goo blog サービス終了のお知らせ 

昭JIJI(アキラジジ)の島旅賛歌*参加

日本全国に有人島が434島ほどある。全島制覇すべく島旅を継続中。

宮城県への島旅 71回目

2014-02-09 04:30:00 | 03北日本・宮城県・牡鹿諸島
行き先明示板がありました。真っ直ぐ行くと別の港になります。よく見ると左へ行くところがありました。


(行き先明示板)

それには、「出島遺跡入口」と書かれていました。


(出島遺跡石碑)

縄文時代に生活が営まれた跡と推定される出島遺跡が残されているとのことで、少し道を下ってみましたが、距離的なことも書いてなくて、細くて急坂で帰りを考えて、途中から引き返してきました。


(細い急な坂)

少し歩くと下への道がありました。先ほど、木間から見えた建物は、仮設住宅でした。




(仮設住宅)

「女川町出島町営グランド応急仮設住宅」と書かれた看板がありました。


(女川町出島町営グランド応急仮設住宅)
(写真撮影:2013.10)

宮城県への島旅 70回目

2014-02-08 04:30:00 | 03北日本・宮城県・牡鹿諸島
「モニタリングステーション」と書かれた東北電力の案内板がありました。


(「モニタリングステーション」と書かれた案内板)

建物の中の表示板には、「ただ今の線量率は……」と出ていました。


(建物の中の表示板)

具体的な数値も表示されていました。「75.8nGy/h」と出ていました。後で調べると「nGy/h」は、空間ガンマ線線量率とありました。意味はよく分かりません。


(具体的な数値)

新しいお墓がいくつかありました。津波で亡くなった方のお墓でしょうか。


(新しいお墓)

木間から建物がたくさん見えてきました。




(木間から建物が)
(写真撮影:2013.10)

宮城県への島旅 69回目

2014-02-07 04:30:00 | 03北日本・宮城県・牡鹿諸島
なだらかな上り坂をゆっくりと上っていきました。


(なだらかな上り坂)

切り倒されて大きさが揃えられた木材がありました。何に使われるのでしょうか。


(大きさが揃えられた木材)

道路脇に井戸のようなものがありました。周りには民家はなく、何に使われていたのでしょうか。


(井戸のようなものが)

道路脇には、杉の木がたくさん植えられていました。


(杉の木が)

突然、建物が見えてきました。


(突然、建物が)

屋根には、何かを集めているような装置がありました。


(何かを集めているような装置)
(写真撮影:2013.10)

宮城県への島旅 68回目

2014-02-06 04:30:00 | 03北日本・宮城県・牡鹿諸島
建物の中を見てみると太鼓が置かれていました。公民館なのでしょうか。事務所的な雰囲気はしませんでした。


(建物の中)

別の港へ向かって歩き始めました。


(別の港へ)

少し前に、人がおられたので、神社のことを聞きました。その話では、この辺りにあるといわれましたが、お墓はありましたが、神社の姿は確認できませんでした。


(お墓)

この辺りは、津波でおられたのでしょうか、石垣がありますが、家はほとんどなく、草がボウボウと生えていました。


(石垣だけ)

空には、半月が輝いていました。


(半月)

道端には、かわいい花が咲いていました。名前は分かりません。津波に耐えたのでしょうか、それとも種が流されてきて、咲いたのでしょうか。


(かわいい花)
(写真撮影:2013.10)

宮城県への島旅 67回目

2014-02-05 04:30:00 | 03北日本・宮城県・牡鹿諸島
高台に何軒かの家がありました。湾になっているので、ここまでは津波は来なかったのでしょうか。


(高台に何軒かの家)

ここにも養殖用の網籠が積まれていました。ここまで人影を見ませんでした。


(養殖用の網籠)

ホタテの貝殻が積まれていました。カキの養殖がされているのでしょうか。


(ホタテの貝殻)

港へ戻る途中、岸壁で船を引き寄せている人を見ました。これから漁に出かけられるのでしょうか。この島へ上陸して、初めての人影です。


(初めての人影)

消火栓のマンホールです。魚は、カツオでしょうか。地域地域で色々なマンホールがありますね。


(消火栓のマンホール)

「島の願い出島架橋」と書かれた看板が掲げられた建物がありました。今は、3便/日の船だけでは、不便でしょうね。車での移動が可能になるので、便利でしょうね。



(「島の願い出島架橋」と書かれた看板が掲げられた建物)
(写真撮影:2013.10)

宮城県への島旅 66回目

2014-02-04 04:30:00 | 03北日本・宮城県・牡鹿諸島
船を降りた集落を散策することにしました。


(島内散策)

何軒かの家が見えましたので、そちらへ向かうことにしました。


(何軒かの家が)

先ほど見た大きな建物の反対側に出てきました。見ると大きく地盤沈下をしたようで、海とつながっていました。これでは、修復が大変なようで、そのままになっていたのですね。


