里の部屋

日々思ったことを綴っていこうと思います。

父の思い出

2007年10月25日 | 日々のつぶやき
今月の5日が父の50回忌の日でしたので、この月のうちに少しでも父の思い出を書いておこうと思います。

昨年母が亡くなり、どうしても母の思い出が強く前に出て、早くに亡くなった父のことが置き去りになってしまっているので、申し訳ないと心の中で詫びています。

私は、幼少の頃生まれた時からずっと病弱で、小学校へ行くようになっても、一人で学校まで行く体力も気力も無かったので、しかも田舎でしたので、家から学校までは、今住んでいる所では想像も付かないほどの距離がありました。

今の住居は、私の小学校より近い距離に3つの小学校があります。ここなら当時の私でも自分で行くことが出来たのではと思います。

当時の田舎では集団登校などありませんでしたし、体の弱かった私は、毎朝父が自転車で出勤する時、乗せてもらって学校へ行っていました。1,2年の時はずっと送ってもらいました。

帰りは母がリヤカーで迎えに来てくれて、それに乗せてもらって帰りました。3年生になった頃から自分で通学出来るようになりました。

父に自転車で送ってもらうために、自転車の後ろにカゴが積んであって、そのかごの中に私は乗っていました。ある時、家で飼っていた鶏と一緒にそのかごの中に乗せてもらって学校へ行きました。

その鶏が、どうして私と一緒に乗っていたのか解りません。この鶏を父は誰かにあげるつもりだったのか、それとも売りに持って行ったのか解りません。そして、よく道中逃げ出すこともなく、私と一緒にカゴに乗っていたのかも解りません。

そして私が学校で降ろされた後、その鶏がおとなしく行くべき所まで行ったかどうかも解りません。

この鶏と一緒にカゴに乗って行った日に、学校で話題になり、皆に笑われたことだけは覚えています。

ある寒い冬の朝、いつものように自転車に乗せてもらって学校へ行きましたが、その日は寒さのため道が凍っていました。学校の所に橋が有り、その橋を渡れば学校の校庭になるのですが、その橋も凍っていて自転車がすべって横転し、私は投げ出され、欄干の無いその橋の端で、まさにまさに川へおちると言う所で、校舎から見ていた先生が飛んで来て下さり、父も私も無事でした。

普通の家庭ではお母さんの方が教育ママゴンですが、我が家では母は[勉強しなさい」とか「宿題したか?」等とは殆ど言いませんでした。それに比べ、父はいつも「勉強で要るものは何でも買うたげるし、勉強しなさい」「今日テスト出来たか?」等とよく言っていた。

授業参観や懇談会に来たのも父でした。わざわざ仕事中に来なくてもいいのにと思いました。お父さんが授業参観などに来る家庭は、今でこそ父親参観日と言うのもあったりして、お父さんも授業を見に来たり、懇談に参加されますが、当時はお父さんが来るなんてめったにありませんでしたから、私はとてもイヤでした。

勉強道具ではありませんが、ペンギンの絵の付いたアルミのお弁当箱を父が買ってくれた記憶があります。普段は給食がありましたので、遠足や運動会の時くらいしか使う機会はありませんでしたが、そのお弁当箱が気に入っていました。

母が、時々そのお弁当箱にゼリーや卵豆腐を作っていた記憶もあります。5年ほど前に実家に行った時、忘れていたそのお弁当箱を見つけ、これ帰るとき父の思い出にもって帰ろうと思ったのですが、いざ帰る時、すっかり持って帰るのを忘れました。

次に実家へ行った時には、母が倒れて入院しておりましたので、妹の鬼○子が、母の家にある不要と思えるものをかってに処分しました。軽トラック2台で取りに来てもらい、17万円払ったそうです。勿論母のお金で。

その時に不要の物として扱われたらしく、いくら探してもそのお弁当箱は見つかりませんでした。とても残念です。

私は偽善者?

2007年10月23日 | 日々のつぶやき
今日は長女が風邪をひき、熱もあったので会社を休みました。夕べから頭が痛いとか気分が悪いと言っていましたので、明日はもしこの状態が続いていたら会社を休んだらと言いました。

今朝になって「やっぱりしんどいし休むわ」と言うので、会社へ電話を入れさせて、「病院へ行こうか」と言ったのですが、「しんどいし寝とくほうがいい」との返事でしたので、本人の言うとおりにしました。

住んでる団地の玄関入り口と階段下の辺りをほうきではいて掃除していたら娘が起きて来て、「そんなとこ綺麗にするんやったら、家の中をもっと綺麗にしたら」と不機嫌な顔して言いました。

又、お昼におうどんが食べたいと言うのですが、あいにくうどん玉の買い置きも冷凍のうどんも無かったので、「何か他のものにして」と言い、結局温かいものがいいと言うことでインスタントラーメンになりました。

私は今日、以前にお琴教室で教えて下さっていた先生を、入っておられる施設に面会に行く予定にしておりました。

昼食を食べ終わった後出かける用意をしていたら、娘が「何処か行くの?」と聞きました。「○○先生の所に行って来るわ」と言ったところ、「病気の娘より、○○先生の方が大事なのか」とえらい不機嫌になりました。

目が見えなくて、お年が83歳の先生が、私が2ヶ月に一度面会に行って、家元から送られてくる邦楽の学会誌を2か月分ずつ読んであげるのを待っていて下さるので、何時も偶数月の中頃から月末までの間で面会に行く事にしております。

