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昭JIJI(アキラジジ)の島旅賛歌*参加

日本全国に有人島が434島ほどある。全島制覇すべく島旅を継続中。

宮崎県・大分県の有人島へ 18回目

2013-05-08 04:30:00 | 71九州南部・宮崎県
本殿へ向かって、参道を歩きました。


(本殿へ)

朱色の手水舎、神門が見えてきました。



(朱色の手水舎、神門)

手水舎の横に、青島神社の縁起が書かれた案内板がありました。立派ですね。由緒があるのですね。


(青島神社の縁起が書かれた案内板)

神門には、「鴨就宮」と書かれた扁額が飾られていました。


(「鴨就宮」と書かれた扁額)

神門をくぐると左手に社務所があり、巫女さんがお札を売っていました。


(社務所)

本殿です。早速、お参りをしました。


(本殿)
(写真撮影:2013.04)

宮崎県・大分県の有人島へ 17回目

2013-05-07 04:30:00 | 71九州南部・宮崎県
やっと弥生橋を渡り、青島です。灯篭が見えてきました。


(青島に)

左右に天然記念物の青島の隆起海床と奇形波蝕痕、通称、鬼の洗濯板が見られました。




(左右に鬼の洗濯板)

東南アジアのタクシーのようなの3輪自動車が走っていました。


(タクシーのようなの3輪自動車)

大きな朱色の鳥居が近づいてきました。


(大きな朱色の鳥居)

神社正面にやって来ました。左右に狛犬がありました。


(左右に狛犬が)
(写真撮影:2013.04)

宮崎県・大分県の有人島へ 16回目

2013-05-06 04:30:00 | 71九州南部・宮崎県
大きな土蔵もある家もありました。


(大きな土蔵)

武家屋敷通りが終わり、下って行くと交差点のところにレトロな建物がありました。公民館のような感じですが、何に使われているのでしょうか。


(レトロな建物)

飫肥での見物も終わり、今度は、宮崎県では、一番有名な島、青島へ向かうことにしました。青島に到着し、駐車場に車を入れて、青島へ向かいました。亜熱帯植物園の中を通りました。色々な色のブーゲンビリアが咲いていました。


(亜熱帯植物園内)

南国の風景ですね。


(南国の風景)

青島へ渡る海岸に出てきましたが、朝からの強風は、止んでおらず、強烈な風に砂浜の砂が舞いあがり、顔面が痛くて、また、呼吸をするのも大変でした。


(青島へ渡る海岸に)

風を後ろから受けるように横向きになり、青島へ向かいました。東南アジアのタクシーのようなものが走っていました。


(青島へ)
(写真撮影:2013.04)

宮崎県・大分県の有人島へ 15回目

2013-05-05 04:30:00 | 71九州南部・宮崎県
この階段を上がって行くと松尾の丸、歴史資料館があります。本丸跡には日南市立飫肥小学校(藩校の振徳堂が前身)が建てられています。私は、何回か来ていましたので、仲間に話をしたところ、行かなくてもいいということで、ここから戻ることにしました。


(この上に松尾の丸、歴史資料館)

大手門を出て、左に曲がりました。そこには、城下案内図がありました。とりあえず、国の重要伝統的建造物群保存地区を回ることにしました。


(城下案内図)

右側は、苔むした石垣が、左側は、空堀が続いていました。


(苔むした石垣)

武家屋敷通りとして知られる横馬場通りです。この通り沿いに、かつては高級家臣の武家屋敷が並んでいたといわれています。飫肥石や玉石の石垣と生け垣に囲まれ、格式をかんじますね。




(飫肥石や玉石の石垣と生け垣)

風雅な武家門を構えた屋敷もありました。


(風雅な武家門を構えた屋敷)
(写真撮影:2013.04)

