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昭JIJI(アキラジジ)の島旅賛歌*参加

日本全国に有人島が434島ほどある。全島制覇すべく島旅を継続中。

長崎県南部へ島旅 25回目

2015-04-24 04:30:00 | 65九州西部・長崎県
本土側の小口港に着きました。


(小口港)

名前は、小口橋となっている短い橋を渡りました。


(小口橋)

大村湾側の港にすぐに着きました。


(大村湾側の港)

ここで、鵜瀬島の概要を書きます。

鵜瀬島は、波静かな大浦湾の西岸に位置する周囲4Kmの小島。昭和23年に架橋され、平成8年に架け替えられている。対岸とはわずか10mの小口瀬戸をはさむだけで、かつては両岸にわたされた綱をたぐって船が往来し、干潮時は徒歩で行き来もできた。この鵜瀬島がある琴海町の名の由来は、江戸時代の著名な史家・頼山陽が大浦湾の別名を「琴湖」と呼んだことに始まるといわれ、複雑に入り組んだリアス式の海岸と、島の砂浜に打ち寄せる琴の調べにも似たさざ波の音が調和して風光明媚である。島の周囲の入江では、良質の真珠養殖が盛んに営まれているほか、ナマコなどの新鮮な魚介類が水揚げされ、関東・関西方面にも出荷されている。

ここでUターンして、別の道をたどりました。


(別の道を)

途中で、大村湾を眺望できました。


(大村湾)

途中、ミカンの保管倉庫がありました。その下にたくさんのミカンが捨てられていました。そこに野鳥が群がっていました。


(大量に捨てられたミカン)
(写真撮影:2015.02)

長崎県南部へ島旅 24回目

2015-04-23 04:30:00 | 65九州西部・長崎県
今回のホテルには、夕食が付いていなかったので、仲間が宿泊した民宿で一緒に食事をしました。

(民宿の食事)

前夜は、飲んだので、民宿に車を置いてきたので、翌朝は、仲間に迎えに来てもらいました。小雨の中、鵜瀬島へ向かいました。


(鵜瀬島へ)

今日は、大村湾にある島へ向かうべく、長崎市内を通過するため、また、女神大橋の下を通過しました。


(女神大橋の下を)

丁度、通勤時間となっていて、少し渋滞しました。


(少し渋滞)

長崎市内には、市電が走っていました。


(市電が)

大村湾に出てくると雲海が見られました。


(雲海)
(写真撮影:2015.02)

長崎県南部へ島旅 23回目

2015-04-22 04:30:00 | 65九州西部・長崎県
以前は、船でしか行けなかった「伊王島・沖ノ島」には、今は、伊王島大橋でつながっています。


(伊王島大橋)

沖ノ島にわたりました。教会が見えてきました。


(沖ノ島)

沖ノ島教会です。


(沖ノ島教会)

仲間をここにある民宿に降ろして、私は、隣りの島、伊王島へ向かいましたといっても、沖ノ島と伊王島は、30mくらいの橋で繋がっています。このような橋は、3本あります。


(伊王島へ)

今夜の宿泊する宿です。長崎温泉やすらぎ伊王島です。


(長崎温泉やすらぎ伊王島)

宿泊した部屋です。広すぎました。


(宿泊した部屋)
(写真撮影:2015.02)

長崎県南部へ島旅 22回目

2015-04-21 04:30:00 | 65九州西部・長崎県
四郎ケ島の入江には、漁船が停泊していましたし、生簀もありました。


(四郎ケ島の入江)

台形の島が見えました。高鉾島のようです。


(高鉾島)

宿へ向かうことにしました。


(宿へ)

丘に教会が見られました。カトリック木鉢教会です。


(カトリック木鉢教会)

また、女神大橋を渡りました。


(女神大橋)

また、香焼島に戻ってきました。


(香焼島)
(写真撮影:2015.02)

