前に書きました通り、決闘ではない戦争というものは勝つ為に行わなければなりません。敵もただ無抵抗で殴られてはくれませんから、勝利する為にはより機能的で的確な組織の構成と運用、現実的で有効な戦略と戦術の立案、そして迅速確実な遂行が求められるのです。
さて、大日本帝国海軍における不適切人事の一つに、南雲忠一の第一航空艦隊司令長官着任が挙げられています。南雲忠一は海軍兵学校を36期生191人中5番という成績で卒業し頭角を現した人物です。第一水雷戦隊司令官を務め、水雷戦術の第一人者でした。駆逐艦や巡洋艦乗りとして優秀であった事は疑いの余地がありませんし、部下からの信望も篤かったようです。しかし、機雷魚雷爆雷を用いての対艦戦闘が得意でも、航空艦隊の運用に長けているかと言えば、これは素人同然。こんな任命を受けてもまともに艦隊を機能させられる道理は無く、実質的には航空参謀である源田実が取り仕切り、第一航空艦隊は源田艦隊とさえ呼ばれるような体たらくでした。
とは言いましてもこの人事に関しては、こういう重要ポストに対する人事を年功序列で行う帝国海軍の体質と、それを認可した連合艦隊司令長官山本五十六にその責が問われる物であろうと私は考えます。南雲忠一は航空機の扱いにおいて無能であったとしても、そういう無能を任命した輩にこそ問題があるのです。南雲忠一が職業軍人である以上は、無茶な命令にも従わなければなりません。例えそれが鎖鎌の達人に今日からは槍を用いて闘えと命じるようなモノであり、当人にとっても軍全体にとってもデメリットしかない愚かな人事だとしても。
余談ではありますが、連合艦隊司令長官山本五十六という人物につきましては、私は海軍最高司令官として凡将に過ぎなかったと認識しています。
山本五十六は早くから航空主兵論を唱え、世間ではその先見の明が評価されているようです。航空主兵論とはざっくばらんに言ってしまえば、これからの海戦の主力が戦艦ではなく航空機になるというもの。ロンドン海軍軍縮会議において制限された海軍力を引っ繰り返す為、そして仮に戦艦建艦競争となった場合、総合的な国力で圧倒されるアメリカ合衆国に勝てる訳はない、という意味においても間違ってはいないのでしょう。しかし、航空主兵論を唱えてこれを基に改革を推し進めれば勝てるのかといえば、そうではありません。
航空攻撃による戦艦の撃破は確かに可能です。当時の戦艦の自慢は大口径砲と頑丈な装甲ですが、あくまでも対艦戦闘を前提とした物で、どちらも航空機に対しては大した効力を発揮しません。戦艦一隻を沈める為に航空機が百機落とされたとしても、両者の建造コストを考慮すれば充分な戦果です。戦争とは味方の命を消費して敵の命を削るモノ、つまり如何に効率的に敵味方を殺すかという選択の連続であると、私は考えます。ですから戦艦に対しては航空機をもって対処すべしという戦術そのものには、異論ありません。しかし、山本五十六は一介の前線指揮官ではなく、戦略を考慮しなければならない立場です。
戦略的視野で考えた場合、航空主兵論で太平洋戦争に勝てるでしょうか。これは歴史において既に否定されていますが、当時に知り得た情報のみを以てしても、これは明確に否。理由は至極単純で、戦艦建造競争でアメリカ合衆国に及ばないのと同様に、航空機建造競争でも足元にも及ばないからです。むしろ滅多なことでは沈まない戦艦とは異なり、航空機は脆いものですからより競争は過酷になります。絶え間ない消耗と補充のサイクルは、国力を着実に削るのです。つまりその本質において大艦巨砲主義も航空主兵論も国力勝負である事に何の変化もなく、「強者が順当に勝利する」為の戦略です。国力に劣る側が勝ちを狙える代物では最初からないと言えましょう。
では、「弱者が強者に勝利する」為の戦略とはどのような物でしょうか。地力で劣る者が勝る者に対して、それでも闘いを挑み勝ちを掴もうとするなら、これは正攻法ではいけません。息を潜めて、或いは従順を装い接近し、不意を突いて急所を刺して抉るのです。不意討ち一発で息の根を完全に止めなければなりません。仕留め損なえば、当然の事ながら反撃を受けてこちらが死ぬ事になりますけれども……まぁそもそも弱者が強者に勝とうなんていう虫の良い事を考えるなら、リスクは甚大に決まっています。
他にも山本五十六に関しては、良くも悪くも彼自身の感情が軍務にも影響を及ぼしていたようであり、市井の一個人としては「良い人」であったのかも知れませんけれど、海軍を統括する身としては、その適性そのものに私は疑問を持ちます。まず、黒島亀人先任参謀を重んじて宇垣纏参謀長を軽視するなど能力の有無よりも人柄の好みを重んじた事。そしてミッドウェー海戦での敗北に際して己自身に対しても南雲忠一・草鹿龍之介の両者に対しても信賞必罰の根幹を蔑ろにする実質的な処罰の不実行など。特に後者は山本五十六自身が常日頃、「死を以て責に任ずるという事は、我が武士道の根本である」等と放言していたのですからその言葉の通りに腹でも切るべき所です。少なくとも私であれば、こういう二枚舌を駆使する輩を信頼は出来ませんし、信頼できない相手の命令など受けたくありません。まぁ軍人であるなら凡将愚将の命令にも従って死ぬのがお仕事なのでしょうけれども。
……余談がそれなりに長くなりましたので、南雲忠一につきましては、この次に回します。
さて、大日本帝国海軍における不適切人事の一つに、南雲忠一の第一航空艦隊司令長官着任が挙げられています。南雲忠一は海軍兵学校を36期生191人中5番という成績で卒業し頭角を現した人物です。第一水雷戦隊司令官を務め、水雷戦術の第一人者でした。駆逐艦や巡洋艦乗りとして優秀であった事は疑いの余地がありませんし、部下からの信望も篤かったようです。しかし、機雷魚雷爆雷を用いての対艦戦闘が得意でも、航空艦隊の運用に長けているかと言えば、これは素人同然。こんな任命を受けてもまともに艦隊を機能させられる道理は無く、実質的には航空参謀である源田実が取り仕切り、第一航空艦隊は源田艦隊とさえ呼ばれるような体たらくでした。
とは言いましてもこの人事に関しては、こういう重要ポストに対する人事を年功序列で行う帝国海軍の体質と、それを認可した連合艦隊司令長官山本五十六にその責が問われる物であろうと私は考えます。南雲忠一は航空機の扱いにおいて無能であったとしても、そういう無能を任命した輩にこそ問題があるのです。南雲忠一が職業軍人である以上は、無茶な命令にも従わなければなりません。例えそれが鎖鎌の達人に今日からは槍を用いて闘えと命じるようなモノであり、当人にとっても軍全体にとってもデメリットしかない愚かな人事だとしても。
余談ではありますが、連合艦隊司令長官山本五十六という人物につきましては、私は海軍最高司令官として凡将に過ぎなかったと認識しています。
山本五十六は早くから航空主兵論を唱え、世間ではその先見の明が評価されているようです。航空主兵論とはざっくばらんに言ってしまえば、これからの海戦の主力が戦艦ではなく航空機になるというもの。ロンドン海軍軍縮会議において制限された海軍力を引っ繰り返す為、そして仮に戦艦建艦競争となった場合、総合的な国力で圧倒されるアメリカ合衆国に勝てる訳はない、という意味においても間違ってはいないのでしょう。しかし、航空主兵論を唱えてこれを基に改革を推し進めれば勝てるのかといえば、そうではありません。
航空攻撃による戦艦の撃破は確かに可能です。当時の戦艦の自慢は大口径砲と頑丈な装甲ですが、あくまでも対艦戦闘を前提とした物で、どちらも航空機に対しては大した効力を発揮しません。戦艦一隻を沈める為に航空機が百機落とされたとしても、両者の建造コストを考慮すれば充分な戦果です。戦争とは味方の命を消費して敵の命を削るモノ、つまり如何に効率的に敵味方を殺すかという選択の連続であると、私は考えます。ですから戦艦に対しては航空機をもって対処すべしという戦術そのものには、異論ありません。しかし、山本五十六は一介の前線指揮官ではなく、戦略を考慮しなければならない立場です。
戦略的視野で考えた場合、航空主兵論で太平洋戦争に勝てるでしょうか。これは歴史において既に否定されていますが、当時に知り得た情報のみを以てしても、これは明確に否。理由は至極単純で、戦艦建造競争でアメリカ合衆国に及ばないのと同様に、航空機建造競争でも足元にも及ばないからです。むしろ滅多なことでは沈まない戦艦とは異なり、航空機は脆いものですからより競争は過酷になります。絶え間ない消耗と補充のサイクルは、国力を着実に削るのです。つまりその本質において大艦巨砲主義も航空主兵論も国力勝負である事に何の変化もなく、「強者が順当に勝利する」為の戦略です。国力に劣る側が勝ちを狙える代物では最初からないと言えましょう。
では、「弱者が強者に勝利する」為の戦略とはどのような物でしょうか。地力で劣る者が勝る者に対して、それでも闘いを挑み勝ちを掴もうとするなら、これは正攻法ではいけません。息を潜めて、或いは従順を装い接近し、不意を突いて急所を刺して抉るのです。不意討ち一発で息の根を完全に止めなければなりません。仕留め損なえば、当然の事ながら反撃を受けてこちらが死ぬ事になりますけれども……まぁそもそも弱者が強者に勝とうなんていう虫の良い事を考えるなら、リスクは甚大に決まっています。
他にも山本五十六に関しては、良くも悪くも彼自身の感情が軍務にも影響を及ぼしていたようであり、市井の一個人としては「良い人」であったのかも知れませんけれど、海軍を統括する身としては、その適性そのものに私は疑問を持ちます。まず、黒島亀人先任参謀を重んじて宇垣纏参謀長を軽視するなど能力の有無よりも人柄の好みを重んじた事。そしてミッドウェー海戦での敗北に際して己自身に対しても南雲忠一・草鹿龍之介の両者に対しても信賞必罰の根幹を蔑ろにする実質的な処罰の不実行など。特に後者は山本五十六自身が常日頃、「死を以て責に任ずるという事は、我が武士道の根本である」等と放言していたのですからその言葉の通りに腹でも切るべき所です。少なくとも私であれば、こういう二枚舌を駆使する輩を信頼は出来ませんし、信頼できない相手の命令など受けたくありません。まぁ軍人であるなら凡将愚将の命令にも従って死ぬのがお仕事なのでしょうけれども。
……余談がそれなりに長くなりましたので、南雲忠一につきましては、この次に回します。