔は純金以上の価値を持っていたという極めて稀少な絵の具でした。
 現在では合成ウルトラマリンの普及もあり、またラピスラズリ自体も珍しい物では無くなりましたから、絵の具としてのウルトラマリンブルーの入手は難しいコトではありません。以前一度、原石を砕いて自作した事もありますし。
 しかし、肝心な事は今回発見したウルトラマリンブルーが、油絵の具ではなく汎用性の高いラッカー系塗料だという事。念願のこの色を手に入れたからには、あんな物やこんな物を作る事が可能となる訳で……うふふふふふふ。思いきり楽しみです。

 ところで、天空の破片から精製されるのにウルトラ「マリン」ブルーとは、これ如何に。そこは「スカイ」では、なんて思ってしまうのですけれど。
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魅力、ということ。

2007-04-22 | 静流
 天には清涼な風が舞い、大地には瑞々しい生命力が満ち溢れ、新たな命の流れの礎となる煌めきが眩しい季節となりました。太陽との相対的な位置関係がどのような物であるか、それによって生命体の本質が変化する訳ではありませんけれど……それでも人は幾度と無く繰り返される季節の中に、常に新たな何かを見出す事が出来る生命体なのだと、私は信じています。

 さて唐突ではありますけれど、皆様は今……この瞬間、幸せでしょうか。
実は、こう問いかけさせて頂きますと「普通」とお答えになられる方がとても多かったり致します。特に幸せでも不幸でも無い、楽しくもつまらなくも無い、普通だ、と。
 でも、私は思うのです。「普通」とは、とても寂しい状態であると。
 普通とはつまり、澱みです。何事もなく平穏、という事です。この状態は、実は「退屈」と非常に近しい物であり、退屈は人の魅力を半減させてしまいます。水は澱めば腐る物であり、それは人の心もまた同じなのですから。
 では此処で再び唐突ですけれど、人が身に付け得る、当人の魅力を最大限に発揮する最高のアクセサリとは何でしょうか。
 それは高価な貴金属でも宝石でもなく、「上機嫌である事」だと私は考えます。
 これは即ち、心という器の内部に於いて常に新鮮な流れを維持する事で、平穏無事な日常の中に変化を見出し、感動を忘れないという事。世界を感じ、楽しみ、自らも動き、共に流れ、二度とは戻らぬ一瞬を心に刻むなら、退屈なんていう感情とは無縁で居る事が出来るのではないでしょうか。
 「普通」の一日なんて、何処にも存在しません。どんな一日も、どんな一瞬も、かけがえのない大切な時間。それらを得る喜びを忘れず胸に抱き歩むなら、世界は常に新鮮な輝きに満ち溢れている筈です。

 そして、輝きを失わない心にこそ、幸せは映るもの。
 人の魅力を引き出す最高のアクセサリは、自分自身の心の内にこそ存在しているのではないか、と……私は、思うのです。
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ちょっぴりマニアックな話・その3(3だけに燦ちっくに)

2007-04-17 | 中身
 燦から雷皇天葬八陽閃でも喰らいそうな最低のタイトルセンスですが、それはソレと致しまして。
 ひぐらしを罵倒したり文明社会に唾吐いたりと、気が付けば何やら引っ越してから立て続けに「嫌いな物」について語っていました。好きと嫌いは相反する感情ではありませんけれど、やはり此処は一つバランスをとる意味も兼ねて「好きな物」についても述べておきましょう。
 私が好きな物と言っても多種多様であり、たとえば殿方ならばオフレッサー上級大将とか大好きですが、ひぐらしに対するバランスという意味ならば作品を挙げるのが筋かも知れません。そこで今回取り上げるのは「アニメ版餓狼伝説2」です。
 はい、もぅ凄くマニアックですね。古い作品ですし、当時からかなり酷評されていた代物です。故にこの記事をご覧になられても意味不明という方が大多数ではないでしょうか。
 ……あ、ちなみに全く他意はありませんけれど、私が個人的に使っているファイル置き場のURLを突然ですが忘れないように此処にメモしておきましょう。
http://www.filebank.co.jp/guest/arvelirde/sun
 パスワードは「燦の私書箱」にしておけば万全ですね。これで攻殻機動隊に出てくるような凄腕クラッカーでも破れますまい。