長崎県南部へ島旅 21回目

2015-04-20 04:30:00 | 65九州西部・長崎県
ここで、神ノ島の概要を書きます。
神ノ島は、長崎湾口北部にあった島。昭和42年に小瀬戸町との間が埋め立てられ、現在は本土とつながっている。慶長15年(1610)1月3日、この島の沖合いで、徳川家康の命を受けた有馬晴信の軍勢約1,200人が貿易船隊司令官ペッソア率いるポルトガル帆船「マードレ・デ・デウス号」を取り囲んで攻撃、財貨とともに船を撃沈させる事件が発生している。近世期には周辺の皇后島、・四郎ケ島を含めて佐賀藩領の深堀村となっており、外国船などの来航に備え、長崎港警護のための堅牢な神ノ島台場が嘉永5年(1852)に完成、鉄製砲台が据えられている。住民は佐賀・矢上・諫早からの移住と言われ、幕末にはキリシタンの島となっていた。明治13年に神ノ島村として独立村となっている。当時は130世帯650人あまりが漁業や荷船稼ぎによって生計を立てていた。同14年には木造の教会堂がラゲ神父によって建てられている。同22年には淵村の大字となり、どう31年には長崎要塞の神ノ島高砲台・低砲台が竣工、日露戦争時には戦備についた。現在のれんが造りの神ノ島教会は同30年にジュラン神父の設計によって建設されたもの。

沖を見るとここからも大きなクレーンを見ることができました。香焼島の方です。中央、左側のこんもりとした緑の所が「蔭ノ尾島の名残」のようです。


(香焼島の方)

目を左に向けると小さな島が陸とつながっているのが、見られました。「四郎ケ島」です。無人島です。


(四郎ケ島)

渡島することにして、少し車で移動しました。細い脇道から入っていきました。


(四郎ケ島へ)

四郎ケ島へは、防波堤で繋がっていました。


(四郎ケ島)

島の大きな木にカラスが群がっていました。


(カラス)

奥への細い道がありましたが、時間的なこともあり、すぐに引き返しました。


(奥への細い道)
(写真撮影:2015.02)

長崎県南部へ島旅 20回目

2015-04-19 04:30:00 | 65九州西部・長崎県
女神大橋の近くにやってくるとフェリーが長崎港に向かっていました。五島列島からのフェリーでしょうか。船体の赤線からすると「フェリー万葉か、椿か」でしょうか。


(五島列島からのフェリー)

稲佐山のテレビ塔が遠くに眺められました。


(稲佐山のテレビ塔)

何度もこの下を船で通ったことはありますが、女神大橋を初めて渡りました。


(女神大橋)

丘の上に神ノ島の大きな団地が見られました。長崎市への通勤圏なのでしょう。


(大きな団地)

赤白の大きな煙突が見えてきました。焼却炉でしょうか。後で調べると長崎市西工場で、「家庭や事業所から出る燃やせるごみ(一般廃棄物)を焼却処理しています。西工場はごみを適正に処理する施設であるとともに、ごみを燃料として発電を行なっている火力発電所でもあります。」とありました。


(長崎市西工場)

神ノ島の先端まで行きました。そこには、「神の島公園」があり、案内図がありました。


(神の島公園案内)
(写真撮影:2015.02)

長崎県南部へ島旅 19回目

2015-04-18 04:30:00 | 65九州西部・長崎県
車で行けるところまで行ってみましたら、港に出てきました。


(奥の港)

ここからも大きなクレーンが見られました。


(ここからも大きなクレーン)

どこまでが、香焼島か、蔭ノ尾島か帰ってから調べましたが、先端の林の所が残っているくらいだとの情報もありました。よくわかりませんでした。蔭ノ尾島は行っていないかもしれませんね。離島センターの資料では、「香焼島・蔭ノ尾島」と書かれていて、有人島になっています。


(香焼島と蔭ノ尾島のGoogleマップから)

三菱重工長崎造船所の正門です。


(三菱重工長崎造船所の正門)

関連会社と思いますが、いくつも続いていました。


(関連会社)

神ノ島へ向かいました。途中、「歩車分離式(昼間)」と書かれた信号がありました。最近、見かけますね。スクランブル方式の正式名のようですね。


(歩車分離式信号機)
(写真撮影:2015.02)

