goo blog サービス終了のお知らせ 

お湯の国 日本

美しい日本の温泉地中心の旅記録(おんせん鑑定士:監修) 【記事・映像は著作権、人権保護法等により無断使用を禁じます】

松代城址(信濃国松代藩)

2011年01月22日 |  🏰城郭史跡探訪

メモワール:Histoire(イストワール)松代城 映像は復元された二の丸太鼓門 2011.1.22 ≫

真田氏は真田昌幸の知略で、一家が秀吉側家康側に別れ家を残した。結局、徳川家康側に
ついた長男信之が上田城からこの松代城(海津城)に封じ込められ此処が真田氏の最後の居城

城郭:輪郭式平城 城主:真田氏 遺構:石垣、土塁、堀 石高:松代藩13万石 家紋:六連銭 
指定:国指定史跡(松代城址)、日本百名城(指定26番)

観察千曲川を望む城は、武田信玄が築城した歴史あるもの川中島の戦の最前線基地である。

参照#①松代文武学校(信濃国松代藩藩校)  ②真田氏最初の居城 上田城

コメント

土方歳三像(函館市五稜郭タワー)

2010年12月11日 |  🏰城郭史跡探訪


五稜郭タワーフロアーに展示されている土方歳三像。会津の旗と葵の紋。
土方歳三は晩年には会津藩にお抱えとなっている。しかし、箱館戦争で
は壮絶な戦死となった。シャープな生様は多くの土方ファンを惹寄せる

参照北海道蝦夷開拓の拠点、北海道新政府の政庁となった五稜郭

参照#土方が傷を療養した温泉地①福島県東山温泉 ②箱館湯の川温泉

コメント

平城京跡(大和国平城京)

2010年11月09日 |  🏰城郭史跡探訪

メモワール・Histoire(イストワール):平城京跡(2010.11.9)≫
映像:発掘・復元作業が続く平城京宮殿跡地(📷PENTAX  K200D・レンズPENTAX18-55Ⅱ)
   
私たちの歴史感はとかく京都をと意識することが多いが奈良の地を探求するにつけこ
の地の都としての悲哀が伝わる。権力が都を放棄するということはこういうことなのだ。

歴史
:710年同じ奈良の藤原京から元明天皇が遷都、784年桓武天皇が長岡京(桂川、宇
   治川の京都長岡)に遷都、794年和気清麻呂の建議で平安京(現京都)遷都となる。

考察:奈良の都が衰退し、京都が発展したのは何故だろう?それは都の衛生管理に寄与
   する大きな川がない
ことも 一因と推察。古代、中世の都市を維持するには「水」
   が不可欠である。京都には水源となる琵琶湖が山越えにあり都大路は桂川と鴨川
   
に挟まれた水の都である。一説に古代奈良の都は甚だ不衛生な状況だったとある。

参考:京都遷都長官 和気清麻呂

コメント

大内宿(陸奥国会津西街道)

2010年07月19日 |  🏰城郭史跡探訪

映像:村の鎮守境内からのパノラマ眺望は宿場郷の賑わいが想像できる。

栃木路から峠越えで会津街道に。江戸時代の重要な街道。歴史が走った路。
その一隅にまるで時代がそのまま残った様な景観の集落がある。大内宿だ。
当時の宿場町の様子が構図的にも把握できる。今も生活しているから凄い。

コメント

小田原城址(相模国小田原藩)

2010年06月06日 |  🏰城郭史跡探訪

メモワール・Histoireイストワール):小田原城址2010.6.6≫

小田原城は箱根、熱海などから近いので容易にいけるのだがこれまで
なかなか立ち寄れなかった。菖蒲庭園が美しいこの時期漸く入城した。
小田原評定、豊臣秀吉、北条氏直歴史がこの城で動いた
ことを実感

城郭:平山城、複合式層塔型3重4階天守閣 
城主:北条早雲~上杉~稲葉~大久保氏
遺構:石垣、土塁、堀(天守、門は再建)
石高:小田原藩11万3千石 家紋:大久保藤
指定:国史跡、日本百名城(指定23番)

温泉:筆者お勧め、箱根温泉郷:姥子温泉

コメント

常盤木門(小田原城)

