今回は、石垣島にロングステーしていた島旅仲間と一緒に宮崎で落ち合い、宮崎県と大分県の有人島に挑戦しました。
いつものように今回の島々の概略を書いておきます。
(青島) 宮崎市中心地の南約15kmの太平洋上にある島。古くは淡島、歯朶の浮島・鴨就島などと呼ばれた。淡島という名は紀州の淡島(粟島)にもあり、古来日向と紀州には地形・気候・神話など同一のものが多く、淡島もその一例である。全域が青島神社の神域として古くから信仰を集め、かつては島奉行が配属され、他藩からの渡島は一切禁止されていたが、元文3年(1732)5月すべての人々に祭りの時だけ参詣が許されたので、九州・四国からも参詣者が訪れにぎわったという。旧暦3月の干潮時には歩いて渡れ、その日は「島開きの祭り」としてかつては大変なにぎわいとなった。島全体が亜熱帯性の植物で覆われ、南国そのものの景色が見られる。植生は学術的にも貴重で、大正10年に天然記念物、昭和27年には「青島亜熱帯性植物群落」として特別天然記念物に指定されたいる。植物の種類も豊富で高等植物は75科226種が確認され、うち亜熱帯性植物が全体の14%にも上っている。南国的なビロウは群落のおよそ80%・約4,300本を数え、中には樹齢300年を超すものもある。島を取り囲むギザギザの波食台は「鬼の洗濯板」と呼ばれ、天然記念物に指定されている。島には宿泊・観光施設はないが、橋の手前本土側にホテル・亜熱帯植物園・遊園地などがある。
大島 日南市の南、日向灘海上約2kmに浮かぶ。全島が日向海岸国定公園に指定されており、変化に富んだ海岸線や海上に点在する大小無数の岩礁の景観が素晴らしい。南端には日本初のコンクリート造りの灯台として知られる鞍崎灯台が建っている。嘉永1年(1848)までは飫肥藩の放牧で、それ以後開拓が進んだ。昭和30年には400人近い人口を数えている。地形は急峻、ほとんどが林野で耕地に乏しい。年平均気温18.5℃の温暖多雨な気候で亜熱帯性の植物が繁茂している。マリンスポーツはじめ散策に訪れる人も近年増えている。産業は漁業がほとんどで、民宿は2軒ある。
築島 宮崎県の最南端、日向灘に面した串間市市木浦の湾口に位置する島。日南海岸国定公園内にある。地形は急峻で東側は硬い砂岩で外海に面し、高さ50m前後の海食崖となっている。西側のわずかにある平地に漁業集落が立地している。島全体にビロウの原生林が生い茂り、周辺の海底にはテーブルサンゴや熱帯魚などの海中資源に恵まれ、四季を通じて磯釣り船釣りの場となっている。島名は明治初期、島を61円で買収し、最初に居住した四国宇和島の漁師、築島藤吉氏の名に由来する。
幸島 石波海岸の東約0.3kmにある島。面積0.3km2・周囲約3.5km・標高114m。日向八景の1つに数えられ、日南海岸国定公園に含まれる。日本でも最も有名なニホンザル生息地のひとつ。古くからサルは弁天様の使い「わこさま」として親しまれ、昭和9年には「幸島サル生息地」として国の天然記念物に指定された。昭和23年、京都大学霊長類研究所が幸島対岸の石波海岸に設けられ、同26年には日本で初めてサルの餌付けに成功。その結果、砂のついたイモを海水で洗うイモ洗い行動や、海水で塩味をつける味つけ行動、砂浜にまかれた小麦を水に投げ入れ浮かんだ麦を食べる砂金掘り行動が見られ、その知的行動から「文化サル」として世界的に有名になった。同研究所が週に数回の生態調査を継続しており、現在約100頭弱が生息するほか、タヌキ・ノウサギなどの姿を見ることができる。干潮時には本土側と砂州でつながる時もあり、島からやってきたサルが満潮になって島に帰れなくなることもあるという。ほぼ全島が常緑広葉樹林で覆われ、温暖な気候で霜が降りることもない。約40種余りの亜熱帯植物を含む、約200種の植物が確認されている。
(黒島) 臼杵市の北部、佐賀関半島の尾元港の沖合い300mに位置する臼杵湾の小島。のちに徳川家康の政治顧問になったウィリアム・アダムス(三浦按針)が乗船していたオランダ船リーフデ号慶長5年(1600)に漂着したのがこの黒島だといわれている。ミカン園があり、夏には海水浴客でにぎわう。
津久見島 臼杵港の東北東4.5km、臼杵湾に浮かぶ標高166mの島。一名、小竹島ともよばれる。亜熱帯性の原生林に覆われ、県指定天然記念物のミカドアゲハが生息している。臼杵城の鬼門にあることから、寛永元年(1624)臼杵藩主稲葉一通が近江・竹生島の祭神を勧請した弁天堂がある。夏には海水浴場・キャンプ場が開かれ、臼杵内外から多くの人が訪れている。現在、民宿を営む家が1軒だけある。
