夢と希望と

そして力と意志と覚悟があるなら、きっと何でも出来る。

不適材 その1。

2013-07-08 | 中身
 前に書きました通り、決闘ではない戦争というものは勝つ為に行わなければなりません。敵もただ無抵抗で殴られてはくれませんから、勝利する為にはより機能的で的確な組織の構成と運用、現実的で有効な戦略と戦術の立案、そして迅速確実な遂行が求められるのです。

 さて、大日本帝国海軍における不適切人事の一つに、南雲忠一の第一航空艦隊司令長官着任が挙げられています。南雲忠一は海軍兵学校を36期生191人中5番という成績で卒業し頭角を現した人物です。第一水雷戦隊司令官を務め、水雷戦術の第一人者でした。駆逐艦や巡洋艦乗りとして優秀であった事は疑いの余地がありませんし、部下からの信望も篤かったようです。しかし、機雷魚雷爆雷を用いての対艦戦闘が得意でも、航空艦隊の運用に長けているかと言えば、これは素人同然。こんな任命を受けてもまともに艦隊を機能させられる道理は無く、実質的には航空参謀である源田実が取り仕切り、第一航空艦隊は源田艦隊とさえ呼ばれるような体たらくでした。
 とは言いましてもこの人事に関しては、こういう重要ポストに対する人事を年功序列で行う帝国海軍の体質と、それを認可した連合艦隊司令長官山本五十六にその責が問われる物であろうと私は考えます。南雲忠一は航空機の扱いにおいて無能であったとしても、そういう無能を任命した輩にこそ問題があるのです。南雲忠一が職業軍人である以上は、無茶な命令にも従わなければなりません。例えそれが鎖鎌の達人に今日からは槍を用いて闘えと命じるようなモノであり、当人にとっても軍全体にとってもデメリットしかない愚かな人事だとしても。

 余談ではありますが、連合艦隊司令長官山本五十六という人物につきましては、私は海軍最高司令官として凡将に過ぎなかったと認識しています。
 山本五十六は早くから航空主兵論を唱え、世間ではその先見の明が評価されているようです。航空主兵論とはざっくばらんに言ってしまえば、これからの海戦の主力が戦艦ではなく航空機になるというもの。ロンドン海軍軍縮会議において制限された海軍力を引っ繰り返す為、そして仮に戦艦建艦競争となった場合、総合的な国力で圧倒されるアメリカ合衆国に勝てる訳はない、という意味においても間違ってはいないのでしょう。しかし、航空主兵論を唱えてこれを基に改革を推し進めれば勝てるのかといえば、そうではありません。
 航空攻撃による戦艦の撃破は確かに可能です。当時の戦艦の自慢は大口径砲と頑丈な装甲ですが、あくまでも対艦戦闘を前提とした物で、どちらも航空機に対しては大した効力を発揮しません。戦艦一隻を沈める為に航空機が百機落とされたとしても、両者の建造コストを考慮すれば充分な戦果です。戦争とは味方の命を消費して敵の命を削るモノ、つまり如何に効率的に敵味方を殺すかという選択の連続であると、私は考えます。ですから戦艦に対しては航空機をもって対処すべしという戦術そのものには、異論ありません。しかし、山本五十六は一介の前線指揮官ではなく、戦略を考慮しなければならない立場です。
 戦略的視野で考えた場合、航空主兵論で太平洋戦争に勝てるでしょうか。これは歴史において既に否定されていますが、当時に知り得た情報のみを以てしても、これは明確に否。理由は至極単純で、戦艦建造競争でアメリカ合衆国に及ばないのと同様に、航空機建造競争でも足元にも及ばないからです。むしろ滅多なことでは沈まない戦艦とは異なり、航空機は脆いものですからより競争は過酷になります。絶え間ない消耗と補充のサイクルは、国力を着実に削るのです。つまりその本質において大艦巨砲主義も航空主兵論も国力勝負である事に何の変化もなく、「強者が順当に勝利する」為の戦略です。国力に劣る側が勝ちを狙える代物では最初からないと言えましょう。
 では、「弱者が強者に勝利する」為の戦略とはどのような物でしょうか。地力で劣る者が勝る者に対して、それでも闘いを挑み勝ちを掴もうとするなら、これは正攻法ではいけません。息を潜めて、或いは従順を装い接近し、不意を突いて急所を刺して抉るのです。不意討ち一発で息の根を完全に止めなければなりません。仕留め損なえば、当然の事ながら反撃を受けてこちらが死ぬ事になりますけれども……まぁそもそも弱者が強者に勝とうなんていう虫の良い事を考えるなら、リスクは甚大に決まっています。
 他にも山本五十六に関しては、良くも悪くも彼自身の感情が軍務にも影響を及ぼしていたようであり、市井の一個人としては「良い人」であったのかも知れませんけれど、海軍を統括する身としては、その適性そのものに私は疑問を持ちます。まず、黒島亀人先任参謀を重んじて宇垣纏参謀長を軽視するなど能力の有無よりも人柄の好みを重んじた事。そしてミッドウェー海戦での敗北に際して己自身に対しても南雲忠一・草鹿龍之介の両者に対しても信賞必罰の根幹を蔑ろにする実質的な処罰の不実行など。特に後者は山本五十六自身が常日頃、「死を以て責に任ずるという事は、我が武士道の根本である」等と放言していたのですからその言葉の通りに腹でも切るべき所です。少なくとも私であれば、こういう二枚舌を駆使する輩を信頼は出来ませんし、信頼できない相手の命令など受けたくありません。まぁ軍人であるなら凡将愚将の命令にも従って死ぬのがお仕事なのでしょうけれども。
 
