京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

ある洞穴生物学者の思い出

2019年02月08日 | 日記

ある洞穴生物学者の思い出

  吉井良三先生(1914 -1999)は庵主の大学教養時代の担任教授であった。先生は大阪府に生まれ、1935年に旧制の第三高等学校(三高)理乙類を卒業、1938年京都帝国理学部大学卒業し、1940~1946年ヨーロッパに留学した。最初はドイツとの交換留学生としてミュンヘン大学に派遣されていたが、戦火が激しくなり帰国の便が断たれたために、長期留学になったものと思える。京大が保存する三高の資料によると1944~1946年まではスペインで外務省嘱託日本公使館附雇員となっており、最後のほうは留学というより、ほとんど避難生活のようであった。帰国後1946年5月から、三高の講師(動物学)、光華女子専門学校教授を兼務、そして1963年には京都大学教養部教授になられた。円い眼鏡をかけた飄々とした先生で、学生のクラスコンパによく参加された。そこで、ご自分の研究対象である洞穴に棲むトビムシの話などを面白くしてくださった。

  記憶では次のような話があった。洞窟の虫をおびき寄せるのに、あるフランス人がチーズを使っていたので、自分も試みたが日本のチーズは全く効果がなかった。そこで漬け物を使ったがこれも効果がない。結局、発酵させたドブロクのような酒に、ヤスデ、トビムシをはじめいろいろな昆虫が寄ってくることがわかった。さらに洞窟にいる生物には真同穴性、好同穴性、迷同穴性のものがいて、真同穴性の種が学術的には貴重だと教わった。この話に刺激されて、先生の著である「洞穴学ことはじめ」(岩波新書)と「洞穴から生物学へ」(NHKブックス)を買って下宿で読んだものだ。

  吉井先生はミュンヘン大学の森林昆虫学研究所に留学されたが、ちょうど第二次世界大戦が始まって1年ほどで、戦争が激しくなるにつれて、そこの指導教授を含めて研究員はみな徴兵されていなくなり、ベルリン大学に移った。そこでインスブルック大学研究員のヤネチェクと知り合い、氷河のトビムシの共同研究が始まった。ヤネチェクは、のちにインスブルグ大学の生物学の教授となるが、その頃は軍服にいかめしい鉄十字章をぶら下げていたという。

 帰国してだいぶ経ってからヤネチェクがネパールのマカール氷河から送ってきたトビムシの標本を見て、吉井先生は驚愕する。それはルーマニア、アフガニスタン、日本(福島県)の3箇所の洞窟でのみ発見されているアケロンティデスという種類のものであったからだ。先生は、それまでこれらの種は平行進化でそれぞれの地方で生じたと考えていたが、ヒマラヤの高山帯にも生息する事より、この仮説は捨てざるをえなかった。そして氷河期には世界中で分布していたアケロンティデスが気候変動によって一部は高山に押し込められ、一部は洞穴に逃げ込んだという別の仮説を提出した。

  先生は動物行動学者の日高敏隆先生とも親しく、理学部の動物学教室にもよく来られていたので、後になってそこでお会いした。京大定年後は、ボルネオ島のサンダガンの森林研究所に勤めて、植林の害虫を防除する研究にたずさわったそうである。三高の同窓会誌『神陵文庫』第3巻に吉井先生の講演記録「オランウータンの国ーサンダカンの生活」が載っている(http://www.tbtcf.com/ shinryo/a0003/ 0006. pdf)。これがまた抱腹絶倒の講演なので、さわりの部分を要約して紹介する。

 『マレーシアボルネオ島のサンダカンで植林のための事業にたずさわった。サンダカンは深い入り江の中にあって丘のある長崎を小さくしたような街である。丘に登ると日本軍の掘った防空壕が残っている。ラワン材となるフタバガキは約200種類もあるので、適当に選んで植林すればよかろうと思うが、簡単ではない。これらの種は5~6年に一斉開花するが、花が咲き実が落ちて1週間ほどで発芽しなくなる。すなわち種子の保存が難し。また発芽してから、数年は比較的暗いところで育てないと、いたる所から枝が出て材木としては使えない。サンダカンでの生活は食費が安いので楽ではあるが、湿度が高くすみにくい。家は高床式になっており、雨季には床下に水がたまり、カエルが夜通し鳴くので、うるさくて寝られない。植林してしばらくすると、それを食害する昆虫が大発生する。例えばネムの木には、タイワンキチョウがついて、これが羽化すると植林地全体が黄色い絨毯をひきつめたようになる。象が夜に植林地にやってきて、木を引っこ抜くいたずらをするので、ジープに乗って爆竹をバンバンやったら、そのうち象は来なくなった等々…。』

先生の書物や談話、講演にはいつもユーモアが溢れていた。

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