 この作品の魅力の第一は、まず何と言ってもクラウザーとギースの格好良さ。これに尽きます。声を担当なさっているのが鈴置洋孝・柴田秀勝の両氏というだけでも卒倒モノですが、二人とも悪役の鑑的立ち居振る舞いです。特にクラウザーは、テリーが師匠から伝授されて必死に会得した最終奥義を初見で見切って模倣し、しかも本家を凌駕する威力を見せつけるという天才キャラの真骨頂を発揮していますし、今見ても痺れます。ちなみにずっと以前に静流がパイプオルガン弾きながら敵を出迎えるという構想を語った事がありましたけれど……えぇ、思いきりクラウザーの真似ですとも。まぁ時雨が前作(?)で敗れた後に山奥に篭もり、色々あった挙げ句に配下の者から連絡を受けて「くっくっく、愚かなり風祭万里……!」とかやるのも素敵かも知れませんが。

 そして第二に、闘争を綺麗事で飾っていない、というのも個人的に極めて高評価です。人というのは己の心にかかる負担を少しでも軽減する為に、たかだか互いに殺し合う程度の事に御大層な御題目を用意したがる生き物ですけれど、度が過ぎたなら鬱陶しいだけです。大抵の場合において闘争なんてモノは、「やりたいからやる」で充分なのですから。
 兄弟であろうと勝利を掴む為には喰らい合う餓狼と化し、大義の為でも無く誰かの為でも無く、ただ己の満足の為に闘いを欲し、遂行する。大仰な必殺技を撃ち合ってもソレで決着する事は無く、ただ陰惨で地味な殴り合いで勝敗が決する。勝っても誰の祝福を受ける事も無く、他人には呆れられ、更なる闘争の始まりにしかならない。正義だから勝つのでは無く、愛する者が居るから勝つのでは無く、絆の力があるから勝つのでも無く、単純に強いから勝つ。そして勝者は敗者から奪う。えぇ、闘争というモノの本質を良く描いています。だからこそ強くならなければならないのだと、常に己を磨き続けなければならないのだと、再認識させてくれます。

 まぁ確かに突っ込み所も山程あります。パワーウエイブ一発で大森林を焼き払ったり、ブリッツボール一発でジョー東が瀕死の重傷を負ったり、その割に超必殺技である筈の超裂破弾は妙に地味だったり、パワーゲイザーとカイザーウエイブが共に地を這う技になっていたりと、原作ゲームとは異なる部分も多々見られ……というよりも異なる部分だらけ。話の流れも、真っ当な人間が見たならば「何だコレ」という物なのかも知れません。
 しかし昨今の、萌えやら燃えやらで闘争の本質を包み隠して仮初めの陶酔に浸るような喉越しの良い作品に対して反射的に反吐が出そうになる者にとっては、コレは紛れもない大傑作なのです。


 あ、狼といえば……って餓狼伝説と直接的には全く関係ありませんけれど、今現在プレイ中の「ファイアーエムブレム 暁の女神」に登場する狼女王ニケさんが、個人的に途轍もなく好み。思わず「喰い殺されたいなぁ」等と呟いてしまっていました。強い相手と全力で闘い、敗れて喰われて血肉になるって素敵だと思いませんか?
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獣の戯れ言

2007-04-13 | 中身
 前回は、私が大好きな物語である「蛮勇引力」から特に印象的な文章を抜粋して記させて頂きました。敢えて私個人の言葉を添えなかったのは、余分な要素を介在させない事で、よりピュアな印象を感じて欲しかったという理由に拠ります。

 「蛮勇引力」は実に反社会的な物語です。人類が築き上げた文明というシステムに対して真っ向から喧嘩を挑み、己の矜持の為に人類愛も公共の福祉も打ち砕こうとする一人の男の生き様を描いています。世が世なら発禁処分となっても不思議では無い程にアナーキーな内容であり、世間一般の「良識ある大人」は眉を顰める事でしょう。
 しかし、私はこの漫画が本当に大好きです。
 良識なんてモノは、それを備えさせなければ社会の歯車として機能し難いという理由から画一化の為に強制される御題目であり、個人の矜持の前には塵芥程の価値も持たないと、私は考えています。
 人が寄り添い、協調し譲り合い花を持ち合い持たせ合い、己を殺しながら力を合わせて何かを築き上げる。それはソレで有意義な事だとは思います。一々反発したりはしませんし、どこか遠くで好きにすれば宜しい。しかし、それが正しい、それだけが正しいと唱え上げて私個人の領域を侵すなら……躊躇無く全力で刃向かい、そして勝つか負けるかして生きるか死ぬかしたい。そう願ってやみません。人類全体の幸せとか、公共の福祉だとか、ぶっちゃけた話として知った事では無いのです。
 私はただ、私自身と私にとって大切な人が幸せであればそれで良い。大切かどうかの基準は己の主観であり、その主観の為に命を懸けます。
 こういう人間は現代文明の立脚点からしてみれば、身勝手で我が儘で、協調性に欠け全体の統制を乱し、反社会的で利己的な害獣でしか無い事は承知しています。でも、自身の矜持を貫く事が出来ないのであるならば。私は跪いて周囲の慈悲を乞うなんて真っ平御免、私のままに縊り殺されたいのです。

