ジル・アルプティアン『疑惑の科学者たちー盗用・捏造・不正の歴史』(吉田春美訳)原書房 2018
ルイ・パストゥール (1822-1895)は19世紀フランスの生物学(生化学・細菌学)の巨人として知られている。庵主は若い頃、パストゥールの伝記を読んで、一人の人間がどうしてこんなに次々と画期的な発見を成すことができたのかと驚嘆した憶えがある。そして自分の非才を嘆いた。
分子の光学異性体の発見、低温殺菌法(パスチャライゼーション)の開発、生命の自然発生説論破、蚕微粒子病の解決、酵母によるアルコール醗酵の発見、ワクチン開発などを行なった。パストゥールは世界の偉人伝に必ず登場する人物である。
ところが、最近になってパストゥールの評価は急降下した。その原因は彼自身が残していた「研究ノート」によるものである。そのノートはパリの科学アカデミーの金庫に保存されていたものであるが、規約により100年間、開示されないまま管理されていた。それが、1988年に開かれて読めるようになった。そこには、信じられない研究不正の事実がパストゥール自身によって記録されていたのである。上掲のアルプティアンの書の一章に、その仔細が述べられている。それは以下のごとし。
醗酵の研究では教え子であるアントワーヌ・ペシャン(1816-1908)の研究を盗用して自分の発見のようにしている。ワインの低温殺菌法もニコラ・アベール(1749 - 1841)とアルフレッド・ド・ヴェルニット(1806-1886)の二人がそれに関する研究論文を発表しているのに、知らないふりをして自分の発見のように装った。
さらに驚くべき不正は、羊の炭疽ワクチンについての研究である。パストゥールが作った「酸素で弱めた」ワクチンは羊の炭疽に全く効力がなかった。そこで、アンリ・トウッサン (1847-1890)が殺菌剤を利用して作ったワクチンを密かに手に入れ、それを公開実験で使い自分のワクチンは効果があると主張した。この恐るべき所業はパストゥールの「研究ノート」に自分の手で記録されている。彼の助手のアンドリアン・ロアールによって、死後に告発されていた事実であるが、誰も信じなかったのである。
狂犬病ワクチンはパストゥールの偉業の一つとして有名であるが、これもピエール・ヴィクトル・ガルティエ (1846-1908)のものである事は周知の歴史的事実である。これに関しても、パストゥールは厚かましく自分の成果のように宣伝した。不思議な事に、多くの伝記では彼の発明のように書かれてきた。
現代の科学者社会の倫理基準によると、炭疽ワクチンの不正実験だけでもパストゥールはその研究機関を懲戒免職されるに値する。そしてアカデミーの全ての地位と名誉を剥奪されていてもおかしくない行為である。たとえ、他にどんな公正な研究成果があったとしてもである。
しかし、伝記作家のパトリス・ドブレは次のように述べている。
「パストゥールはときに、他人が記述した研究成果を確認してから横取りしているだけのように見える。けれども、ほったらかしにされた実証実験、すなわち活用されずにいる研究結果をふたたび取り上げている点で彼ほど革新的な者はいなかった。彼の天才たる所以は総合の精神にある」と。これはあまりに甘すぎる評価である。
神格化された人物の遺骸を掘り起こして断罪する事はむつかしいようだ。Wikipediaの[炭疽菌]の項目をみると「1881年ルイ・パストゥールは、世界ではじめて生菌ワクチンを弱毒化した炭疽菌を使って開発した」と書かれている。
参考文献
ヴァレリー・ラド 『パスツール伝』(桶谷繁雄訳)白水社 1964