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昭JIJI(アキラジジ)の島旅賛歌*参加

日本全国に有人島が434島ほどある。全島制覇すべく島旅を継続中。

加藤庸二氏「島旅見聞録」第5弾 佐渡島・善知鳥神社祭礼 13回目

2008-01-23 03:55:01 | 06北陸・新潟県
ある家の前でロシアからホームステーに来ている子供たちも興味深そうに眺めていました。




(興味深そうに眺めるホームステーの子供たち)

佐渡奉行所跡の前でも「豆蒔き」が踊られました。


(佐渡奉行所跡の前の「豆蒔き」)

この辺りで、今夜はホテルに戻り、夕食を食べました。




(一日目の夕食)

食後、ホテルのロビーで行われた「相川音頭と佐渡おけさ」の歌と踊りのショーを鑑賞しました。


(相川音頭)


(佐渡おけさ)
(写真撮影:2004.10)

加藤庸二氏「島旅見聞録」第5弾 佐渡島・善知鳥神社祭礼 12回目

2008-01-22 03:54:40 | 06北陸・新潟県
各家の前で「豆蒔き」が踊られました。「豆蒔き」は翁面の豆蒔が桝(ます)と柿を持って太鼓の調子に合わせて舞うものです。太鼓は、大人・子供にわけて太鼓の表裏をリズムにのせて打ち、長刀遣い、棒遣いは、豆蒔翁と太鼓の調子の変化によって所作をなしていました。




(豆蒔き)

我々も天満宮のところで舞ってもらいました。


(我々も豆蒔きを舞ってもらった)

その後、「豆蒔き」は大工町通りを下りながら、各家を回っていきました。我々もその後を付いて歩きました。






(各家で踊られる豆蒔き)

あるところから今夜宿泊するホテルが見えました。


(宿泊するホテル)
(写真撮影:2004.10)

加藤庸二氏「島旅見聞録」第5弾 佐渡島・善知鳥神社祭礼 11回目

2008-01-21 04:41:11 | 06北陸・新潟県
責任者の挨拶からいよいよ神事が開始され、お神酒が廻されました。






(神事の開始)

お神酒のお流れとおつまみをいただきました。


(お神酒のお流れとおつまみ)

記念写真が撮られ、


(記念写真を撮る)

「豆蒔き」は大工町通りから出発していきました。


(大工町通り)




(豆蒔き出発)
(写真撮影:2004.10)

加藤庸二氏「島旅見聞録」第5弾 佐渡島・善知鳥神社祭礼 10回目

2008-01-20 04:47:15 | 06北陸・新潟県
お祭の準備がドンドン進んでいきました。


(お祭の準備)

表には大きな旗も飾ってありました。


(飾られた大きい旗)

皆さん、大工町太鼓組の手ぬぐいをもらって大喜びしていました。


(大工町太鼓組の手ぬぐいをもらって大喜び)

少し開始まで時間があったので、太鼓組を纏められている方の工房を訪問しました。




(訪ねた工房)

段々と関係者が集まり始め、祭の雰囲気が盛り上がってきました。






(集まってくる関係者)
(写真撮影:2004.10)

加藤庸二氏「島旅見聞録」第5弾 佐渡島・善知鳥神社祭礼 9回目

2008-01-19 05:19:34 | 06北陸・新潟県
天満宮の周りには色々な提灯やボンボリが準備されていました。








(色々な提灯やボンボリが準備)

関係者も集まってきて、酒盛りが始まっていました。


(酒盛りが開始)

すでに衣装に着替えている人もいました。


(準備万端)

壁には準備する必要のあるものを書いた紙が縦に長く貼られていました。


(準備に必要なものの一覧表)

それに基づいて色々なものが準備されていました。




(準備されたもの)
(写真撮影:2004.10)

加藤庸二氏「島旅見聞録」第5弾 佐渡島・善知鳥神社祭礼 8回目

2008-01-18 03:38:59 | 06北陸・新潟県
その他に色々な品物や発掘現場の写真などが展示されていて、説明を聞きました。


(発掘現場の写真)