 と、まぁこういう思考に嫌悪を感じる方は「蛮勇引力」は読まない事をお薦め致します。きっと、とても不愉快になるだけですから。
 逆に、もしも万に一つ……僅かにでも共感なさった方がいらっしゃるなら、是非是非、御一読下さいませ。きっと、お友達になる事が出来ると思います。
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拳、眼差し、志

2007-04-11 | 中身
犬は、鎖で繋がれる事で
生き延びる道を選んだ
狼は、奴隷になれぬが故に
絶滅に向かっている

鶏は、檻に入れられる事で
生き延びる道を選んだ
鷹は、大空を好むが故に
絶滅に向かっている

これは 狼や鷹の物語だ
愛だとか夢だとか成功だとか、
そんなものは押し流す太い野生の川を
泳ぐ者達の物語だ

遠い日に質に入れてしまった二本表道具
もう一度 取り戻しに行こう

蛮勇引力に導かれるまま

(山口貴由「蛮勇引力」一巻序文)


穏やかな黄河の流れの何処かに
龍門と呼ばれる激流があり
其処を潜り抜けた鯉だけが
龍になって天空に昇る事が出来る
一生に一度、誰もがその渦に出会うものの
避けて通る事も出来る難所、挑む者は万に一匹

俺達は今 龍門の中にいて
骨をも軋ませるうねりの中で
龍になる日を想い胸を焦がせている

俺達が敗れるのを、願っている奴に告ぐ
相見える日が何時になろうと
おまえに後ろを見せて
逃げ隠れする相手では決してない

(山口貴由「蛮勇引力」二巻序文)


男が男である時
言葉など使わなくとも
静かな眼差しだけで想いを伝える事が出来る

男が男である時
無限に枝別れした迷霧の岐路に立たされても
胸に秘めた志を松明にして
進むべき一本の道を照らす事が出来る

男が男である時
ただの夕映えに内なる力を奮い起こされ
武器などいらない、最後に落とし前をつけるのは
親から貰ったこの拳だけだと
本気で思う事が出来る

拳、眼差し、志、
そこに男の値打ちがあるのだ

(山口貴由「蛮勇引力」三巻序文)


何事かを成し遂げた男の魂は不死であり
何者かに成ろうとする若者の胸に それは宿る

支配者達は 便利という名の仮面をつけて
揺り籠から墓場に至る 人の暮らしのあらゆる場面で
その財産を幾重にも絞り取る社会を造り上げた

奴らが勝手に決めたものを
自ら望んで欲しいものと思い込み
奴隷である事も気付かないまま
ただ一度の人生を文明の檻の中で生きてゆく

覚めるに値しない世の中だ

鷹よ 
おまえの欲しいものは おまえだけが掴み取れる 何かだ
狼よ 
花や鳥や風と月と 共に生きよ

(山口貴由「蛮勇引力」四巻終文)
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「ひぐらしのなく頃に 祭」感想

2007-04-04 | 中身
 さて、予告通り今回は「ひぐらしのなく頃に 祭」について少々。私が書く以上は無論ネタバレ等に対する配慮なんて一切ありませんので御注意を。
 このゲームはそもそも同人ソフトであった「ひぐらしのなく頃に」シリーズを一本に纏めてオリジナルシナリオを追加した物らしいのですけれど、その内容は以下のような感じです。


