日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

自己肯定感雑感。

2016-04-24 20:13:34 | 発達応援
 今日は9時半頃に家を出て、15分ほどの隣町へ行きました。
今週は雨が続くようだからなのか、もう、田起こしをしているところがありました。
その時は、雨の中、トラクターが行ったり来たりしているだけの風景でした。

 しかし、3時間後、同じ場所を通ると、田起こしした柔らかい土の上には、
カラス、アマサギ、シロサギ、アオサギ…、どこから来たの!見てたの、田起こし!?
というくらいの鳥たちが集まっていました。

 色々調べてみても、鳥は嗅覚はあまり発達していないらしいので、
田起こしした、あの独特の土の匂いに誘われて…という感じではなさそうです。
鳥は、視覚がよいようですが、私が最初に通りがかったときには、
雨も降っているし、飛ぶ鳥もいないし、周りの木々にそれらの鳥が止まっていた感じもしませんでした。

 すごいぞ、鳥!
こわいぞ、鳥!

 今日は「自己肯定感」ということについて、考えてしまいました。

 ある会の中で、保護者の方がご自身のお子さんについて、
小さい頃に、自己肯定感を育んであげられなかった、幼稚園でも周りの子よりできなくて、
そのことを友だちにもあれこれ言われ、先生にも言われたので、
もう、大きくなった今、「できたね。」と褒めても、
「●●ちゃんよりできてない」とか「全然だめだし」とちっとも認めない。
以前より、ずいぶん成長しているのに、
小さい頃に自己肯定感を育んであげられなかったからだ、と痛感している、
というようなことをお話しされました。

 自分ができたことを自分で認められない、
「どうせ、自分はだめだ…」というお子さんの姿を見るのは、
まだまだ、やればどんどん伸びることがわかっている、私たち大人、
ましてや、近くでそれを見ている保護者の方は辛いことだろうなぁ、と思いつつも
別のことも考えていました。

 子どもさんが他の子と自分を自身で比較して、「ああ、自分はできていないな。」と落ち込んで、
「私、ちっともできてないよ!」という姿は、
本人の中に自分を客観的に見る力、メタ認知ができているということです。

 きちんと、自分のことを客観視できる子に、
「すごい!」「できる!」といくら声かけしても、
それは「空褒め(からぼめ)」にしかならないのではないかなぁ、と思うのです。

 以前、私が一緒に勉強している子と、中々できない課題に取組んだことがありました。
その子は、「できない!」と悔しがり、今にも投げ出しそうな気配もありました。
私はその子が課題を投げ出さずに最後までやり通せるように、良かれと思い、
少しではありましたが手助けをしました。

 その甲斐もあり、その子は涙を流しながらも課題をやり通せたので、
できたあとに、「がんばったね。」とハイタッチの手を差し出すと、
ハイタッチより先に、その課題をぐちゃぐちゃにして、
わーんわんわんと大泣きしていました。

 「そうか、手助けしてもらったのが悔しかったんだね。次は、ひとりでもできるよ。」と言いましたが、
「もう、しないもん!」と言ってその日は終わりました。

 自分の思っていた力を出し切れるはずが、出し切れなかった悔しさ。
やり遂げることはできたけれど、それは自分が思った形でのものではなかった。
そんな達成感のない感情の中で、ハイタッチを求められても…。

 ああ、空褒めだったな、と私自身反省したのでした。
そこで、次にその子と会ったとき、同じ課題に取組むか聞くと、
躊躇しながらも、「やる」といったので、私は一切手を出さず、見守ることにしました。

 子どもは「できないなぁ」「むずかしいなぁ」「いらいらするなぁ」といいながら、
私は途中、口で説明をしたり、冷静になるようにうながしたりしながら、手は出さず見守りました。

 時間はかかりましたが、自分でやり通せたとき、
その子からハイタッチの手が出て、顔は満面の笑みでした。

 子どもには、自分自身の理想の自分があり、そこに近づくために、
もがき苦しんでいることがあるのだと思います。

 幼い頃に褒められて育つことは大事かもしれません。
でも、自分自身のことで考えても、私は決して褒められてばかりの子ではありませんでした。

 よその家で行儀よくしておくことや、大人の中で黙って自分なりに遊んで邪魔をしない、
そんな点では褒められる子どもでした。

 一方で、幼稚園では毎日、幼稚園に着くと「行かない!」と門にしがみつき泣き叫ぶし、
手先が不器用で持ち帰る工作は「また、ゴミを持って帰ってきた!」と母に言われ、
ワークブックでは何やら、へんてこな間違いをして近くの友だちに突っ込まれ、めそめそしていました。

 きっと、子どもながらに落ち込むこともあったかもしれませんが、
そんなことはちっとも覚えていません。

 子どもの工作に「ゴミを持ち帰る!」と辛辣なことを言う母が居たけれど、
他の誰かと比べて、何か言われたことはなく、
「あなたは、あなた。自分が満足かどうかを思いなさい。」ということだけは、
母からも、母より優しかった父からも、父より私に甘々だった祖母からも徹底して、
言われ続けていたような気がします。

 私は他の誰かと競うのではなく、昨日の自分、
あの日のできなかった自分、悔しくて泣いた自分と競っているのだということ。
それよりも、できるようになりたいならどうするのか。
人が10回でできることを、10回でできないなら、倍やりなさい。
それでもできないなら、もっとやるしかないのだよ。
それが嫌なら、仕方がないけれど、卑屈になるのは見ているのも不愉快だから、ひねくれることはするな。
そんなことを言われて育った気がします。

 自己肯定感。
褒めさえすれば、育つものではない気が私はします。
子どもの中の何を認めるのか。
理想の自分とのギャップに、子どもが自分を否定するとき、
周りの大人はどう、手を差し伸べ、どう導くのか。
一様にはいかないものだと思います。

 難しいですね。
だからこそ、しっかり、目の前の子どもを見ることが大切だなぁ、と思うことです。


コメント
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