宮崎県・大分県の有人島へ 14回目

2013-05-04 04:30:00 | 71九州南部・宮崎県
「城下町の風情と情緒のある町」飫肥は、伊東氏5万1干石の城下町として栄えた「九州の小京都」です。飫肥城は、寛文2年(1662)の大地震をはじめ、3度の地震が襲いました。そのために大規模改修を余儀なくされ、新しい館となる建物は、元禄6年(1693)に完成。飫肥藩伊東家の中心施設としてきました。明治維新間もない明治2年(1869)、伊東家が大手門前の豫章館に移り、明治6年(1873)には、飫肥城内の建物全てが取り壊されました。取り壊された大手門は昭和53年(1978)6月に樹齢100年の飫肥杉を使用して復元されました。飫肥城の玄関として勇壮を誇っています。


(飫肥城大手門)

往時の濠は、水がなく、草が生えています。


(往時の濠)

大手門に入って振り返った風景です。真っ直ぐな広い通りですね。


(大手門に入って振り返った風景)

大手門周りもシッカリとした石垣が残っています。


(シッカリとした石垣)

お城へ向かっての石垣が続き、階段がありました。


(お城へ向かっての石垣)

その階段を登ると広場になっていました。


(広場)
(写真撮影:2013.04)

宮崎県・大分県の有人島へ 13回目

2013-05-03 04:30:00 | 71九州南部・宮崎県
都井岬の観光を終わり、次は、どこに行くかを話し合いました。そのまま青島へ行くことも考えましたが、時間的にも早すぎるので、飫肥に向かうことにしました。少し内陸に入って行きました。飫肥に到着して、レンタカーを駐車場に置き、飫肥城へ向かいました。駐車場横に、「四半的射場」がありました。四半的とは、島津、伊東の戦国時代、農民が竹の半弓を持ち、戦に参加し、勝利に大きく寄与した功績により娯楽用として弓矢を持つことを許したと伝えられ、現在、目南市の無形民俗文化財に指定されており、競技としても広く親しまれています。射場から的まで四間半、弓矢ともに四尺五寸、的が四寸五分で、全て四半であることから四半的と呼ばれるようになったようです。




(四半的)

飫肥城へ向かう途中にあるところで、昼食を食べました。このお店は、伊東家の長倉で、この建物は、江戸時代、飫肥藩の藩役所が置かれたところで、明治13年以降は、伊東家が管理し、「長倉」と呼ばれて利用されていたようで、昭和52年、飫肥城下町が、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されましたが、この長倉は、飫肥城下に唯一のもののようです。


(長倉)

私は、名物ということで、「かつお飯」と「おび天」を食べました。かつお飯は、カツオ船の中で、獲れたてのカツオの刺身を食べた後、残った刺身をご飯の中に入れ、醤油をかけ、熱いお茶をかけて食べたのが始まりといわれているようです。また、おび天は、魚のすり身と豆腐を材料に、木の葉の形にし、油で揚げたもので、黒砂糖、醤油で味付けしたやわらかな口当たりが特長で、伝統の甘い味付けが今も守られていて、カルシウムを多く含む健康食です。




(かつお飯とおび天)

食後、飫肥城へ向かいました。


(飫肥城へ)
(写真撮影:2013.04)

宮崎県・大分県の有人島へ 12回目

2013-05-02 04:30:00 | 71九州南部・宮崎県
都井岬の野生馬、御崎馬(岬馬)の由来について、都井御崎牧組合発行 都井岬野生馬パンフレットから借用しました。御崎馬は、長野県の木曽馬や北海道の道産子などとともに日本在来馬と言われ、今から2000年も前の縄文時代後期から弥生時代中期にかけて中国大陸から導入された馬がその起源とされています。古くから馬の生産は盛んに行われ、大化の改新でも馬の生産や管理に関する政策は重要な柱の一つであり、日本各地に多数の官営の牧場が作られました。特に鎌倉時代以降の武士の時代には軍馬として重要な役割を果たし、また、牛とともに農業や輸送に不可欠の家畜であったために幕府直営や藩営あるいは民営の牧場が盛んに作られました。高鍋藩秋月家は、江戸時代の元禄10年(1697)に日本書紀の中の歌にも詠まれた日向の駒を集めて、今日の串間市を中心に7ヶ所の藩営牧場を作り、軍馬や農耕馬の生産に励みました。この7牧の1つ都井村御崎牧が今日の御崎牧場です。以来、この牧場で生産される馬は御崎馬(岬馬)と呼ばれるようになりました。御崎馬は、牧場開設当初から、ほとんど人手を加えない粗放な管理しか行われず、廃藩後の明治7年、都井4組及び宮の浦を一団とする御崎牧組合の共有牧場となった後も、その粗放な飼い方が続けられてきました。そのため御崎馬の風貌や習性あるいは体型や資質は野生状態を思わせます。これが「都井の野生馬」と言われる所以でしょう。そして、それ故に昭和28年には「自然における日本に特有の家畜」として国の天然記念物に指定されました。