 ……余談がそれなりに長くなりましたので、南雲忠一につきましては、この次に回します。

続・前書きのようなもの。

2013-07-08 | 中身
 私なりの戦士と軍人の定義を一つ前の記事に書き殴りました。あれが指す軍人とは国家に帰属する職業軍人に限った事ではありませんが、今回はその闘い方について。

 さて、現在日本という国には軍隊が存在しない事になっています。実際の所は自衛隊が軍隊そのものではあっても、あくまでも現時点において名目上は軍隊ではありません。そうあるように規定しているのは国家の統治規範である、憲法。これを外国からの押しつけだから改めるべきだとか不合理だとかいう向きもあるようですけれど、私に言わせれば噴飯物です。この日本国憲法というものは確かに戦勝国の都合で与えられたものでしょう。しかし、そんなのは闘い、敗れたなら当然の事。古来より敗者は勝者の慈悲に縋り、搾取されつつ生きるか死ぬかするものであり、生殺与奪の権限は相対的強者のみのモノなのです。
 私は「戦争なんていけない」等と惰弱な事を口にする心積もりは全くありません。個人対個人であろうと国家対国家であろうと、利害が対立すれば当然争うのであって、争いの究極的な解決手段は滅ぼし合い。言葉で諭して従わないなら、ぶん殴って息の根を止めるのは至極当然の理だと考えています。
 ただ、闘争に臨むにあたっては、覚悟が必要です。敵をぶん殴り息の根を止める、或いは服従させる。これを行おうとするのなら、敵を的確に殴るべく己の力と技を養う事は当然として、殴った敵が己を恨む事、敵の反撃を受ける事、そして返り討ちに遭い自らの息の根を止められる事を想定し、覚悟しなければならないのです。勝利して相手を喰らおうというなら、敗北して喰らわれる事も表裏一体。そのような覚悟を伴った上で……戦士が己の満足の為に行う決闘ならばいざ知らず、戦争というものは、やるからには勝たなければならないモノであると私は認識しています。

 そんな訳で、勝たなければならなかった太平洋戦争において敗北した大日本帝国。巷には様々な「たられば」が溢れています。
 真珠湾奇襲において船艦群の艦砲射撃も用いて港湾施設をも徹底的に破壊していたら。
 ミッドウェー海戦において俗に言う運命の五分間が存在せず、アメリカ海軍機動部隊を全滅させていたら。
 無茶な消耗戦を行わず攻勢終末点を堅持していれば。
 ああしていたら、こうしていれば。そういう類の大半は彼我の戦力と布陣を俯瞰可能な今だから言える繰り言であるものですし、また仮にこれらのたらればが叶ったとしても、所詮は時間稼ぎにしかならず、やはり大日本帝国陸海軍は粉砕され、本土は空襲を受け廃墟となったであろうと私は考えます。日米の国力はそれ程までに差があり、そもそも軍人の闘いでは勝利する事など不可能であっただろう、と。
 ではどうすれば良かったのか。その一つが、軍人ではなく戦士の闘いを行う事、です。具体的には国民全てが戦士となって、本土で闘う事。これは玉砕という事ではありません。闘いを放棄して潔く突っ込んで死ぬのではなく、闘いを愉しみながら殺したり死んだりするのです。空爆され街を焼かれ、火器で掃射され、片っ端から殺されても、ただただ己の為にのみ闘う。国民全てが廃墟と山野に潜み己そのものを凶器と化して襲いかかるなら……そこに敗北はありません。仮に原子爆弾をグロス単位で投下され国土の全てが焦土と化し、文化と自然と命の全てが失われたとしても、好き勝手に生きて死ぬ戦士にとって、それは大して重要な事でも無いのですから。