2010年06月06日 |  🏰城郭史跡探訪

城門は城ごとに面相が異なる。小田原城は現在は二の丸本丸部分しか残っていないので
所謂、大手門(追手門)はない。この常盤木門も1971年に再建されたものである。本丸
へ向かう正門で堅牢な構えは多聞櫓と渡櫓門が連なる本丸の重要な防御拠点と目される。

コメント

菱の門(国宝姫路城)

2009年12月20日 |  🏰城郭史跡探訪

国宝で世界遺産姫路城の最も美しく堅牢な門。姫路城の核心部分登閣部分にあたる。
この門の凄いところはその華麗な造りと相反して鉄壁の防御を備えたところだろう。
日本の城郭建築物でも存在感を示す。旅人はこの門をくぐるとタイムスリップする。

コメント

千姫宝塔(京都府知恩院)

2009年12月09日 |  🏰城郭史跡探訪

memoir(メモワール)・Histoire(イストワール):千姫宝塔 知恩院2009.12.19 

千姫は江戸で亡くなり、遺骨は傳通院と茨木県の天樹院弘経寺に墓所がある。
千姫懐かしの場大阪京都では徳川所縁の知恩院に分骨この宝塔に収められた。
この千姫こそ、織田信長、徳川家と豊臣家が絡み合う歴史絵巻の悲劇の姫君

背景:豊臣秀吉嫡男秀頼お市の方の孫、茶々の子供)と徳川家康初孫千姫
   (秀忠と江の長女)が結婚。家康が豊臣を滅ぼし大阪城から千姫を救い
   縁戚である後の姫路城城主本田忠刻(家康孫・織田信長孫)に嫁がせた。

解説:千姫にも、秀頼にも、再婚の本田忠刻にも織田信長、豊臣秀吉、徳川
   家康の血が流れる。絡み合う戦国血筋絵巻物の中心に千姫がいたのだ。
   又、江は茶々の姉(浅井三姉妹)で、いとこの婚姻。姉妹の敵対であった。

参照千姫第二の人生の拠点・居城となった、世界遺産姫路城

コメント

会津藩士の墓(蝦夷地利尻島)

2009年09月22日 |  🏰城郭史跡探訪

映像:ペシ岬中腹にある防人武士、会津藩士の墓

利尻島に温泉と美観を求めて渡った。そして、偶然に見つけたのが会津藩士の
墓地であった。1806~7年(文化4~5年)にロシアが当時の日魯雑居地の樺太
の日本人居留地を襲ったことで会津藩士が北の守りで利尻島で病死埋葬された。

戦闘で亡くなったのではなく脚気(ビタミンB1欠乏症)で亡くなったのだ。記録
によると、北方警備で弘前藩士らが斜里で72名、宗谷で30名以上、会津藩士は
樺太を中心に60名程度病死したとされ、この墓はそのうちの利尻島での墓標だ。

防人として会津藩士の250名が着任、この地で亡くなった人を祀る。当時会津兵
は最も幕府に信頼された。会津藩自ら北辺の守りを志願したという。末期の京都
守護職
といい、会津戦争の白虎隊といい日本の歴史に足跡を残した会津は愚直だ。

コメント

米沢城址(羽前国米沢藩)

2009年09月12日 |  🏰城郭史跡探訪

 戦国時代の武将上杉謙信は北陸の英雄であったが豊臣秀吉より
 120万石近い石高はこの米沢30万石に封じ込められた。しかし、
 主従共々脱落する事もなく、幕末までお家をつないだのである。

 城郭:輪郭式平城 城主長井~伊達~蒲生~上杉 遺構:土類、堀
 石高:当初30万石から15万石に減額 家紋:竹に二羽飛び雀
 現在:本丸跡が上杉神社境内、二の丸に米沢市立上杉記念館
 指定続日本百名城 

 参照#① 日本のお城 探訪紀行 ② 米沢城址跡上杉神社
   

コメント

上杉謙信公像(米沢城址上杉神社)

