10月13日(土)先日からホームページに「敗戦記」を掲載している。共同通信で全国配信された記事の元原稿だ。何だか遠い昔の出来事のように時間が過ぎている。今日は竹内まりやのアルバム「デニム」のなかの「人生の扉」を何度も流しながら実務。デニムの褪せゆく青の味わいを人生になぞらえる歌詞だ。「長い旅路の果てに/輝く何かが/誰にでもあるさ」と歌っている。テレビを見ると鳥越俊太郎さんが保険のCMに出ていた。これまで何度か目に入り、強い違和感を感じていた。手術室に入る映像まで使いながら問題ある外資系保険会社の宣伝をしているからだ。情報までが商品になる「最果ての資本主義社会」にあって、生命までがその対象となることは、いまさら驚くこともない。しかし批判的精神を魂とするはずのジャーナリストが、そこにかかわるとしたら、どうしてもおかしい。詐欺的商法に加担することになるからだ。そういう気持ちでいたところ、藤原新也さんが「晩節を汚す」という文章を書いていた。私もこれまでに何度かテレビCMの依頼があったが、すべてお断りしてきた。それは「ガラにもない」という判断であり、自分の「立ち位置」への自覚でもあった。経済的なことを考えればふと心が動かないでもなかった。友人の編集者たちも「いいじゃない」とアドバイスしてくれたけれど、どうしても踏ん切りはつかなかった。いまではそれでよかったと思っている。鳥越さんにも事情があったのかもしれないが、せめて相手企業の実情を調べて判断すべきだった。もし保険会社の不払い問題を知ったうえでの判断なら、ジャーナリストとして「晩節を汚す」という藤原さんの指摘はまったくその通りである。夕方の「おもろ」で常連と雑談。「それは鳥越さんがおかしいよ」との意見。電車のなかで読んでいた城山三郎さんの言葉を反芻する。「人生にあぐらをかき、安定した話などは、どうでもよい。出世した話や金もうけの話は、ときに卑しくひびく。結果はともかく、在るべき姿を求めて、いかに悩み、いかに深く生きたか。いかにさわやかに、いかに優しく生きたか」。泡盛に酔いつつそうだと思う。そうありたい。
10月12日(金)東銀座の松竹試写室で「onceダブリンの街角で」を見た。穴の空いたギターで歌う街頭ミュージシャンが、あるときチェコから移民した女性と出会う。それぞれの夢を追う人生が交錯して離れていくまでの物語だ。言葉にできない感情を歌に載せて表現することで、思いが形となっていく。まったく知らなかったが、主演のグレン・ハンサードはダブリン生まれでザ・フレイムスというロックグループで活動してる現役ミュージシャンだった。アイルランド出身のバンドといえばU2が知られているが、本国ではグレン・ハンサードが根強い人気だという。相手役のマルケタ・イログロヴァもチェコ在住のシンガーソングライターだ。今日も世界のどこかの街角で突然の出会いがあり、夢が生まれ、広がっていく……。この映画はアメリカではわずか2館で公開されたが、「小さな宝石」のような物語が観客の話題となり、132館で上映された。1館あたりの観客動員数は「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド」を上回ったという。
遅い昼食を「煉瓦亭」でと銀座まで歩いたが、休憩時間に入っていた。仕方なく近くの「勝よし」という豚カツ屋へ。これが美味しいのだった。携帯電話に速報。黒川紀章さんが亡くなったことを知る。最後にお会いしたのは参議院選挙が終った2日後で、日本テレビの番組収録だった。スタジオを去っていくとき、足どりがおぼつかなかった。その後ろ姿が鮮明に記憶に残っている。最初に赤坂の割烹でお会いしたとき、京大時代に共産党で活動したときのことを聞かされた。そのとき中国で講演すると聞いた。「僕はね、中国の要人に本当のマルクス主義とは何かを教えてくるんだ」楽しそうにそう語っていた。都知事選や参議院選挙に出たのもご自身の寿命を知っているからではないか。昨年に手術をしたことを近しい人から聞いていたので勝手にそう思っていた。スタジオを去っていく姿を見て、さらにその気持ちは強くなっていた。そして訃報。衆議院選挙にも出ると言っていた黒川紀章さん。夢は砕けたが、燃焼した人生だった。
10月11日(木)新党日本の役員会。民主党の小沢一郎代表が「世界」に発表した論文についてのマスコミの誤解についてウェブラジオのなかで田中康夫代表に説明してもらった。NATO諸国を中心に約4万人が参加している国際治安支援部隊(ISAF)の活動について憲法の範囲内で民生支援に限定して協力すべきだと理解していた。真意はPKO(平和維持活動)に変えるべきとの主張だという。衆議院選挙についても意見交換。「週刊文春」がこんな記事を掲載していた。特集のなかの『「東京決戦」小池百合子・石原伸晃を狙う「タレント刺客」』という項目だ。「石原伸晃前政調会長の八区、小池百合子元防衛相の十区、太田公明党代表の十二区は民主公認にこだわらず、『逆刺客』を擁立する予定である。古田敦也・ヤクルト監督の下馬評があるほか、国民新党代表・田中康夫参院議員の転出や有田芳生の出馬も噂される」。一読驚いた。「国民新党」ではなく「新党日本」だから。優秀な校正者の眼をすり抜けてしまうこともあるから怖い。「噂される」ことについては「そうですか」というしかない。文藝春秋に寄って雑用。紀尾井茶房で読書。カウンターの客に言われた。「いつもこの時間にワイドを見ていたんですよ。いまは見るものないからね」。池袋へ。いつものように路上で「頑張ってください」と伝えられる。 歩いていたら小池百合子さんの事務所があった。これまで新党日本の第一支部長として平河町に事務所を構えていたが、近く移転するかもしれない。
10月10日(水)午後には神保町に。「伊峡」で食事。隣にあった豚カツの「いもや」が閉まっていた。店主に聞けば人手不足で店舗を統合したという。「金ペン堂」に行くとシャッターが。これまた心配になる。東京堂書店で坪内祐三さんのサイン入り『四百字十一枚』(みすず書房)、城山三郎さんの『無所属の時間で生きる』(朝日文庫)を入手。20代から通っている「トロワバグ」で珈琲を飲みつつ城山さんのエッセイを読む。「無所属の時間」という言葉を知ったのは、田中康夫さんからだった。仕事が終ってからの余暇時間は組織に所属していない自由がある。そこでは「しがらみ」に囚われない自分がある。その時間に何を選ぶのか。城山さんは一般的に増大する余暇時間=「無所属の時間」のなかで、「どう生き直すか、どのように生を充実させるか」と問う。そこで「一日一快」を勧める。
一日に一つでも、爽快だ、愉快だと思えることがあれば、それで、「この日、この私は生きた」と、自ら慰めることができるのではないか。
それが晩餐後に好きな本を短時間でも読むことでもよいという。定年退職者にとってだけではなく、精神的自由の課題が「無所属の時間」にはある。六本木のアスミック・エースで「チャプター27」の試写を見た。1980年12月8日にジョン・レノンを暗殺したマーク・デイビッド・チャップマンの犯行までの3日間を描いた作品だ。レノンを自分のものにしたいという意識だけではない。父母の軋轢や生い立ちのなかで育ってきた葛藤があるとき境界を超えてしまう。チャップマンはいまなお刑務所にいる。1955年生まれだから犯行時は25歳、現在は52歳になる。銀座の松屋に寄って数寄屋橋を歩いていたら面白いバスの時刻表を発見。「ちゃんと帰っておいで……母より」とある。朝日新聞の談話室でビールを飲みながら読書。政治記者から電話があり週刊誌編集長たちと食事をしながら情報交換。
10月9日(火)朝5時半から新党日本の街頭宣伝用の原稿を書く。11時から麹町のスタジオで録音を終えて表参道へ。喫茶店で読書。ジムでゆったりと泳ぐ。まだいささか重い左肩を念入りに動かすとわりに軽くなった。渋谷から代々木。「馬鹿牛」で食事をして高田馬場へ。一水会フォーラムで拉致被害者家族の蓮池透さんの講演を聞いた。北朝鮮に拉致された弟の薫さんは、はじめは人権蹂躙だと抗議していたが、やがてそうした行為に意味がないとわかった。そこで日本に帰ることを諦める。そうすることがプラス思考だと判断したからだ。何を言えば指導員が喜ぶかがわかっていたので、それからは先回りしてそんな態度を取ることにしたという。アウシュビッツ経験者の手記でも同じような対応があったことを思い出した。蓮池さんの話でいちばん驚いたことは、安倍晋三官房長官(当時)や中山恭子参与(当時)は、拉致被害者5人が北朝鮮に戻ることを止めていたのではなかったということだ。蓮池さんは「まったくのウソです」と断定した。家族などの説得が功を奏して蓮池薫さんたちが帰国しない意思を固めたところで、はじめて政府がコメントしたのだという。膠着情況にあるいまや「いかなる方法でも帰して欲しい」というのが家族の本音だろう。蓮池さんは「圧力」路線では成果があがっていないと嘆いていた。6か国協議で日本だけが強行路線を取っていても拉致問題の解決には向わない。ならばどうすればいいのか。北朝鮮との融和路線に変更してでも拉致問題の解決を進めることではないか。横田滋さん、早紀江さん夫妻の真情を思うにつけ、そう判断せざるをえない。現実論は、ときに原則論に優先する。会場ではレインボーブリッヂの小坂浩彰さん、一水会の鈴木邦男さん、木村三浩さん、旧知のジャーナリストたちに会った。最終便で大阪へ。
10月8日(月)世間は休日。いったい何の祝日なんだろうかと思えば「体育の日」。それは東京オリンピックの開会式である10月10日だったはず。便宜的に連休を作るのはあまり感心しない。夜まで外出せずに原稿や読書。家人と近所の書店に行き、寿司屋で食事。23年前に開店したときの話を伺う。当時は店も少なく駅前には不動産屋があったぐらいだったという。同じころに開店したパン屋がいきなり閉店した。店主は朝5時半から仕事をして、奥さんと長男があとから出勤、一時は職人もいたが、いつしかいなくなり、ついに店を閉めた。駅前に大型スーパーが出店し、パン売り場ができただけではない。コンビニでも各種のパンが販売される影響もあったのだろう。「街の顔」を守るには何が必要なんだろうか。森下香枝さんの『真犯人』はとても面白かった。文章の相性は別にしても緊張感がある。森下さんが指摘した「鉄ちゃん」が真犯人かどうかはわからない。それでもグリコ・森永事件を捜査資料を駆使しつつ振り返るところが圧巻だ。「劇場型事件」は当時もいまもミステリーじみている。昨今の事件がおぞましい殺人まみれなのに対して、あの80年代は、後半に現在の異常犯罪を予感させる宮崎事件などがあったものの、まだまだ全体的に牧歌的だった。脅迫状のひとつに犯人グループ「かい人21面相」のこんな言葉がある。「わしら 悪や くいもんの 会社 いびるの やめても まだ なんぼでも やること ある 悪党人生 おもろいで」。「かい人21面相」はどこで何をしているんだろうか。午後10時からNHKスペシャル「北朝鮮帰国船」を見る。現代の全体主義国家・北朝鮮は国民監視体制でもある。この国家を「地上の楽園」と褒め称えた者たちの歴史的責任は重い。NHKでは午前中に知覧を出撃した特攻隊の家族を特集していた。いい仕事の連続に拍手。
10月7日(日)成増の商店街を歩き、知人の店などに顔を出してきた。どんどん変貌していく街から消えていくものがある。割烹が書店に、八百屋が飲食店の入るビルに、果物屋が不動産屋になっていた。知人の店は路面展開でうなぎや焼き鳥を販売している。その近くのおもちゃ屋は健在でホッとした。長男が小学生のころミニ四駆などを買いにときどき立ち寄ったものだ。パチンコ屋のビルがやけに目立ち、道行く人たちが「出たか?」「ダメだよ」などという会話を交わしているのが聞こえてくる。街の変貌スピードが速すぎる。こういう街で育つ子供たちに「故郷」の印象はどのように刻み込まれるのだろうか。経済困難ゆえに店が閉まり、チェーン店ばかりが増殖する。「中華そば」「神戸コロッケ」「牛丼」「珈琲店」などなど。画一化された個性なき店が乱立することで、街の歴史が破壊されていく。街を返せ。本気でそう思う。この日本は昨年7月に発表されたOECDの世界貧困率ランキング(データは2000年のものを根拠としている)でアメリカに次ぐ2位だった。所得が低い「相対的貧困層」がバブル崩壊で生まれたからだ。いまなら日本が世界1だろうと専門家は指摘している。信号を渡ろうとしたら見知らぬ男性が「テレビはもう出ないの」と聞いてきた。かつては月曜日が祝日でも「ザ・ワイド」は放送されていたので、「世間は休みだけど仕事だなあ」などと思っていたものだった。池袋リブロで森下香枝さんの『真犯人 グリコ・森永事件「最終報告」(朝日新聞社)を買う。発売されたときに手にしたのだが、「あとがき」を読んで文章に相性を感じなかったので、買うことはしなかった。そんなときにはノンフィクションに詳しい知人から読後感を聞くにかぎる。そこで「週刊朝日」の山口一臣編集長と文藝春秋の松井清人局長に意見を求めた。両者とも内容は面白いというので読んでみる気になった。東武百貨店の食品売り場を歩く。ここでも餃子屋などが撤退。やれやれだ。
10月6日(土)TBSラジオの「久米宏 ラジオなんですけど」に電話で出演した。テーマは「午後のワイドショー」。「ザ・ワイド」のコメンテーターとしての感想を話した。久米さんがキャスターだった「ニュースステーション」の報道手法と「週刊文春」の取材力を合わせた「ニュースショー」を目指していたと語ったところ、意外な答えが返ってきた。「実はニュースステーションはワイドショーを目指していたんですよ」と久米さんは言うのだ。このあたりを語り合うときっと面白かったが、なにしろ時間がない。午後の時間帯に「ニュースショー」を作る必要があることは、その時間帯に事件や重要な社会問題(たとえば安倍退陣)が起きたときを想定すればすぐわかることだ。サリン事件のようなものが午後に起きたとして、ニュースだけでは対応できない。そこに何人かのコメンテーターと熟練キャスターがいれば、単なるニュース報道には治まらないふくらみを提供することができるからだ。そんなことを語ったところ、久米さんは「面白いですね」とうなずいている様子だった。「同じ時間帯に草野仁さんと久米さんの番組が競争すれば刺激になっていいですね」そう言ったら「同じリングでは草野さんに負けますから」。
9月20、21日に熱海のKホテルで統一教会関係会社の全国店長会議が開催された。研修では大阪弁護士会所属のある弁護士が講演。「霊感商法は第3期に入った。第1期は80年代の壺や多宝塔。第2期は90年代のHGの借り入れ(有田注、HGとは「早く現金」の意味)。第3期は玄海灘を挟んだ日韓で行われている清平の先祖解放。これに対して反対派弁護士グループは、国に対して統一教会への監督不行き届きで訴訟を起こそうとしている」と語ったという。質疑応答の中で若い女性店長(もちろん統一教会信者)が「青森事件は反対派の作ったデマですよね!」と質問。弁護士は唖然として「インターネットで検索して…」としか答えられなかったそうだ。先祖の因縁話などで脅した霊感商法が恐喝と認定された青森地裁弘前支部での判決が出たのは、1984年1月12日。3人の被告に有罪判決が下った。青森事件から四半世紀が過ぎたが、いまだに霊感商法は続いている。