これは鉱石を運ぶ袋だったようです。


(鉱石を運ぶ袋)

砂金採取の体験もできるようです。




(砂金採取の体験)

発掘された基礎から厳密に復元されているとのことで、奉行所跡地は意外と広かったです。

その後、善知鳥神社祭礼の中の「豆蒔き」の出発地点となる天満宮へ出かけました。途中に、道遊ノ割戸が見えてきました。佐渡金山の坑道の真上にあたる場所にパックリ2つに割れた山で、金山を試掘するための露天掘りの跡で、地表に金鉱脈が発見されたため掘り進み割れてしまったようです。


(道遊ノ割戸)

階段を登っていくと万照寺が出てきた。この寺は万行寺と専照寺が、昭和17年に合併して万照寺となったとのこと。


(万照寺)

周りにお地蔵さんもありました。


(お地蔵さん)

いよいよ天満宮に着きました。


(天満宮)
(写真撮影:2004.10)

加藤庸二氏「島旅見聞録」第5弾 佐渡島・善知鳥神社祭礼 7回目

2008-01-17 04:26:21 | 06北陸・新潟県
実際に鉛板を持ち上げようとする人がいましたが、非常に重そうでした。


(鉛板を持ち上げる)

佐渡奉行は、江戸から佐渡へ来る時に、絵師を連れてきていたようで、佐渡島までの道中の絵が残されていました。


(道中の駅図)

また、繁栄していた頃の相川の絵図面が残っており、その頃の人口は4~5万人とも言われていたとのこと。現在の佐渡市と同じくらいとのこと。


(相川の絵図面)

奉行所の中に勝場(せりば)がありました。勝場とは「金や銀を精製する工場」の事を言います。ここで金と銀が取り出されていたのです。その工程について、説明を聞きました。


(金や銀を精製する話しを聞く)

徳川家康の信任を得て佐渡奉行となった大久保長安は、水銀流し(アマルガム法)を用いて金を精製した。アマルガム法は砂状にした鉱石に水銀を加えると、金と水銀の合金(アマルガム)が出来る。アマルガムを木綿の袋に入れて絞ると、木綿の中に金が残る。これをさらに加熱すると水銀が蒸発し、純度の高い金が得られる。比較的安く製錬が出来るために重宝された方法である。


(金や銀を精製する道具)

実際に鉱石をひき臼で細かくすることを体験する人もいました。


(臼で細かくすることを体験する人)

それを傾斜の付いた板の上を流すことで、砂と鉱石を分離して、炉で処理をするようです。


(鉱石と砂を分離)


(炉の模型)
(写真撮影:2004.10)

加藤庸二氏「島旅見聞録」第5弾 佐渡島・善知鳥神社祭礼 6回目

2008-01-16 07:24:25 | 06北陸・新潟県
お白洲もありました。


(お白洲)

その天井は柿葺(こけらふき)で復元されていました。
注:『柿』(こけら)という字は『柿』(柿)という字ではない。つくりの部分は、「なべぶた」に「はば」ではなく、上から下に1画で引き通す。




(柿葺の天井)

また、大工の遊び心で、節をうまく使った置き土産もありました。


(節をうまく使った置き土産)

また、発掘調査の時に、鉛板が多数発見されたようで、これは金銀の精錬に欠かせない鉱物で、江戸時代の記録によると、非常時に備え奉行所敷地内に埋められたとあるそうです。


(発掘された鉛板)

現物が展示されていました。




(鉛板の現物)
(写真撮影:2004.10)