(都井岬の野生馬、御崎馬)
(写真撮影:2013.04)

宮崎県・大分県の有人島へ 11回目

2013-05-01 04:30:00 | 71九州南部・宮崎県
宮崎県方向です。半島と被るように見えるのは、幸島です。


(幸島)

都井岬灯台にやって来ました。この灯台は、宮崎県の最南端に位置し、海の青さと岬の緑に囲まれた、白亜の美しい灯台です。昭和4年(1929)5月16日に起工、同年12月22日完成し、初点灯されました。当時の光源は、1300カンデラの石油ランプでしたが、昭和19年7月に電化され300万カンデラと東洋一の光度を持つ灯台となりました。昭和20年空襲、25年台風による災害に遭遇し、建設当時のものはコンクリートの灯塔だけとなりました。灯台を見学しようと思いましたが、強風で一部は入れないところがあるといわれて、見学をやめました。






(都井岬灯台)

戻り、都井岬ビジターセンターへ向かうことにしました。先ほど、子馬を見たところに2頭の馬が来ていました。子馬は、疲れたのか、草むらに寝ていました。


(2頭増えた野生馬)

都井岬ビジターセンターに着きました。このセンターは、野生馬と自然のバランスや自然界の営みについて、最新の映像や音響設備を用いて分かりやすく解説してくれる情報資料館です。


(都井岬ビジターセンター)

入館料を支払って入場しました。研究員からの説明がありました。時間は、どのくらいあるかと聞かれたので、時間はあると応えましたら、色々とお話をしてくれました。この馬は、寝ているが、どうしてわかるかと質問されました。答えは、後ろ脚を少し曲げていることだと言われました。


(馬が寝ている?)
(写真撮影:2013.04)

宮崎県・大分県の有人島へ 10回目

2013-04-30 04:30:00 | 71九州南部・宮崎県
実際の御崎神社は、この上の方にあるようですね。御崎神社は、都井岬最突端の切り立った断崖に鎮座し、祭神は、上津綿津見神(うわつわだつみのかみ)、中津綿津見神(なかつわだつみのかみ)、底津綿津見神(そこつわだつみのかみ)で、社殿の創建は708年(和銅1年)戊申6月と伝えられています。


(御崎神社はこの上の方)

御崎神社のすぐ目の前には、紺碧の太平洋が広がり、青い空と透き通った海、白い波が織りなす美しい風景も楽しむことができます。


(太平洋)

戻る途中に野生馬の落し物もありました。


(野生馬の落し物)

大きな鳥居のところへ戻ってきました。そこには、この周辺に遊歩道があるとの看板がありました。


(遊歩道の看板)

次は、都井岬の灯台へ向かいました。途中、野生馬の親子が道路脇で草を食んでいました。後で、聞いたのですが、この子馬は、二日前に生まれたとのことでした。よちよちしていて、立つのが大変のようでした。


(親子の馬)

灯台の駐車場からの眺めです。鹿児島県の内之浦方面の景色です。


(鹿児島県の内之浦方面)
(写真撮影:2013.04)

宮崎県・大分県の有人島へ 9回目

2013-04-29 04:30:00 | 71九州南部・宮崎県
神社へ向かって、階段を下りました。参道は、両側にソテツなどの亜熱帯植物が繁茂しています。




(ソテツなどの亜熱帯植物)

赤いソテツの実が落ちていました。今頃が季節なのでしょうか。


(赤いソテツの実)

下り終えて、小さな川にかかっている橋を渡すと何かの記念碑がありました。


(何かの記念碑)

その先に小さな祠がありました。


(小さな祠)

その横に、御崎神社についての説明がありました。


(御崎神社についての説明)
(写真撮影:2013.04)