心と体を通して見えてきたもの

個人的な生まれ変わりの体験談。心とは?カルマとは?人間の本質や使命とは?
といったことを考えてます。

第3章 光とともに ナンバー2225 コーカサス地方のハザール人

2024-06-28 20:58:28 | Weblog
ナンバー2225 2024.06.28  コーカサス地方のハザール人
メソポタミア文明の基礎をつくった人々の中でも、バアルを信仰していた遊牧民の一派はバビロニアやフェニキアへ広がる一方で、別の一派はカスピ海沿岸と黒海北部にまたがる広大なコーカサス地域にも広がりました。
このバアル信仰をカスピ海と黒海へ伝えた遊牧民の一派であるハザール人は、謎の多い遊牧民と言われているようです。
448年ビザンチン帝国(東ローマ帝国、ギリシャ帝国とも言う、首都コンスタンティノープル)からフン族のアッチラ大王への使節団報告の中に「戦士民族」としてハザール人が登場するといいますから、この時期にはフン族の配下で活動していたようです。
アッチラ大王の死後、フン族の帝国が崩壊すると、空白になったコーカサス地方に、東から西から次々といくつもの遊牧民が押し寄せてきました。
6世紀初頭、サーサーン朝ペルシア帝国のカワード1世の治世の時、ハザール人はコーカサス地方(現在のグルジア、アルメニア、アゼルバイジャンのあたり)を占領しました。
6世紀の半ばカワード1世の息子ホスロー1世の治世の時にも、ハザール人のペルシア国境地帯(今のアルメニアとアルバニアあたり)への侵入は止まらなかったといいます。
この時期のコーカサス北部にいる種族の中で、最も力のある種族がハザール人だったようです。
その後、西トルコ(突厥)帝国の配下にハザール人は組み込まれましたが、最強の実戦部隊として活躍したようです。
突厥(とっけつ)はモンゴル高原から中央アジア、カスピ海北岸にかけての広大な地域を支配したテュルク(トルコ)系遊牧騎馬民族で日本書紀(668年、天智天皇の時代)にも登場するといいます。
テュルクの音写表記が突厥で、彼らは独自の文字を持ち、首長は可汗と呼ばれたようですが、のちに隋によって東西に分裂されて現在はトルコ(552年建国、共和国としては1923年建国)らしいです。
627年、ビザンチン帝国の皇帝ヘラクレイオスはサーサーン朝ペルシアとの戦いに備えて、ハザール人と軍事同盟を結んだといいます。
ハザール人はこの戦いに、4万人のペルシア遠征軍を出したといいます。
7世紀に権威を誇っていた西トルコ帝国(突厥)が分裂して滅びると、ハザール人は彼らの配下から離れることができたため、7世紀中ごろに自ら西突厥の継承者であると名乗り、ハザール・カガン国という王国を形成したといいます。
ナンバー2226 2024.07.02 につづくことでしょう
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