加藤庸二氏「島旅見聞録」第5弾 佐渡島・善知鳥神社祭礼 5回目

2008-01-15 04:23:13 | 06北陸・新潟県
案内人に佐渡奉行所跡内を色々と説明してもらいました。最初に、絵図面で全体像の説明がありました。
佐渡金山を管理するために慶長8年(1603)、大久保長安により建てられた奉行所を復元したもの。役所としての役割のほか、金銀を精錬する工場(勝場)も併設されている。相川中学校が新校舎へ移転するにあたり、この場所を区画整理していた際に天保11年(1840)の奉行所・平面図と寸分違わぬ基礎が発見された。その他に当時の金精製に使用されていた鉛板や食器など色々と出てきた。平成6年国史跡に指定されたのを受け、現在日本にいる伝統大工を招きいれ忠実に復元された。玄関には、発掘で出てきた柱が飾られていました。


(絵図面で説明を受けた)


(玄関)


(発掘で出てきた柱)

佐渡奉行所跡は、一度発掘調査をし、再度、盛り土をして埋め戻され、その上に復元されたとのこと。


(発掘現場の写真)

井戸もあり、屋敷内には、奉行所幹部が執務する上段の間や拭漆塗(ふきうるしぬり)の天井が復元されていました。


(井戸)


(上段の間)


(拭漆塗の天井)
(写真撮影:2004.10)

加藤庸二氏「島旅見聞録」第5弾 佐渡島・善知鳥神社祭礼 4回目

2008-01-14 04:33:29 | 06北陸・新潟県
両津港には、「佐渡市」誕生の看板がありました。一つの島が一つの市になっているのは珍しいですね。


(「佐渡市」誕生の看板)

土産屋がたくさん並んでいましたが、来たところなので、土産は後とし、昼食を食べることにしました。皆さん思い思いに注文していました。私は定食を頼みました。


(注文した定食)

両津港を出発し、バスで相川へ向いました。


(シータウン佐渡を出発)

以前来た時の観光バスでもそうでしたが、バスのドライバが「佐渡おけさ」を歌ってくれました。


(ガイドとドライバによる佐渡おけさ)

その後、加藤先生から「善知鳥神社の祭礼」についての説明がありました。


(「善知鳥神社の祭礼」についての説明する加藤先生)

詳細は忘れたので、参考にインターネットから検索しました。

仁平元年(1151)創建と伝える善知鳥神社は、かっては善知鳥七浦(下戸・羽田・下相川・小川・達者・北狄・戸地)の総鎮守として、祭礼には寛永20年(1643)頃までは七郷の氏子が参加しました。
 10月19日の祭礼行事で特に見るべきものは「神輿渡御(みこしとぎょ)」と「鬼太鼓」です。寛永20年伊丹奉行寄進の神輿は、前後左右4組20人の棒組により、これを供奉しました。
神輿は神社を発輦(はつれん)し全町を渡御(とぎょう)し、奉行所の大御門前で祈祷しました。この時は奉行自らも見るならわしでした。柴町御旅所より夜半を過ぎて還御の光景は、全町内奉送の高張提灯や、数千の手提灯が神輿の珱珞(ようらく)に映え、法螺貝(ほらがい)のひびきと「チョウサヤ」の掛け声は荘厳華麗(そうごんかれい)、島内随一を誇るものでした。
 鬼太鼓(オニダイコ)は、もと金山の大工が、鉱石を穿る所作に似せて太鼓を打つと言われ翁面の豆蒔が桝(ます)と柿を持って太鼓の調子に合わせて舞うものです。太鼓は、大人・子供にわけて太鼓の表裏をリズムにのせて打ち、長刀遣い、棒遣いは、豆蒔翁と太鼓の調子の変化によって所作をなしています。
 この他に神輿の先導として、猿田彦神(天狗さん)は馬上で、4人の白丁(はくちょう)のかつぐ鉾さん、雄雌の獅子、太鼓・鼓(共に子供)、下り羽は笛に合わせて、子供が太鼓・鼓を打ちながら神輿に前後して町内を巡行します。これらの一連の出し物は、昔から代々定まった町内によって奉仕され、今日に至っています。
(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)

最初の観光地は、佐渡奉行所跡でした。






(佐渡奉行所跡)
(写真撮影:2004.10)