 舞台は富山県あたりにあると思われる寒村、雛見沢。
 かつて鬼ヶ淵村とも呼ばれたこの土地には、ウイルス性の奇怪な風土病が存在する。これには村人のほぼ全員が潜在的に感染しており、有り体に言ってしまえば空気感染する精神病。発症すると極度の疑心暗鬼と被害妄想に捕らわれ攻撃性が増大し、更に患者本人の思い込みによって幻覚・幻聴が頻発、副次的な作用として首や手首などのリンパ腺に猛烈な痒みを覚え、最終的には頸動脈等を自ら掻き切る等の自傷行為によって死に至るという極めてアレな代物。しかも病原体は宿主の人間が死亡すると死後数時間以内に溶解し、司法解剖によっても検出不可能になるという、この物語の中核を占めるインチキ病。なお女王感染者と呼ばれる特定の感染者が死亡した場合、潜在感染者の全てが48時間以内に発症し末期を迎えるとされていた。
 高野一二三という研究者が昭和初期に雛見沢出身者の異常行動を研究した結果この風土病の存在を確信するに至り、当時の軍部にこれを軍事利用する事を名目として援助を求めるが、技術的問題もあり却下される。以後、通称雛見沢症候群は政府上層部によりその存在を秘匿され、高野一二三は失意の内に生涯を閉じた。
 なおこのウイルス性精神病雛見沢症候群は、大昔に雛見沢を訪れた外宇宙の高位知的生命体「羽入」が意図せずもたらしてしまった物。「羽入」はこれに一応の責任を感じて雛見沢に留まり、雛見沢症候群の拡散防止と撲滅に努めてきたが成功せず、私利私欲に満ちた村人達に愛想を尽かして精神体となり、今は古手梨花という少女に寄生している。単体でも任意で物質化して事象に直接影響を与える事が可能であるのみならず、他者の記憶を混乱させたり無線通信に対して割り込みをかけたり耳元で囁く事で思考誘導を行ったり千里眼を発揮したりとインチキ極まりない能力を持つ羽入だが、その真骨頂は他者と一時的に同化した際に現れる。他者と同化した羽入は止まった時間の中で宿主だけを行動可能にして弾丸を回避させるような事は朝飯前、宿主が死亡すれば記憶の大半を保持させたまま数年間に渡って時間を巻き戻したりと、本当にやりたい放題。雛見沢に伝わる「オヤシロさま信仰」のオヤシロさまとは羽入の事なのだが、まさに神と呼ばれるに相応しい超常存在といえる。

 物語は昭和58年の夏。
 幼くして両親を事故で失い過酷な施設で人間性を無視した扱いを受けていた所を先述の高野一二三に救われ、その恩義に報いる為に雛見沢症候群の研究に心血を注ぐ鷹野三四は大きな壁に直面していた。理由は鷹野三四のスポンサーである秘密政治結社「東京」が内部抗争による上層部刷新に伴い、雛見沢症候群研究の打ち切りと研究成果の破棄を求めて来た為。
 鷹野三四にとって、鷹野一二三の研究を引き継ぎ完結させて世に知らしめる事こそが恩返しでありライフワーク。故にスポンサーの決定は到底承服出来る筈は無く、八方手を尽くしてこの決定の撤回を求めるが、そもそも雛見沢症候群の研究を裏金の資金プールとしてのみ見ていた「東京」上層部が決定を覆す事はありえない。自らの才能と情熱の全てを投入していた研究が、政財界の古狸達の隠し金庫扱いであった事を知った鷹野三四は、それでも高野一二三と自らの名を歴史に刻もうと決意する。
 それは、雛見沢症候群の女王感染者である古手梨花が死亡した場合、他の感染者が集団発症するという極めて危険な事態を未然に防止して治安を維持する為に制定された緊急マニュアル34号を利用する事。雛見沢を封鎖して全感染者を自然災害に偽装した形で抹殺するというこのマニュアルを発動させる事で雛見沢症候群の名を永遠の物としよう、と。歴史の悲劇としてでも良い、恩義を受けた人の研究を決して闇に葬られてなるものか、と。
 持ち前の意志の強さと才覚を以て築き上げた計画は、完璧かと思われた。
 けれど鷹野三四ただ一つの誤算は、舞台となる雛見沢に超常存在オヤシロさま……つまり外宇宙からの来訪者にして幾多のインチキ能力を駆使する自称「神」、羽入がいたという事だった。鷹野三四が何度古手梨花を抹殺しようとも、古手梨花と同化した羽入は時を巻き戻して何度でもリトライを要求してくる。鷹野三四の記憶は引き継がれず古手梨花の記憶だけは累積されるという、あまりにも卑劣なルールに基づき、それでも己と恩人の誇りの為に闘い勝利を掴み続ける鷹野三四。
 そしてついに羽入は、曲がりなりにも傍観者であった立場を捨て、自らインチキ能力を行使しまくり積極的に鷹野三四を潰しにかかる。これまで古手梨花の友人達による絆の力にも屈する事が無かった鷹野三四だが、千里眼と思念誘導に加えて直接的に時間を操るという「神」の力の前には為す術も無く、膝を折る事となるのであった。


