「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」は、鴨長明が著した『方丈記』の有名な出だしの一節である。時間が、我々の存在とは独立にこの世界に実存し、河の流れのように森羅万象を押し流していくのだと素朴に考えてしまう。約1600年前に哲学者アウグスチヌスは「時間についてそれはなんだと問われなければ私にはわかっている。しかし、だれかに問われて説明しようとするとなんだかわからない」と述べている。かなり厄介なしろものである。
光や温度については、眼や皮膚の温度感知細胞のような感覚受容器を我々は身体に持っている。しかし、時間については、直接これを捉える感覚器のようなものは存在しない。力学や物理学では、時間は光や温度とともに基本的なパラメターとして登場するのにどうして、その受容器をヒト(生物)は持たないのか?これは不思議な話だが、ともかく我々は時間受容器を持たない。それ故に、物や事の変化を観察して、それを基準に時間を措定している。腹時計という一種の体内時計があるが、これも体の代謝的な変化を測定している。
物は実存である事は間違いはない。目の前のパソコンは幻ではなく確かに存在する。文字を入力すれば、画面が変化するので、変化もまた実存と考える。変化に付随するある”性質”を時間とすれば、これも実存ではないかと思いたい。ところが、理屈っぽい人がいて、我々が感じているのは瞬間だけで、それを脳が映写機のように連続的に重ね合わせて時間感覚を生成するのだと主張した。すなわち時間は実存ではなく、脳が生み出す特殊な幻影だという。
しかし単純にはそう言えない。水が一定方向に流れるのを人が見て、川の「時間」が生み出されるというが、見ていようと見ていまいと水は流れ、川の様相はどんどん変わっていく。それに物の変化は無数にあって、それぞれ個別に人が観念としての時間を付与できるわけがない。時間は万物に共有されるべきもので、そうであるからこそ、人と関わりないところで物と物、事と事の関係が四六時中、世界に存在するのであろう。
歴史的に哲学者の間でも時間に関する概念は分かれていたようである。G.W. ライプニッツ(1646-1716)は、時間はそれ独自で実存するものではなく出来事に還元されるものであると主張した。一方、I.カント(1724-1804)は、『純粋理性批判』において時間それ自体が独立の存在であるとした。えらい哲学者の間でも考えが違うのだから、我々凡俗が時間のことを考察すること自体が「時間の無駄」かもしれない。しかし凡人は凡人なりにあれこれ考えて行くことにしよう。
最後に外国のミステリー小説に出ていた時間に関する最高のジョークを一つ紹介する。
旅行中のロシア人がロンドンの街角で一人のイギリス人に次のようにたずねた。
”What is a time?”
そうすると、そのイギリス人は答えた。
”Dont' ask such a difficult question.”
参考図書
池田清彦 『科学は錯覚である』洋泉社 (1996)
入不二基義 『時間は実存するか』講談社現代新書 1638 (2002)
中島義道 『カントの時間論』 岩波書店 2001