荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

「桜井の史跡と伝説」-35/宮ケ崎八幡宮(本殿 流造)

2018年06月05日 | 散文
生家の本棚にこんな冊子がありました。著者は未だに不明です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。


35.宮ヶ崎八幡宮(本殿 流造)
宮ヶ崎八幡宮は霊仙山西麓の冠山にある。創建は不詳であるが古くから在地の八幡宮である。高知の八坂神社所有の鰐口の銘に「伊予国高市郷八幡宮鰐口、応永七年八月十五日」と刻まれている。このことから、580年以上の社歴をもち、越智郡高市郷に立地していたことがわかる。斉明天皇が予州朝倉へ行幸のみぎり、景勝の地、冠山に宇佐八幡宮を勧請奉斎し、鎮護の神とせられたのが始めである。


〈筆者〉
ここも既存の報告から抜粋します。

これから、八幡神社へ向かいます。




ご丁寧に梵字の訳を記載していました。


八幡神社の由緒を語りながら、参拝します。
「斉明天皇が朝倉郷に行幸なされた節に、朝倉郷と高市郷とを一望に眺められる景勝の地、冠山の突角に宇佐八幡宮を勧進し賜り鎮護の神と奉斉されたのが創立でウンヌン・・・中略」

故郷は斉明天皇の名がよく出て来ます。
故郷のシカとした歴史は、それ以降のようです。

続きます。
「社殿広く社領も寄進されたが鎌倉期に入り社領の大半を失うに至った。」

「然るに天正期に到り霊仙山城主中川山城守特に敬神の心厚く、社領並びに武具を奉献し復興に至ったが、長曽我部氏の四国侵略の戦禍によって多大の損害を受けた。後略」

奥深い参道です。


やっと何かが見えて来ました。


その広場の隅にこんなものがありました。

捨てるに捨てられない。かといって・・・。

本殿のようです。


お参りします。
由緒書より
「主神は誉田別尊即ち応神天皇であり母神である神宮皇后を併せてまつられている。

即ち護国の神であり遠く異国の文化を取り入れて国威を輝かした高徳の神様である。」
突然「異国の文化」が出て来ましたが、よくわかりません。

コンクリート造りが残念ですが、裏へ回ります。




一枚板に松鷲の透かし彫りです。


境内には須賀神社と中大兄社があります。




境内から更に参道があります。




山神社・三島神社・荒神社です。


三神合同社があります。




その奥には、それぞれにお社がありました。




本殿の境内まで引き返して、山道を下ります。
最初の案内板へ返る途中に広川神社があります。

これが神社です。

以上が、冠山にある神社です。
さて、冠山の位置関係はと言うと、

右手遠くに世田山・笠松山、左手奥に霊仙山を望む、手前の丘です。
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「桜井の史跡と伝説」-34/山城姫の伝説

2018年06月05日 | 散文
生家の本棚にこんな冊子がありました。著者は未だに不明です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。


34.山城姫の伝説
昭和25年(1950)の8月、宮ヶ崎の山城守のお堂の右方のお姫山で2人の少女が遊んでいた所、眼前に突然白鉢巻をした白衣の美しい、お姫様が出現して、少女達を驚かせた。
その後、姫を見た少女の父親はこの話を聞き、これこそ山城守の御霊であると思い、3年間の脳病で床についていたのを、一心に山城守の御霊に自分の病気平癒を祈願した。
それから父親は、日増しに快方に向かったといわれ、又、父親は、「お礼参りが出来るようになれば、お堂を建てます。」と言う心願をかけ、他の信者の援助も仰いで、後に彼自身の手で、お堂と通夜堂を建立した。
又、この父親もある夜、枕元で少女が目にしたのと同じ姫の姿を拝んだそうで、このことがあって以来、体の方もすっかりよくなり81才の高齢まで元気で生を全うすることが出来た。
昭和28年5月に宮内さんという女の方が宮ヶ崎で姫の話を耳にし、姪に当たる今井さんという方に尊像を書いてもらった。
今井さんは、斎戒沐浴、断食し祈願をこめ、8日目に山城姫の尊像を空中に拝し、鉛筆1本にて2時間で書き上げた。
しかも、その時現れた姫の姿は、前の少女や父親が仰いだイメージと全く同じだったと言うことです。
宮ヶ崎のある人が、お姫山の入口にあった俗に言う、「お姫岩」という岩を動かした所、不幸な事が続いたという話も残っている。


<筆者>
ここも既存の資料があるので抜粋します。

「十二社さん」です。

薬師如来の眷属である12神将を祀っています。
こんな山中に祀る訳がやがて分かります。

更に奥へ進みます。


途中、砂防ダムがあります。


道を間違えたかと思った頃に、家が見えました。
民家のように見えます。


ありました、「お姫堂」です。

平成16年に建て替えられたもののようです。

由緒
「中川山城守の息女をまつる
天正7年7月8日、敵に攻められこの地において奮戦するも力尽き自決すると伝えられる。」
中を拝観します。


学業成就・病気平癒のご利益があると言われているそうです。
子供のころ「4と9の付く日に幽霊となって現れる」と教えられたお姫さんです。


お堂の前です。


展望所として市民の憩いの場となっています。


お姫様の最期の場所で憩うのが供養なのでしょうね。

靄っていて眺望が利きませんでした。

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