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昭JIJI(アキラジジ)の島旅賛歌*参加

日本全国に有人島が434島ほどある。全島制覇すべく島旅を継続中。

加藤庸二氏の「島あるきの学校2006」 長崎・池島「石炭の歴史紀行」4日間 61回目

2008-04-16 04:25:53 | 65九州西部・長崎県
そこを出て、坂道を登っていると石垣が見えてきました。そこは高島秋帆旧宅でした。






(高島秋帆旧宅)

坂を下っていく途中にたくさんの石仏が置かれているところがありました。


(たくさんの石仏)

料亭青柳が出てきました。高い石垣に200年の歴史を偲ばせる料亭「青柳」は、数多くの文人墨客に愛されたようです。




(料亭「青柳」)

大崎神社の前を通り、少し歩くと電車通りに帰ってきました。


(大崎神社)

そこには松亭がありました。


(松亭)

その後、長崎空港から帰郷しました。炭鉱の島々を巡った楽しい3泊4日の島旅でした。


(長崎空港)
(写真撮影:2006.06)

2ヶ月に亘る投稿となりました。読んでいただき、ありがとうございました。
明日からは、先月に出かけた「水納島・久高島他」を投稿します。お楽しみに。


加藤庸二氏の「島あるきの学校2006」 長崎・池島「石炭の歴史紀行」4日間 60回目

2008-04-15 04:19:13 | 65九州西部・長崎県
彼女等は、自分の家で食べた梅干の種を、天神様と呼び、わざわざ持って来て、苦労がないようにと願かけしていた『梅塚』には最近のものらしい新しい梅干の種もたくさん入っていました。




(梅塚)

写真の左が「撫で牛」で、これは自分の体の痛みがある場所と、牛のその部分を交互に撫でると痛みがやわらぐといわれています。頭をなでてきました。


(写真の左が「撫で牛」)

恵比寿石は、眺めて恵比寿様の笑顔を見ることができれば笑顔が美しくなり、さらに身体も心も美しくなる石といわれています。


(恵比寿石)

外へ出て行くと背の高い石垣がありました。


(高い石垣)

中の茶屋は、丸山の遊女屋中の筑後屋が設けた茶屋で、唐人には千歳窩(せんざいわ)と呼ばれていました。この名に因んで、別名を千代の宿ともいわれ、内外の文人墨客が好んで遊び親しんでいたと言われています。


(中の茶屋)

中の茶屋の庭園は、江戸時代中期に築かれた庭園としては、市内の寺院のものを除けば、数少ない遺跡の一つです。


(中の茶屋の庭園)

そこから真下に梅園身代天満宮が、その先には長崎市街地が見えました。


(中の茶屋からの眺望)
(写真撮影:2006.06)

加藤庸二氏の「島あるきの学校2006」 長崎・池島「石炭の歴史紀行」4日間 59回目

2008-04-14 04:14:25 | 65九州西部・長崎県
そこを右に回り、古い家並みが続く梅園通りを登っていきました。








(梅園通り)

その先に、長崎ぶらぶら節文学碑がありました。最近作られたのか、真新しかったです。


(長崎ぶらぶら節文学碑)

近くの梅園身代天満宮へ入っていきました。ここには明治40年頃まで、丸山の遊女や芸者衆が多く参詣していて、「身代り」を「みだい」とよび、自分たちの生活に苦労が無いことをお願いして参詣していたようです。






(梅園身代天満宮)
(写真撮影:2006.06)

加藤庸二氏の「島あるきの学校2006」 長崎・池島「石炭の歴史紀行」4日間 58回目

2008-04-13 04:18:09 | 65九州西部・長崎県
丸山へ向って歩き始めると最初にカステラの福砂屋が見えてきました。


(カステラの福砂屋)

それを右に見ながら上っていくと丸山の交番がありました。モダンですね。


(丸山の交番)

そこを更に上っていくと「花月」がありました。花月は寛永19年(1642)に創業した遊女屋引田屋(ひけたや)の庭園内に造られた茶屋の名前です。昭和35年には長崎県の史跡に指定されて、全国的に珍しい史跡料亭となりました。高くて入れませんので、入口を覗くだけでした。










(料亭花月)

更に、進むと長崎検番がありました。


(長崎検番)
(写真撮影:2006.06)

加藤庸二氏の「島あるきの学校2006」 長崎・池島「石炭の歴史紀行」4日間 57回目

2008-04-12 04:18:31 | 65九州西部・長崎県
長崎港に戻り、帰りの飛行機までには時間が十分にあるため、今度は、長崎市内観光をすることにしました。
先ず、市電に乗り、思案橋へ向いましたが、長崎の市電は色々なところからの電車を使っており、乗った市電には経歴が掲示されていて、大阪からのものでした。


(長崎の市電)


(車内)


(車両の経歴)

運賃も大人100円でした。


(運賃大人100円)

途中、新装された出島が見えました。


(新装された出島)

思案橋で降りました。


(思案橋)

しかし、思案橋はなく、橋の欄干だけが残っていました。


(思案橋の欄干)
(写真撮影:2006.06)

加藤庸二氏の「島あるきの学校2006」 長崎・池島「石炭の歴史紀行」4日間 56回目

2008-04-11 04:18:07 | 65九州西部・長崎県
また、橋を渡り、沖ノ島へ戻ってきて、バスを進めると島で唯一つのスーパーがありました。


(島で唯一つのスーパー)

3つ目の橋を渡り、伊王島へ戻ってきました。


(3つ目の橋)

ホテルに戻り、昼食を食べ、出発の用意をして、フロントに集まると長崎さるく博のマスコットが置かれていました。


(4日目の昼食)


(長崎さるく博のマスコット)