 ……とは言え、これも現実的ではありませんよね。まず戦士というのは生来の素養であって、国民全てが戦士になるなんて不可能です。戦士もどき、例えば天皇守護の為の死兵となる事は可能でしょうけれども、これは皇居に原爆でも落とされたなら終わりです。
 更に言うなら、太平洋戦争の目的は中国や東南アジアの資源と利権を確保する事なのですから、これを達成できなければ戦争をする意味が失われます。軍人として始めた闘いに、戦士として幕を引こうという行為が、筋違いでもありますし。

 とどのつまり、私は太平洋戦争というモノを、その始まりからして既に詰んでいた闘いであると認識しています。一つ一つの局地的な戦闘がどうのこうの言う問題ではなく、その戦争計画自体に無理があった、と。ですからどの指揮官が有能だとか無能だとか、勇猛であるか臆病であるか等にさしたる意味を見出しません。戦争に至る国家の舵取りがまずかったのであり、座礁して沈没を待つだけの船からバケツで水を掻き出す技の巧拙を比べてみた所で、どの道沈むなら詮無き事だろうと。
 しかし。意味の有無と巧拙の有無が繋がらないとしても、巧拙の有無が存在しない訳ではありません。と、いう訳で次の記事でそのバケツで水を書き出す技の巧拙についての認識を書こうと考えます。

前書きのようなもの。

2013-07-08 | 中身
 およそ闘いを行う者には二つの種類があると、私は認識しています。
 一つは私のようなタイプであり、これを便宜上仮に戦士とでも呼称しましょう。ここで言う所の戦士とは、闘いそのものに喜びを見出し、誰に命じられる事も無くただ己の矜恃に則って拳や刃を扱う者を指します。闘いというモノには当然ですが目的が存在し、その目的を達成する事こそが「勝利」である訳ですけれども……戦士という人種はその本来の勝利という目的とは別に、手段である闘争そのものを味わい愉しむ事が可能な者達です。
 闘争の才能を持ち合わせている事が多く、私もまたその才能を自負していますけれども、何しろ自身の矜恃というモノの為にしか闘いませんから扱い難く、他人との協調やら連携やらを必要とするような闘い方は基本的に好みません。好き勝手に闘い、好き勝手に死ねれば満足なのです。

 もう一つは、これも便宜上、軍人と呼称しましょうか。そもそも闘いなど好きでは無いし、やりたくも無いけれど、しかし己の属するコミュニティの公共の福祉の為等の理由があって、闘いを行う者を指します。彼等にとって闘争はあくまでも手段に過ぎず、それを愉しむような事はしません。
 軍人はそもそも闘争の才能を持たない者……つまり他者の骨肉を殴り引き裂き血を啜る事なんて楽しいとは感じず、他者からの敵意悪意を受けると闘いの予感に喜びが溢れるような感性も持ち合わせていない人達を、規律と目的で縛り訓練して闘えるように仕立てたものです。故に闘いなど可及的速やかに終わらせようとしますし、その為に必要であれば個人の矜恃に拘らず、効果的かつ効率的な戦術を模索します。

 まぁ簡単に言ってしまえばこの場合、自身の意思で闘う者が戦士、他者の命令で闘う者が軍人です。例えば戦士である私などは私自身の意思において闘うのなら、己の命を含めた全てを用いる事に何の躊躇いもありません。しかしこれが他者からの命令なら、それが1億の同胞を救う為だとしても、爪の切りカス一つたりとて用いようとは考えません。
 勿論、戦士の中には「同胞を守護する」という矜恃を持った者も存在するでしょうし、そういう戦士は表面上、軍人との区別が難しい場合もあります。また高度に訓練された軍人は、後天的なモノではあっても闘争の才能に類似する素養を習得する場合がありますから、これもまた戦士との判別が困難になります。
 ただ、そうであってもやはり、その根底は異なるのだと私は考えています。戦士というのはつまり、どんな強敵と相対しても「オラ、ワクワクしてきたぞ」と感じるような輩であるという事なのです。極端に言ってしまえば戦士にとって軍人は「才能も無く群れて戦場に立つ鬱陶しい木っ端屑」ですし、軍人にとって戦士は「大義を理解せず己の愉悦の為にのみ傍若無人に振る舞う害獣」なのでしょう。どちらも闘いを行う者ですが、私の認識において両者は基本的に相容れない存在なのです。