1975年5月、デ・ヘススは2度目の世界挑戦のチャンスを得る。
相手はWBA世界ジュニアウェルター級王者アントニオ・セルバンテス。
デュランとも実力を比較される程の名王者は、この時9度目の防衛戦。
脂の乗り切ったセルバンテスの前に初回からダウンを喫したヘスス。
とにかく身長とリーチ差は大きく、前に出ては強烈なパンチで
迎え撃たれるという悪循環に陥った印象。
時に攻勢が好奏しかける事もあったが、王者の試合運びがそれを許さず。
最終回には痛烈なダウンを奪われ、KO負け寸前の状態で最終ラウンドの
終了ゴングを聞いた。
結果は15回判定負け。2度目の世界王座挑戦も実らず。
「ヘススは強かったよ」という王者のコメントも慰めにならない程
一方的にやられた印象。
ひざまずくようにデ・ヘススがダウンしたシーンは衝撃的だった。
一度はダウンを奪って優位に立ったデュラン戦より内容は
厳しかったような・・・。
※だからエレタやアーセルはセルバンテスを警戒したんだろうな
この試合を見ながら中南米の関係者は「相手が動くと何も出来ない。
これがデ・ヘススの欠点」と言ったそうだが
まぁ、省エネ的に必要最小限な動きで巧打を的中させるヘススの
ボクシングは、相性的にセルバンテスには通じなかったって事か。
それでもプエルトリコのボクシング界はヘススを見放さず
地元での世界戦が用意された。
入札の結果、王者の石松には当時破格のファイトマネーが
支払われたという。
1976年5のWBC世界ライト級タイトルマッチでは王者ガッツ石松を
ポイントアウト。15回判定勝ちで遂に世界王座を獲得した。
※ここでデ・ヘススは、早くもデュラン第3戦を望むコメントを
残している。
1977年2月、バズソー山辺と対戦し、6回KO勝ちで2度目の防衛に成功。
サウスポーの山辺にビシビシ右ストレートを突き刺すヘススには王者の
風格充分だった。
そして1978年1月、遂にWBA世界ライト級王者ロベルト・デュランとの
決着戦、WBC&WBAの王座統一戦に臨んだ。
しかし、デュランは上手味を増しており、ヘススとボックスを展開。
ヘススは距離感を掴めないまま強烈な右カウンターを食らってダウン。
立ったもののロープ際で連打されて再びダウン。
12回KO負けでWBC王座4度目の防衛に失敗。
デュランに王座を吸収されてしまった。
へススがスポットライトを浴びたのも実質この辺りまで。
1980年7月にはWBC世界Jウェルター級王者ソウル・マンビーに挑戦、
13回TKO負けで王座獲得ならず。この試合を最後に引退となった。
物心ついたときから暗黒街で育ったというデ・ヘスス。
現役時代からも、そういった方面との関わりが噂された。
※フランク・シナトラと戯れる写真もあったな・・・
引退後は麻薬中毒になり、1981年には未成年を射殺して収監され
無期懲役の判決を受ける。
しかし、末期のAIDSであることが判明し、恩赦を受けたが
悲惨な晩年は変わらず。
旧知に人々が病床を訪れたが、1989年5月12日に死去。
37歳だった。
デュランが光ならヘススは闇。
そんな比較すら可能な気もするが、お互い相手が居なかったら
ライト級のお山の大将になってた印象もある。
ヘススもデュラン相手には打ち合いを抑えきれない様子だった。
デュランも自分から逃げずに打ち合ったデヘススを認めている感がある。
※デュランは打ち合わない相手が嫌いだもんなぁ・・・
やはり、お互いを照らし合った間柄といった方が適切かな。
デュランを語るとき、絶対に忘れてはならないボクサー、
それがエステバン・デ・ヘススなのです。
相手はWBA世界ジュニアウェルター級王者アントニオ・セルバンテス。
デュランとも実力を比較される程の名王者は、この時9度目の防衛戦。
脂の乗り切ったセルバンテスの前に初回からダウンを喫したヘスス。
とにかく身長とリーチ差は大きく、前に出ては強烈なパンチで
迎え撃たれるという悪循環に陥った印象。
時に攻勢が好奏しかける事もあったが、王者の試合運びがそれを許さず。
最終回には痛烈なダウンを奪われ、KO負け寸前の状態で最終ラウンドの
終了ゴングを聞いた。
結果は15回判定負け。2度目の世界王座挑戦も実らず。
「ヘススは強かったよ」という王者のコメントも慰めにならない程
一方的にやられた印象。
ひざまずくようにデ・ヘススがダウンしたシーンは衝撃的だった。
一度はダウンを奪って優位に立ったデュラン戦より内容は
厳しかったような・・・。
※だからエレタやアーセルはセルバンテスを警戒したんだろうな
この試合を見ながら中南米の関係者は「相手が動くと何も出来ない。
これがデ・ヘススの欠点」と言ったそうだが
まぁ、省エネ的に必要最小限な動きで巧打を的中させるヘススの
ボクシングは、相性的にセルバンテスには通じなかったって事か。
それでもプエルトリコのボクシング界はヘススを見放さず
地元での世界戦が用意された。
入札の結果、王者の石松には当時破格のファイトマネーが
支払われたという。
1976年5のWBC世界ライト級タイトルマッチでは王者ガッツ石松を
ポイントアウト。15回判定勝ちで遂に世界王座を獲得した。
※ここでデ・ヘススは、早くもデュラン第3戦を望むコメントを
残している。
1977年2月、バズソー山辺と対戦し、6回KO勝ちで2度目の防衛に成功。
サウスポーの山辺にビシビシ右ストレートを突き刺すヘススには王者の
風格充分だった。
そして1978年1月、遂にWBA世界ライト級王者ロベルト・デュランとの
決着戦、WBC&WBAの王座統一戦に臨んだ。
しかし、デュランは上手味を増しており、ヘススとボックスを展開。
ヘススは距離感を掴めないまま強烈な右カウンターを食らってダウン。
立ったもののロープ際で連打されて再びダウン。
12回KO負けでWBC王座4度目の防衛に失敗。
デュランに王座を吸収されてしまった。
へススがスポットライトを浴びたのも実質この辺りまで。
1980年7月にはWBC世界Jウェルター級王者ソウル・マンビーに挑戦、
13回TKO負けで王座獲得ならず。この試合を最後に引退となった。
物心ついたときから暗黒街で育ったというデ・ヘスス。
現役時代からも、そういった方面との関わりが噂された。
※フランク・シナトラと戯れる写真もあったな・・・
引退後は麻薬中毒になり、1981年には未成年を射殺して収監され
無期懲役の判決を受ける。
しかし、末期のAIDSであることが判明し、恩赦を受けたが
悲惨な晩年は変わらず。
旧知に人々が病床を訪れたが、1989年5月12日に死去。
37歳だった。
デュランが光ならヘススは闇。
そんな比較すら可能な気もするが、お互い相手が居なかったら
ライト級のお山の大将になってた印象もある。
ヘススもデュラン相手には打ち合いを抑えきれない様子だった。
デュランも自分から逃げずに打ち合ったデヘススを認めている感がある。
※デュランは打ち合わない相手が嫌いだもんなぁ・・・
やはり、お互いを照らし合った間柄といった方が適切かな。
デュランを語るとき、絶対に忘れてはならないボクサー、
それがエステバン・デ・ヘススなのです。