バスで伊王島港へ送ってもらい、定期船で長崎港へ戻ることにしました。


(伊王島港発券場)

待合所には、今日歩いたところが書かれた地図が掲げられていました。


(伊王島のガイドマップ)

フェリーに乗り、長崎港へ戻りました。


(フェリーで長崎港へ)
(写真撮影:2006.06)

加藤庸二氏の「島あるきの学校2006」 長崎・池島「石炭の歴史紀行」4日間 55回目

2008-04-10 04:15:13 | 65九州西部・長崎県
いよいよ沖ノ島へ小さい橋を渡りました。橋は3つあるようです。


(沖ノ島とを結ぶ1つ目の橋)

橋を渡ると直ぐ左にホテルの別館がありました。昨夜、ここで仲間とカラオケを楽しみました。


(ホテルの別館)

この上に炭鉱への入り口があったようですが、今は草が多く繁っていました。


(炭鉱への入り口)

楽しみにしていた沖ノ島天主堂は雨が強くなったため、車窓から眺めるだけで、残念でした。この天主堂は別名「馬込教会」とも呼ばれ、落雷・台風で改修不能となり、昭和6年10月に現在のゴシック式天主堂に建立され、最近は夜にライトアップされているとのことでした。


(沖ノ島天主堂)

畦の岩這です。砂岩・頁岩・礫岩の互層が侵食され、宮崎県青島の「鬼の洗濯岩」のような岩場になっていました。


(畦の岩這)

2つ目の橋が見えてきました。この間の川のようなところは海です。したがって、海峡ということになります。非常に狭い海峡です。狭い海峡は小豆島にもありました。


(2つ目の橋)

この橋を渡り、伊王島へ戻りました。そして、俊寛僧都の墓と言われている所へ来ました。しかし、その「いおうじま」には3つの説があります。鹿児島県の硫黄島、喜界島、とここ伊王島です。しかし、いずれもハッキリとした確証はありません。


(俊寛僧都の墓)

その墓の横に北原白秋の碑がありました。その歌碑には長歌と反歌が刻まれていました。説明板には、北原白秋が昭和10年6月に伊王島に訪れた時と書かれていました。


(北原白秋の碑)
(写真撮影:2006.06)





加藤庸二氏の「島あるきの学校2006」 長崎・池島「石炭の歴史紀行」4日間 54回目

2008-04-09 04:29:04 | 65九州西部・長崎県
バスを降りて、雨の中、灯台へ向って歩きました。


(伊王島灯台)

この伊王島灯台は、慶応2年(1866)、4カ国(英国・米国・仏国・蘭国)と江戸条約締結時に全国8ヵ所に設置されたものの一つで、鉄製では日本では最初のもので、原爆被害により戦後は鉄筋コンクリート造りになっていましたが、平成15年に建設当初の鉄造六角形に復元されたとバスの運転手さんの案内がありました。


(伊王島灯台)


(運転手さんの説明を聞く皆さん)

眼下には灯台記念館がありましたが、雨が強くなってきたので、見には行きませんでした。ここは、伊王島灯台員の宿舎として明治初期に建てられた洋風無筋コンクリート造りの建物です。


(灯台記念館)

港へ戻る途中に面白い形をした教会が見えました。一番古い教会は名古屋の明治村に移築されているとのことでした。


(面白い形をした教会)

海岸線に戻ってくると小学校、中学校、総合センター、村役場と建物が続きました。伊王島の霞ヶ関と案内人は言っていました。


(伊王島小学校)


(伊王島中学校)


(総合センター)


(村役場)
(写真撮影:2006.06)

加藤庸二氏の「島あるきの学校2006」 長崎・池島「石炭の歴史紀行」4日間 53回目

2008-04-08 04:33:45 | 65九州西部・長崎県
4日目は、雨の中、ホテルのバスで伊王島、沖ノ島の島内散策を開始しました。


(雨の中、島内散策へ)

バスの運転手さんが色々と説明をしてくれましたが、面白い方で皆さんをよく笑わせました。この浜の砂は波や風に流されて、少なくなる。その補充のために壱岐から砂を運んでくるので、砂が「いきいき」しているとか。


(伊王島海水浴場)


(波、風で打上げられた砂)

この島は半数以上がカトリック教徒といわれ、多くの墓に十字架が立てられていました。


(十字架が立てられた墓)

灯台を目指して進めていくと桜並木が出てきました。シーズン時は素晴らしいのではと思いました。


(素晴らしい桜並木)

更に、上っていくと新しい家々が建てられていました。ここは確か貸し農地も付いて、安く借りられるようになっていると聞いたように思います。


(貸し農地付き住宅)

これは夕陽ケ丘展望所からの眺めです。天気だと五島列島がハッキリと見えるとのことでしたが、今日は、雨で本土は見えましたが、五島列島は見えませんでした。


(夕陽ケ丘展望所からの眺め)
(写真撮影:2006.06)

加藤庸二氏の「島あるきの学校2006」 長崎・池島「石炭の歴史紀行」4日間 52回目

2008-04-07 04:34:05 | 65九州西部・長崎県
最初の日に乗った船で今日は伊王島へ向いました。


(最初の日に乗った船)

伊王島へ到着するとホテルのバスが迎えに来ていて、それに乗り、今夜宿泊の「やすらぎ伊王島」へ着きました。




(伊王島到着)


(ホテルからの送迎バス)


(やすらぎ伊王島到着)

歓迎の看板も掛けられていました。


(歓迎の看板)

夕食は鯛つくしの夕食でした。皆、楽しく最後の夜を過ごしました。食後、ロビーでは従業員によるコンサートが行われ、天使のような声の歌を聴きました。




(従業員によるコンサート)
(写真撮影:2006.06)