夢と希望と

そして力と意志と覚悟があるなら、きっと何でも出来る。

テロとの戦い

2007-11-03 | 中身
 どこかの法務大臣が「友人の友人がアルカイダ発言」で非難されていますけれど、まぁテロリズムを絶対悪として捉える風潮の中であぁいう発言をするなら相応の覚悟が必要な訳で、それが伴っていれば非難されようが更迭されようが何も問題は無い筈。彼の闘争の才能がどれ程のモノか、とりあえず眺めるのも一興といった所です。

 ところで、私は遵法精神やら公共の福祉やらに対して価値を見出さない蛮族だったりします。定められた法は私個人の美学に反さない限りにおいては積極的に破って見せよう等と思いませんけれど、盲目的に従うべきだ等とも考えていません。自分が正しい、或いは美しいと認識する事象を自分以外が否定し叩き潰そうとするならば、その時は全力で闘い抗い死にたいモノだと願っています。有り体に申し上げるなら私はテロリスト予備軍である、といぅ事です。国家であろうと他の何かであろうと、私の大切な物を奪おうとする存在に対しては、最終的には我と我が身を武器としてぶつかる心積りです。
 そんな私から言わせて頂くなら、テロとの戦い等と称してテロリストを武力で威圧殲滅しよう等という現在の基本方針は笑止の極み。そもそもテロリストというのは法の庇護の元に安穏と生き続けたいなんて願っていません。ただ己の信条に従い、闘って闘って闘って死ねば、それで満足なのです。故に威圧されればされただけ闘争心は燃え上がりますし、仲間がどれだけ殺されようと自分の命が絶える瞬間まで抵抗を続けます。損得勘定で闘っているのでは無いのですから、被害甚大だからといって撤退や降伏なんて有り得ない話。私みたいな輩は極端な話をすれば「格好良く死にたい」と望んでいる訳でして、威圧殲滅は寧ろ大歓迎だったりするのですね。
 だからと言って、では対話で解決するべきだ等という砂糖菓子のように甘い戯言を吐くつもりもありません。テロリストといぅのは基本的に現在の社会システムには適合しない因子であり、ぶっちゃけた話、どう話し合った所で双方の主張が交わる事なんてありますまい。「多数の利益、公共の福祉の為に貴方は大人しく死んで下さい」と言われて「はい、わかりました。世の為人の為、謹んで死なせて頂きます」と答える事が出来ないような反社会的な存在は民主主義というシステムにとって癌でしか無いのでしょうから、さっさと抹消する事が社会正義というモノなのでしょう。個人の誇りと社会全体の維持、このどちらを重んじるかという根本的な部分で決定的な相違が生じている以上、共存共栄なんていう選択肢は存在していません。闘って、勝つか負けるかして、喰うか喰われるかする。そういぅ実に単純な闘争の理に従う部類の問題です。

 では、どうすれば良いのでしょうか。
 追い込めば追い込んだだけ、喜び勇んで死ぬような気違い相手に真っ当な策は通用しません。しかもこの気違いは一定レベルで伝染するという厄介な性質も併せ持っているのです。格好良く死んだテロリストを見て、自分も格好良く死のうと思い立つ新たなテロリストが生まれるのです。
 テロは卑劣だとか民主主義に対する挑戦だとか喚いた所で、根本的な価値観が異なるのですから意味がありません。サッカーのチームと野球のチームがそれぞれ自分の流儀で試合を行おうとして、互いに相手をルール違反だと罵り合うのと同じ様なモノです。
 どうすればテロリストの戦意が萎え、どうすれば闘いを停止するのか。私はそれを以前、身を以て知らされました。いやはや、全く恐ろしい限りです。


 ……そんな訳で、長々と惚気話でした。テロリズムへの具体的な対処法?そんなの書く筈無いでしょう。