 ……まぁ本編では古手梨花サイドの視点で描かれているのですけれど、大体こんな流れです。
 一つ申し上げておきますが、私は「単体で圧倒的な力と意志を持った者が、単体では弱いけれど互いを信頼して助け合い予想外の力を発揮する者達に打ち倒される話」というのは大好きです。闘争の才能を持つと自称する者として、そんな最後を迎えられたら素敵だな、と常々思っていますし。
 しかし、このゲームは異なります。シナリオから感じ取れるのは「人はどう足掻いても神には勝てない」という諦観だけ。古手梨花一味が団結して向かってきても冷徹無比に粉砕した鷹野三四、その純粋で素敵な意志と力を捻伏せたのは、人ならざる羽入という「神」なのですから。あまつさえ羽入は敗北した鷹野三四に対して「私は神だから人の罪を許す事が出来る。あなたの罪を許そう」等とこの上ない程の侮辱の言葉を投げつけていたりもします。鷹野三四という女性は恵まれぬ境遇に屈する事なく、ただ己と恩人の誇りの為に歩み続けた人です。自らの力で神の座に至ろうと死力を尽くした人間に対して、それまでの行いを罪と断じる事は勝者の当然の権利として甘んじて受けもしましょうが、「許す」という言葉を以てその意義まで失わせるとは……読んでいて怒りのあまり眩暈を感じました。
 己以外の何かに「許し」等を求めるのは、つまり精神が惰弱であるという事。自身の行動に誇りがあるならば、誰の許しも必要無いのです。誰かに認められたいから行動するのではなく自分の矜持の為に行動するのなら、他者のどんな言葉もそよ風程度にしか感じないモノですし。
 が、劇中の鷹野三四は羽入の「許す」という言葉に屈服し、幼子のように泣き喚きます。この人の性格なら、そこは羽入に唾を吐きかけて自害でもするべきでしょうに。「人は神には屈するしかない。人は神の許し無しでは生きていけない」なんて主張をこうも胸糞悪い形で見せつけられたのは久しぶりでした。

 人の好みはそれぞれですから、こういう話が好きという人もいらっしゃるのでしょう。全ての人間が同じ嗜好なんて気味が悪いですし、どんな思想信条も私に直接影響しない限りは御自由に、と思っています。
 ただ、私個人の感想としては最後の展開だけが原因で最悪の部類に入るゲームでした。各キャラクタの造形や途中までの展開はそれなりに面白かったりしたので、より一層残念です。

 そして人それぞれとは申しましても弟は20年以上同じ屋根の下で生活していた訳で、私の嗜好を知らなかったとは言わせません。仕置きとして水月に思いきり膝蹴りか電撃大王のバックナンバー全部を廃品回収に出すかと二択を迫ったらノータイムで前者を選びやがりましたので、それで仕舞いとしましたけれど……痛みと共に色々と学んで欲しいモノです。
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そんな訳で。

2007-04-03 | 中身
 まぁ引っ越し程度で何が変わるというモノでもありません。つらつらと益体も無い事を気が向いた時に書き連ねるというスタンスですけれど、それでもお付き合い頂けるという奇特な方は思いきり歓迎致しますね。

 そういえば、先日弟にゲームを勧められまして。まぁ私の弟というのは昨今の軟弱なダメヲタクを絵に描いたようなクズ野郎で、愛読書が「電撃G’s magazine」やら「二次元ドリームマガジン」いう時点で推して知る事が出来てしまうアレな男。こいつは以前から奇跡のバーゲンセールみたいな甘ったれた作品ばかり勧めてくるので信用は奈落の底まで落ちていますから、当然最初は問答無用で突っぱねました。どれだけ見苦しく泣き叫いて縋り付こうと、それが肉親であっても憐憫の情を催す私ではありませんし。
 しかし今回は弟の勧め方が常軌を逸してしつこく、そしてノベル系のゲームですからさして手間もかかるまいと(つまり断り続けるよりも、さっさと済ませてしまった方が早かろうと)、プレイしてみる事になったのですけれど……。
 ……はっはっは。
 まぁある意味で凄いゲームでした。長くなりそうなのでまた改めて書きますが、簡単に申し上げると以下のような心境です。

「やってくれましたね、みなさん…
よくわたしの不老不死への夢を見事に打ち砕いてくれました…
ギニュー特戦隊5人の反応がありませんね…あなたたちが殺したんですか?
どうやったのかは知りませんが、これはちょっと意外でしたよ…
それにしても、あと一息のところでドラゴンボールが石ころになってしまうとは…
ベジータさんには残念でしたが、わたしはもっとでしょうか…
はじめてですよ…
このわたしをここまでコケにしたおバカさん達は……
まさかこんな結果になろうとは思いませんでした…
ゆ…
ゆるさん…
ぜったいゆるさんぞ虫ケラども!!!!!
じわじわとなぶり殺しにしてくれる!!!!!
ひとりたりとも逃がさんぞ覚悟しろ!!!」

 ちなみにそのゲームというのは、「ひぐらしのなく頃に 祭」です。
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