日本最古の道祖神がある福寿草の里信州沢底  60数年前のセピア色した田舎暮らし 週末田舎暮らしを体験してみませんか?

さわそこ里山資源を活用する会は、間伐されて放置されている木材を簡易製材機で製材し、小屋の材料、看板等に利用しています。

伊那グリーンファーム

2017年12月10日 15時35分19秒 | 練習

10月の中旬にお願いしましたが、また泣き出しましたので伊那グリーンファームに先日連れて行きました。今日が約束の日でしたので、引き取りに行って来ました。何十頭もいて、帰るのが厭になり車に乗ってくれませんでした。順調ならば4月の下旬に出産です。

朝の一口コラム:「話せば分かる。」と云った人が居ましたが、自分の気持ちを伝える事、相手の考えを理解する事は難しいものです。自分はオーソドックスと考えていますが、他人はそのようには見てくれません。

読書マラソンreading 42books marathon 現在24冊目「ノモンハンの夏」に挑戦中!

⑦受想行識 亦復如是

(じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ)
そしてその「空」という性質は、物体だけでなく、精神作用にもあてはまる。
すなわち、感覚・知覚・意思・認識といったあらゆる精神作用も、形こそないが、変化をするという法則のなかにある。つまり、物体である身も、精神作用である心も、どちらにも固定的な実体は存在しないということだ。これが何を意味しているかわかるだろうか?
そう、自分とはこの身と心であるにも関わらず、身にも心にも実体としての「自分」が存在しないということなのだ。固定的な存在としての「自分」は、どこにも存在しないのである。

ただ、私たちは脳という器官があり、「考える」という営みができ、「自分」という概念を想起することができるため、この身と心を具えた一つの物体、つまりが自分という存在を、自分だと認識することができる。
できる、というよりも、認識してしまっている、と言ったほうがより正しいかもしれない。
しかし真実としては、自分というものは存在しないのだ。
これはつまり、「自分」という存在は固定的な存在ではなく、流動的な「状態」の一つにすぎず、結局自分も「空」だということである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする