高校総体の東北大会の最終日、地元クラブチームは県南選手権と大会が重なっています。当然ミニバスの練習もしています。
どれも全部行きたいのですが、年に一回の中学生の部の公式戦に参加します。
試合結果は残念ながら予選を通過することは出来ませんでしたが、いろんなことを学んだのではないでしょうか。
男子は1年生中心のチーム構成になってしまいましたが、善戦しました。
最後スタミナ切れで惜しい勝利を逃しました。
バテてました。
そして終盤、シュートを入れる氣が力みになり今まで入ったシュートが入らなくなります。開始早々のびのびリラックスして打ってるシュートは無欲で良いシュートです。この違いを感じ終盤にも良いシュートが打てるようになるには、反復練習しかないのです。
姿勢と重心の関係をもう一度やり直したいと感じるゲームでした。
対戦相手に小学生の時は良く練習に来ていた選手がいました。ミニバスも須賀川男子出身なので、重心の取り方等は上手です。周りの選手のでたらめなプレイを見るとほんの些細なことなのですがプレイの幅が違うことを感じてしまいます。
女子も前半は善戦したものの後半まで持ちませんでした。
身体と氣力のスタミナは毎日の積み重ねです。中学生は駅伝の選手になるくらいでないとやはり使えません。
早々1・2・年生には365Kmの課題を出しました。この夏はガンガン走ってもらいましょう。
5年生から練習を共にしてきた選手のとりあえず節目の大会でした。
怪我で万全じゃない選手もいて、このところ見学が続いたので、すっかりこのゲームも見学だと思っていたら、それでもやる氣マンマンだったらしく、最後それに氣付き出場し得点もしたので安堵しました。(出れるならもっと大事な場面で仕事あったのに・・・!)
一つ一つのプレイを見れば、やっていた分だけナイスプレイはあります。ナイスシュートもあります。(もちろんLuckyシュートも・・・。)
そんなナイスプレイもゲームの勝利に結びつかないのは、腹割っての戦友を作れない現代の人間関係にあると感じています。
親や先生、コーチから見て良い子は、逆に言えばその枠(親や先生の枠)以上になる確立は低いと思います。
見ていて枠に入らない選手もいます。円滑にチームを運営するために枠に入れるため、あれこれやります。反発し、こちらが根負けするくらい破天荒の子供はいなくなりました。
男子で『県総体へ出たい』と、言ってきた昨年のメンバーがいます。
「スポ少に登録してなきゃ出れねーベ」と、返事しました。
『じゃー!これから登録したらOKですか?』
を期待しますが、今の子にはそれはないのです。。。
手を差し伸べてその方向へ導く手もありますが、本当にやりたい奴は裸の芸人じゃないですが『そんなの関係ねー』バリに言ってくるはずです。
(いま思ったけど『そんなの関係ねー』とやりたいけど出来ない人ばかりだからあれがギャグとしてうける時代なのか・・・?)
どこまで手を差し伸べるか?
自分の中でも基準はあります。しかし、その基準を全部の子に当てはめようとするには無理があります。
チェーン化してどこでも同じサービスが受けられることが正常と思っている世の中では、どんな状況でも同じものさしで(尺度で)判断されます。それが異常と個人では感じる場面は多々ありますが、声を上げて行動できる人はいません。金太郎飴でないと生き残れない世の中は金太郎飴を作ることしか考えられません。それが未来の可能性の芽を摘んでるとしても。
その子にあった基準は、一見“エコヒイキ”(不公平)と見られることが、実は公平だったりします。バスケットのルールブックの命とも言えるまえがきには
『・・・何によって公平と不公平とを区別するべきかいうことになると、以下に我々が円満な常識と強い意思をもちつづけていたとしても、ただちに明らかになるとはいえない、・・・』
と言う文があります。
松下幸之助の『素直な心になるために』には、何がほんとうの素直な心なのか?自身も分からないからこの本を書いてみんなで考えまた考え続けて行きたいと書いていたと記憶があります。(間違ってたらごめん)
人生の最後までこのことは考え続け答えを求め続ける必要があると思います。
そんなことを4年と言う歳月を共に歩んだ戦友たちと共に、最後の負けを受け容れながら考えた県総体中学生の部県中予選でした。
いつか蹴飛ばし合って、取っ組み合いしながら地べたを這いずり回りながらも、勝ちに行くそんな戦友のできるチームになるための貴重な節目の一日でした。
どれも全部行きたいのですが、年に一回の中学生の部の公式戦に参加します。
試合結果は残念ながら予選を通過することは出来ませんでしたが、いろんなことを学んだのではないでしょうか。
男子は1年生中心のチーム構成になってしまいましたが、善戦しました。
最後スタミナ切れで惜しい勝利を逃しました。
バテてました。
そして終盤、シュートを入れる氣が力みになり今まで入ったシュートが入らなくなります。開始早々のびのびリラックスして打ってるシュートは無欲で良いシュートです。この違いを感じ終盤にも良いシュートが打てるようになるには、反復練習しかないのです。
姿勢と重心の関係をもう一度やり直したいと感じるゲームでした。
対戦相手に小学生の時は良く練習に来ていた選手がいました。ミニバスも須賀川男子出身なので、重心の取り方等は上手です。周りの選手のでたらめなプレイを見るとほんの些細なことなのですがプレイの幅が違うことを感じてしまいます。
女子も前半は善戦したものの後半まで持ちませんでした。
身体と氣力のスタミナは毎日の積み重ねです。中学生は駅伝の選手になるくらいでないとやはり使えません。
早々1・2・年生には365Kmの課題を出しました。この夏はガンガン走ってもらいましょう。
5年生から練習を共にしてきた選手のとりあえず節目の大会でした。
怪我で万全じゃない選手もいて、このところ見学が続いたので、すっかりこのゲームも見学だと思っていたら、それでもやる氣マンマンだったらしく、最後それに氣付き出場し得点もしたので安堵しました。(出れるならもっと大事な場面で仕事あったのに・・・!)
一つ一つのプレイを見れば、やっていた分だけナイスプレイはあります。ナイスシュートもあります。(もちろんLuckyシュートも・・・。)
そんなナイスプレイもゲームの勝利に結びつかないのは、腹割っての戦友を作れない現代の人間関係にあると感じています。
親や先生、コーチから見て良い子は、逆に言えばその枠(親や先生の枠)以上になる確立は低いと思います。
見ていて枠に入らない選手もいます。円滑にチームを運営するために枠に入れるため、あれこれやります。反発し、こちらが根負けするくらい破天荒の子供はいなくなりました。
男子で『県総体へ出たい』と、言ってきた昨年のメンバーがいます。
「スポ少に登録してなきゃ出れねーベ」と、返事しました。
『じゃー!これから登録したらOKですか?』
を期待しますが、今の子にはそれはないのです。。。
手を差し伸べてその方向へ導く手もありますが、本当にやりたい奴は裸の芸人じゃないですが『そんなの関係ねー』バリに言ってくるはずです。
(いま思ったけど『そんなの関係ねー』とやりたいけど出来ない人ばかりだからあれがギャグとしてうける時代なのか・・・?)
どこまで手を差し伸べるか?
自分の中でも基準はあります。しかし、その基準を全部の子に当てはめようとするには無理があります。
チェーン化してどこでも同じサービスが受けられることが正常と思っている世の中では、どんな状況でも同じものさしで(尺度で)判断されます。それが異常と個人では感じる場面は多々ありますが、声を上げて行動できる人はいません。金太郎飴でないと生き残れない世の中は金太郎飴を作ることしか考えられません。それが未来の可能性の芽を摘んでるとしても。
その子にあった基準は、一見“エコヒイキ”(不公平)と見られることが、実は公平だったりします。バスケットのルールブックの命とも言えるまえがきには
『・・・何によって公平と不公平とを区別するべきかいうことになると、以下に我々が円満な常識と強い意思をもちつづけていたとしても、ただちに明らかになるとはいえない、・・・』
と言う文があります。
松下幸之助の『素直な心になるために』には、何がほんとうの素直な心なのか?自身も分からないからこの本を書いてみんなで考えまた考え続けて行きたいと書いていたと記憶があります。(間違ってたらごめん)
人生の最後までこのことは考え続け答えを求め続ける必要があると思います。
そんなことを4年と言う歳月を共に歩んだ戦友たちと共に、最後の負けを受け容れながら考えた県総体中学生の部県中予選でした。
いつか蹴飛ばし合って、取っ組み合いしながら地べたを這いずり回りながらも、勝ちに行くそんな戦友のできるチームになるための貴重な節目の一日でした。