(大きな建物が海につながっている)

浮き球や養殖用のネットがまとめられていました。まだ、再生できていないのでしょうか。


(浮き球や養殖用のネット)

その先にあった建物も海水が侵食していました。


(建物も海水が侵食)

岸壁が沈下して、船を接岸できないのか、船が陸に揚げられていました。


(陸に船が)
(写真撮影:2013.10)

宮城県への島旅 65回目

2014-02-03 04:30:00 | 03北日本・宮城県・牡鹿諸島
上陸して、島内散策を開始しました。
ここで、出島の概要を書きます。
出島(いずしま)は、女川港から航路距離7km、女川町の北東に位置し、本土に最も近い距離で約300mという島。島全体が南北に細長い海食台地で、島の両端に出島湾・寺間湾があって、天然の良港になっており、出島・寺間の2集落がある。主要産業は水産業で、カキやワカメの養殖などが営まれている。気候は暖流黒潮の影響で比較的温暖だ。島内の貝塚からは縄文時代の遺構も発見された。定住は鎌倉時代といわれている。島の沿岸部は三陸地方独特のリアス式海岸が続き、風光明媚の地でもあることから南三陸金華山国定公園に指定され、「海洋観光レクレーション基地」として発展が期待されている。


(島内散策を開始)

定期船は、出航して、この島の別の港へ向かっていきました。定期船が接岸した岸壁は、仮設の浮桟橋になっていました。


(仮設の浮桟橋)

案内板には、「前出島」と書かれていました。


(案内板には、「前出島」)

たくさんの船が陸に挙げられていました。係留する場所がないのでしょうか。


(たくさんの船が陸に)

海岸線に大きな建物がありましたが、壊れたままでした。


(壊れたままの大きな建物)

その近くにウミウが止まっていました。長閑な感じがしました。


(ウミウが)
(写真撮影:2013.10)

宮城県への島旅 64回目

2014-02-02 04:30:00 | 03北日本・宮城県・牡鹿諸島
定期船が、航行していると左側に大きな建物が見えてきました。女川原子力発電所です。本当に、海に近く、高い防波堤もありません。大丈夫だったのでしょうか。


(女川原子力発電所)

波の荒い中をドンドンと定期船は、進みました。


(波の荒い中を)

島影が見えてきました。出島(いずしま)です。


(出島)

港に近づきました。


(港に近づく)

漁船が係留されていました。


(漁船が係留)

出島に到着して、下船しました。


(出島に到着)
(写真撮影:2013.10)

宮城県への島旅 63回目

2014-02-01 04:30:00 | 03北日本・宮城県・牡鹿諸島
すぐに定期船は出航しました。


(定期船出航)

定期船は、港内でUターンしました。


(港内でUターン)

港内に漁船も係留されていました。


(漁船も係留)

江島が離れていきました。とりあえず、タッチ&ゴーで渡島しましたが、今度、再チャレンジしてみたいと思っています。


(さようなら江島)

今度は、出島へ向かいます。


(出島へ)

外海に出ると来る時よりも波が高くなっていました。


(波がさらに高く)
(写真撮影:2013.10)

宮城県への島旅 62回目

2014-01-31 04:30:00 | 03北日本・宮城県・牡鹿諸島
江島も大分沈んだようで、嵩を上げるためのブログが積まれていました。


(嵩上げブロック)

岸壁に近づいてきましたが、岸壁は嵩が上げられていますが、先の方は、まだ、工事がされていませんね。


(岸壁に近づく)

民家は、高台にありました。津波の影響はなかったようですね。


(民家は高台に)

荷物を引き取りに来た車がありました。どこの島でも見られる風景ですね。


(荷物を引き取りに来た車)

江島から一度、乗船したお客さんが2便以降、船が着かないと聞いて、慌てて降りていました。私は島にタッチして、すぐに乗船しました。


(乗船したお客が慌てて下船)

ここで、いつものように江島の概要を書きます。
江島は、女川港から航路距離13.8km、女川町の南東部にある島。江島を含む8つの島からなる江島列島を形づくり、断崖に囲まれた島々は、とくに景観が美しいことで知られ、全域が南三陸金華山国定公園に指定されている。北西部の入江を囲む急斜面地に階段状の集落がある。永承6年(1051)に始まる前九年の役以来、安部貞
任の弟・鳥海三郎(安部宗任)が漁網を伝え、住民の定住が促されたといわれている。江戸時代には仙台伊達藩に属し、延享2年(1745)には政治犯の配流の地とされた。島の基幹産業は水産業で、アワビ・ウニの採取などが営まれている。昔は断崖の切れ目に桟橋を設け船着場としていたが、今では、長さ278mの埠頭が整備され、女川港との間に毎日定期便が運航している。
並行して、ごみ箱が積み込まれました。島では、処理できないので、女川で処理するようですね。


(ごみ箱が積み込まれ)
(写真撮影:2013.10)