10月5日(金)秋らしい気候になってきた。「政策ノート」を買いに日本橋の丸善へ。文房具売り場で予定していたものを手にするとどうもなじまない。すべてのノート類を物色した結果に選んだのはケンブリッジのライティングパッドだった。もちろん政策は新党日本の総選挙に向けてのものである。京橋で「ぜんぶ、フィデルのせい」の試写を見た。この「フィデル」とはキューバの国家評議会議長であるフィデル・カストロのことだ。1970年のパリ。9歳のアンナの父は弁護士、母は雑誌記者だった。あの時代は国境を越えて政治が生活のなかに浸透したものだ。70年にはチリで民主連合のアジェンデ政権が成立する。この政治勢力が71年に地方選挙で勝ったとき、パリで政治運動をしている人たちは熱い握手を交わし、それからの世界に希望を抱いた。この日本でもそうだった。遠い中南米に成立した民主的政府の行方は日常的な関心事であった。ところが73年にアジェンデ政権はクーデターで倒される。アジェンデ最後の演説が映画でも流された。「ベンセレモス」(われらは勝利する)という人民連合の歌も映画のシーンに出てくる。あのチリが世界で注目された3年間であった。
私も京都にいてこの政権の行方がとても気になっていた。国際的な連帯精神が生き生きと蠢(うごめ)いていた時代。アンナは大人たちの世界に疑問を持ちつつ、影響もされていく。映画は9歳の子供の視点から描かれている。最後あたりで、30数年が経過して、中年になったアンナが出てきて、当時を振り返って欲しかったと「ないものねだり」。「縦型」ではなく「水平型」の運動ならば「澱み」は少ないのかも知れないとも思った。「21世紀型のミニ・スターリニズム」とは、実体的には「20世紀全体主義」の残滓なのだ。「インサイダー」からの情報で全国で問題が起きていることを知る。たとえば関西。勤務時間中にもかかわらず特定政党の後援会の仕事をしろとの業務命令があった。それを拒否したところ処分があり、裁判沙汰になったそうだ。「思想信条の自由」とは建て前で、組織と官僚の自己都合でいくらでも蹂躙する。こうした体質を自己切開できないのなら、外部からの力で変えていくしかない。いくつかの週刊誌と新聞から問い合わせが来ている。午後6時半から湯島の「岩手屋」で五十嵐茂さんと日本酒を飲む。
10月4日(木)平河町の事務所で新党日本の役員会。田中康夫代表から次期衆議院選挙で民主党と合意があったことなどの報告を聞き、意見交換。この選挙協力は統一会派を結んだから行うというものではなく、次の総選挙で野党が自民党に勝つという大目標を実現させるものだ。「民主は候補者調整で公認候補の擁立を見送った選挙区では新党日本の候補者を推薦する方針」(「日経」10月4日)だ。再び選挙の季節がやってくる。昨日紹介した平沢勝栄議員の著作は選挙活動の実態を知るためには参考になるものだった。しかし「政治と金」問題では、欲望更新の法則ではないが、政治資金を集めるためにさまざまな行動を取っている内実をあえて書いてないところに問題がある。「パチンコ疑惑」を思い出せば、旧来型政治家は、やはりどこかで深い問題を抱えることになるのだろう。北朝鮮と公安の二重スパイではないかなどとも報道されている二瓶絵夢との個人的関係について「週刊文春」は驚くべき記事を掲載した。二瓶が政治家に食い込み、「人脈ブローカー」としてさまざまな詐欺まがい行為を行ってきた一端が明らかにされている。その政治家の一人が平沢議員だった。「驚いた」のは記者の質問だ。「ーー二瓶と寝たことは?」とあからさまに聞いているからだ。たとえ取材でこうした表現を使っても、普通は記事にするとき「男女の関係はありましたか」と婉曲な言葉に変える。平沢議員はこう答える。「冗談じゃないよ!100パーセントないよ!虚言癖なんだよ、二瓶は!」。平沢議員はテレビにも頻繁に登場して知名度もある。しかしマスコミでは「軽く」見られているからこんな表現になったのだろう。午後6時半から赤坂「重箱」。草野仁さん、ご子息の裕さんを囲んで文藝春秋の松井清人さん、石井謙一郎さんと食事。「ザ・ワイド」が終了したことの慰労会だ。草野さんによる追想記が「文藝春秋」に出る。