2009年09月12日 |  🏰城郭史跡探訪

越後の龍、長尾景虎。上杉謙信は戦国時代屈指の戦上手とも云われた武人。数々の銅像
を見上げて来たが謙信公像ほど威圧感を感じた銅像も無い。米沢城という比較的小さい
お城には似つかわしくない。それもその筈、元は領地120万石を納める大大名だったのだ。

考察:後の加賀百万石が地領を引き継いだ、しかし謙信公の末裔は直江兼次という賢将
   の働きで激動の時代を生き抜いた。 120万石から30万石に格落ちしても家臣団が
   一人の脱落者も無いという。裏返せば、謙信公の力が末代まで血脈を繋いだのだ。

参照上杉謙信公像が設置されている米沢城址上杉神社

コメント

石川門(加賀藩金沢城)

2009年06月03日 |  🏰城郭史跡探訪

映像:金沢城の石川門を本丸地域から遠望する。
金沢城に重要門が三つある。その中の一つの石川門。その名称は単純に同地方の石川
郡を向いていたから名付けられたとか。門の向こうに景勝「兼六園」がある。この門は
1788年に再建され、今に至る。表門、櫓門、多聞櫓、渡櫓、菱櫓、太鼓塀で構成する。

指定:国重要文化財

コメント

安宅の関(加賀国安宅の関)

2009年05月24日 |  🏰城郭史跡探訪

 映像:義経(左)を弁慶(中央)が責め、安宅関守(右)が見逃す場面の石像


 源義経主従が日本海回りで奥州平泉を目指した安宅の関。歴史的事実は
 ともかく歌舞伎「勧進帳」では弁慶が泣く泣く主人を責める場面は有名
 である。実際にこの地を義経は通って奥州へ落ちのびていったのである。

 指定:石川県史跡(安宅の関跡)

 義経伝説:本州最北では津軽半島の三つの厩伝説(三厩の地名が残る)、
    そして津軽海峡を渡り、北海道を経由してジンギス汗になったと
    の壮大な英雄伝説が残っている。人は誰も清く、正しく、美しい
    ものの成功、永遠を願うもの。そして儚く散っていくものを惜し
    むもの。まさしく義経は時代を超えた庶民の想い人、英雄だった。

 参照源義経(悲劇の英雄)探訪紀行

コメント

三内丸山遺跡(縄文遺跡群:青森市)

2009年02月02日 |  🏰城郭史跡探訪

最近、森県の観光地で一番人気にランクインされたのが三内丸山遺跡。青森県と
言えば十和田湖畔乙女の像が観光地のトップであったが、ジリジリ観光客が減った。
観光資源は超一流であるのに何故?ここは観覧無料、ボランティアガイドがに案内。

従来のトップ
十和田湖ではどうだろう、混合う観光地に何かが欠けている。有数の
観光地に有りがちな、お持て成しマインドが失われている。観光客の激減で何とか
しようと、温泉を掘ったり、景観を魅力あるものにするワーキングなど対策中だが、
その前にやる事があるだろう。それはお持て成しの心を関係者が一人一人持つ事だ。

時代は単なる観光地には満足しない。人々との触れ合い、ほのぼの昔の日本の文化・
観光を求めている。三内丸山遺跡には現地語部と縄文のロマンがある。綺麗な景観、
温泉ならば日本中に溢れているのだ。その事を十和田湖観光の関係者は理解すべき。

指定国特別史跡 時代縄文時代

コメント

尿前の関(宮城県鳴子温泉)

2008年12月22日 |  🏰城郭史跡探訪

映像:鳴子温泉方面を関所越しに望む。関所御仮屋は石段を下がると跡地がある。「

宮城鳴子峡は大谷川が刻むV字峡その断崖が途切れた地から中山平温泉へ抜ける
山道に『尿前の関』が設置されている。仙台出羽街道のチェックポイント。出羽
の国から伊達藩へはここから川を下る事となる。当時の面影、船曳の地名が残る。

鳴子伝説:義経の愛児亀若丸を川の湯に入れ『…もはや藤原秀衡の国なれば泣き
  たもうともはばかることなし』と云えば、始めて泣き、故に、「泣き子の湯」
  と謂れの地名鳴子になったとの事。これも信じたい。地名とはそんなものだ。

コメント