長崎県南部へ島旅 18回目

2015-04-17 04:30:00 | 65九州西部・長崎県
ここで、香焼島・蔭ノ尾島の概要を書きます。
香焼島は、長崎湾の南西部にある陸繋島。面積4.49Km2、周囲19.7Km。最高標高は120mの遠見岳。かつては大中瀬戸と香焼水道で本土と隔てられていたが、昭和43年に長崎市深堀との間が埋め立てられ陸続きとなった。古くは神八木島と称したといわれ、香焼の名は焼畑地を指すクワヤキが転訛したという説もある。また弘法大師がこの島で護摩密法を行い、その香気が岩窟に浸み込んだからともいわれている。現在も弘法大師わかりの円福寺などがある。江戸時代には佐賀藩深堀領で、寛永20年(1643)には遠見番が、承応2年(1653)には台場が設けられている。元禄時代から自家用として石炭が採掘されていた。文久元年(1861)には藩営炭坑となり、明治6年には香焼炭坑社が採掘開始、以後数度にわたり経営者が交替し、昭和39年にその幕を閉じた。造船業は明治35年に始まり、会社の閉鎖・再建を繰り返した後、昭和42年に三菱重工長崎造船所が進出、造船の町として栄えた。

蔭ノ尾島は、香焼島の北端にあった島で、鎌倉時代には「蔭呂宇島」としてその名が出てくる。キリシタンの島として度重なる迫害を受けながら近世期には漁業などを営んでいた。明治32年に長崎要塞の蔭ノ尾島砲台が竣工している。面積0.29Km2の島だったが、昭和17年に香焼島との間の瀬戸が造船所によって埋め立てられた。その後も蔭ノ尾集落は残っていたが、三菱重工業の進出を契機に同47年には堀切・深浦集落へ移転した。平成12年の国勢調査では、香焼・蔭ノ尾全体で1,742世帯4,512人を数える。

鳥居が見えたので、車を止めてもらいました。「堀池神社」です。


(堀池神社の鳥居)

案内板があり、「この鳥居は、享和元年(1801)に建立された。花崗岩製並型で、高さ251cm、幅290cmである。右側の柱の面に「奉寄進」、裏には「防州櫛ケ濱(現在の山口県徳山市)笠戸屋徳左衛門」と刻まれており、圓福寺の石燈籠と同じく、肥料用の干鰯を出荷していた時代の香焼と防州の関わりを示す貴重な史料である。」と書かれていました。


(堀池神社の鳥居の説明)

そこから眼下を眺めると大きな工場が建ち並んでいました。


(大きな工場)

道を下ってくると教会がありました。香焼カトリック教会です。この教会は、神ノ島小教区巡回の蔭ノ尾教会(現三菱造船所香焼工場突端長刀鼻燈台周辺地域に所在)が百万トンドックなど、三菱造船所香焼工場の建設拡充に伴い、信徒とともに移転を余儀なくされ、掘切地区に移設されたようです。




(香焼カトリック教会)

そこから見ると大きなクレーンが見られました。


(大きなクレーン)
(写真撮影:2015.02)

長崎県南部へ島旅 17回目

2015-04-16 04:30:00 | 65九州西部・長崎県
軍艦島には渡島していません。一応、無人島なので。しかし、以前、島の周りを一周したことはあります。次回、来るときにはチャレンジしたいと思っています。次の見よて来たのは、高島です。ここには渡島したことがあり、一泊しました。


(高島)

香焼島にやってきました。三菱重工の関連会社がたくさんありました。


(香焼島に)

高台に来て、眺めると橋と島が見えました。沖ノ島と湯王島です。


(沖ノ島と湯王島)

橋をアップすると伊王島大橋です。


(王島大橋)

その先に教会が見えました。聖ミカエル天主堂です。後ほど向かうことにしています。


(ミカエル天主堂)

今日、宿泊する湯王島のホテルも見えました。


(王島のホテル)
(写真撮影:2015.02)

長崎県南部へ島旅 16回目

2015-04-15 04:30:00 | 65九州西部・長崎県
広場に戻ってくると大きな倉庫がありました。漁の資材が入れられているのでしょうか。


(大きな倉庫)

広場に集まっていたお年寄りにご挨拶して、樺島を後にしました。


(お年寄りにご挨拶)

次の島、香焼島へ向かいました。


(香焼島へ)

赤い丸い橋、樺島大橋を渡りました。


(樺島大橋)

海岸線を走っていると軍艦島が大きく見えてきたので、停車して、撮影をしました。


(軍艦島)

少し望遠で撮影してみると軍艦島へのツアーの船が戻るところが見えました。


(軍艦島へのツアー船)
(写真撮影:2015.02)