(保戸島) 津久見港から14km、豊後水道に浮かぶ島。標高179mの遠見山を頂点に急傾斜地が海岸に迫り、北と南東側の海岸線は絶壁で、ほとんど平地がない。集落は西側の斜面に密集している。島名は、承平年間(931~938)の百科辞書「和名類聚抄」にある「海部郡穂門郷」の名を継承しているという。江戸時代には佐伯藩の勘定や遠見番所が置かれていた。明治23年ころから始められた遠洋マグロ漁業は今では年間100億円の水揚げがあり、一大マグロ基地となっている。日豊海岸国定公園に指定され、美しい砂浜や奇岩が点在している。平成13年度よりモデル事業としてブルーツーリズムを実施している。
(地無垢島) 津久見港から16kmの豊後水道に浮かぶ島。日豊海岸国定公園に指定され、美しい自然景観を有している。標高111mを頂点とする起伏の大きい山稜の南側は断崖絶壁で、東北部の平地と山腹傾斜地に集落がある。昭和56年から“椿の里”づくりに取り組んでいて、山の北側のふもとから山頂にかけて椿園にはヤブツバキをはじめツバキ約5,000本が植えられており、毎年1月中旬から見事な花をつける。島の漁業者の悩みは、島の周囲に共同漁業権をもっていないことである。平成13年度よりモデル事業としてブルーツーリズムを実施している。
大入島 大分県南東部に位置する県南の中心部市・佐伯市から北北東に0.7kmに浮かぶ周囲22kmの島。形が「入」の字に似ている。漁業と農業が中心で、漁業では沿岸漁業が主体で、ヒラメの陸上養殖なども盛ん。新鮮な農水産物を使った特産加工品やレストランメニューが人気の「おいしい島」である。また、全島が国定・県立自然公園に指定されており、風光明媚な景色が四季折々に味わえる。また、神武天皇伝説や6世紀ごろの古墳など、歴史的にもロマンのある島でもある。
大島 佐伯市の東約15km、鶴見半島先端近くの豊後水道に浮かぶ、小さな大島。島の東側は太平洋の荒波が打ち寄せる断崖絶壁で、豊後水道自然公園に指定され、雄大な景観は目を見張るものがある。西側には船隠・田野浦・地下の3つの集落がある。一本釣漁業が主産業で男たちが腕一本でささえる漁業の島である。最近、島の西側に沖合養殖場が造成され、ブリ、タイなどが養殖されている。その品質はすばらしく、市場の評価も高い。佐伯湾口の交通の要衝に位置することから、慶長11年(1606)に毛利佐伯藩の船番所が置かれて開発がすすんだといわれ、賀茂神社や「とび太鼓」などの文化遺産、「壇の窓」に代表される自然のおりなす景観がすばらしい。
屋形島 蒲江町の南約2kmの蒲江湾口に位置する。西側と北側中央部に集落と耕地がある。地質は黒色千枚岩からなり、気候は温暖多雨で、夏季には南南東、冬季には北西の季節風をうける。南7kmにある深島を結ぶ海中には起伏の多い天然礁がある。海流は瀬戸内海の低温水と黒潮から流入する高温水との混合流となっている。島名は、かつて唐船が来航した際、来泊者の仮屋が建てられたことに因むという。島の開拓は元禄5年(1692)に始まり、のちに佐伯藩の藩牧が開かれ、寛保3年(1743)に深島から4戸が移住している。真珠母貝・ヒオウギ貝の養殖は昭和38年ごろから始まっている。近年、トコブシ漁などの潜水漁も営まれるようになった。
深島 大分県の南東端、蒲江港から南に9kmの日向灘に位置する。地殻変動で沈降水没した陸の山頂部といわれている。周囲は大小無数の岩礁、切り立った海食崖、海食洞がある。南部と北部にある台地状の2つの島が、「はま」と呼ばれている砂州で結ばれ、砂州のくびれた部分に集落がある。気候は温暖多雨で、夏季には南南東、冬季には北西の季節風を受ける。もともと御手洗水軍の拠点だったと伝えられ、享保6年(1721)に本土から農民が移住し開拓が始まったが、寛保3年(1743)に佐伯藩の命令で屋形島に移され、無人化した。のちに佐伯藩の流刑地となり、明治5年に蒲江浦から7人が移住、再び開拓された。現在は小型旋き網漁を中心とした沿岸漁業が営まれている。
島野浦島 延岡市の中心部から北東へ約12kmの日向灘にあるしま。標高約185mの遠見場山を中心に全体が切り立った地形で、西側の漁港周辺に住宅が密集している。島の周囲は変化に富んだリアス式海岸で、美しい自然景観をかもしだしており、日豊海岸国定公園の一部となっている。かつては伊予水軍が付近で活躍、江戸時代には船の風待ち・潮待ちに利用されていた。定住は元禄年間(1688~1704)といわれている。水産業と水産加工業で全国屈指の漁業基地に発展した活気に満ちた島だ。
( )付きの島は、以前に渡島していましたので、新しくは、有人島8島の渡島の予定でしたが、強風で、2島に渡島できず、6島になってしまいました。
出典:(財)日本離島センター発行の「
日本の島ガイド SHIMADAS シマダス」から