数日前から、今日でないと私の空いている日が無く、今日行こうと決めていましたので、娘に対して後ろ髪を惹かれる思いはありましたが、先生の所に行って来ました。

出かける前に、娘が「人目につく外の掃除をしたり、病気の子供をおいて先生の所へ行ったり、お母さんは偽善者や」と言ったのがグサッと刺さりました。

長野へ

2007年10月14日 | 日々のつぶやき
少し前に長野に主人の訳あり旅行に行く事になりましたと書いたとおり、行って来ました。9月30日と10月1日に行きましたが、この日は朝家を出る時からあいにくの雨降りでした。

ここ4,5日は朝夕随分涼しくなりましたが、長野へ出発した日は、未だ夏が終わっていない感じで暑かったです。もしかするとこの雨で涼しくなるかなぁと思いました。

京都から長野へ行く道中、殆ど高速道路ですが、朝顔、彼岸花、コスモス、ススキ等が目に留まり、夏と秋が重なっていると感じました。

主人は相談を受けた先生から主に松本を中心に行きなさいと言われたそうなので、松本駅の近くのホテルに泊まることにしました。

朝8時に家を出て、途中何度も高速道路のパーキングエリアで休憩を取りながら行きましたが、意外に近かったようで3時半頃にホテルに付きました。

本当は着いた日に少しでも松本にあるお寺や神社を回りたかったのですが、あいにくの雨で、この日はもうホテルに入ったままになりました。

ホテルの窓から松本駅を見ると、カラフルな電車に風林火山と書いてあるのが見えて、NHKの大河ドラマが頭に浮かび、さすが長野県だなと思いました。

翌朝、ホテルの食堂の従業員の方やフロントの受付の方に、武田信玄やその部下の人たちが祭られているお寺や神社は何処ですか?と聞いて見ましたが、ご存知ないようでしたので、とにかく地図を見て行ける所を数箇所回って見ました。

はっきりここと言う所が解りませんので、とうてい一泊旅行では回りきれません。主人は又何度か長野に来たいと言っていました。次は桜の咲く頃に行こうと言っています。

帰りには雨も小降りで降ったり止んだりになりましたので、諏訪湖を見たり、諏訪大社にも寄りました。

息子に長野へ行ったらおやきを買って来てと言われていたので、お土産に買って帰りました。

私は、おやきを見たのも食べるのも初めてです。中に餡子のもあれば、かぼちゃ、マツタケ、野沢菜、きんぴら牛蒡、切り干し大根など、いろんなものが入ったお饅頭のような、あるいは今川焼きのような感じのものでした。

電子レンジで少し暖めて食べました。1個がすごくボリュームがありました。私は餡子の入ったのとかぼちゃが入っているのが美味しいと思いましたが、息子や娘は野沢菜の入ったのが一番美味しいと言っていました。

父の命日に

2007年10月05日 | 日々のつぶやき
10月5日は父の命日です。今回で丸49年、つまり50回忌です。でも残念なことに50回忌の法要は、今年の5月に母の一周期と一緒に済ませてしまったのです。

実家の近くに住んでいる妹が、自分が誰もいなくなった家の管理やお寺の付き合い等をするからと言って、殆どの財産を取ってしまったのに「お寺の付き合いがしんどい」と近所の人にもらしていたらしい。

その結果、ケチって母の一周忌と父の50回忌を一緒にして貰うようにしたらしい。財産を取る為だけに家を守るとか、お寺の付き合いをするからと言ったに違いない。母が倒れる前に妹のことを「あの子は鬼やで」と言っていたのは、母亡き後のことも見通していたのかなと思う時があります。

父は私とこの妹の鬼○子の運動会の日曜日の朝5時頃に家族に何も言い残す事無く一人で次の世へと旅立ってしまいました。

父は前日の土曜日の晩に、同じ職場に勤めている人たちと村の公民館に集まって、マージャンをしていました。そのマージャンに父は勝ってその直後「頭が痛い」と言って自分で横になってそのまま意識がなくなったそうです。

母や私たち子供が寝入った0時過ぎに、私は慌ただしく走ってくる人の足音で目が覚めた。「○○さん、○○さん」と呼ばれていたが、母は気が付いていないらしい。私は何か恐ろしさを感じて、息を凝らして、早く母が気付いてくれないかなぁと思っていた。

やっと母が気がついて、父の異常事態を知らされ、私たち親子は公民館へと駆けつけた。真夜中に町のお医者さんに来てもらったり、近所の方で元軍医さんだった人が見て下さったが、もうなすすべも無く、私たち家族や、お医者さんや、マージャン仲間の皆が見守る中で静かに息を引き取りました。

私と妹の学校の運動会のためにおやつとして、父が土曜日に勤めの帰りに果物やお菓子を買って来てくれていましたが、急遽それらは父に供える事になりました。

母は運動会で、保護者のクラス対抗リレーで、私のクラスの選手として選ばれていましたが、勿論それもダメになりました。

後日母は土曜日の晩に作ったカレーが少し辛かったので、それが原因で、父が脳溢血で倒れたのではとしきりに気にしていましたが、私たち子供も辛かったという記憶は無かったので、それが原因だとは思いませんが・・・

我が家の今晩のメニューはカレーにしようと思います。子供たちに「おじいちゃんの最後の食事がカレーだった」と言って、父の思い出を話したいと考えています。私の子供たちには今晩思い出を話しますが、印象に残っている父の思いでは又後日書く事にします。