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昭JIJI(アキラジジ)の島旅賛歌*参加

日本全国に有人島が434島ほどある。全島制覇すべく島旅を継続中。

宮崎県・大分県の有人島へ 8回目

2013-04-28 04:30:00 | 71九州南部・宮崎県
望遠で都井岬の灯台をアップしてみました。今回のビデオカメラの望遠は、30倍あります。やはり大きく見えますね。


(アップした都井岬の灯台)

都井岬に到着しました。早いですね。山は、新緑できれいですね。


(新緑)

都井岬イラストマップと注意書きがありました。やはり野生馬には注意が必要ですね。近づく予定はありませんが。


(都井岬イラストマップ)


(注意書き)

都井岬は、砂岩及び泥岩が互層となった山地が突出、周囲は絶壁となっていて、野生の御崎馬が棲息することで知られ、「岬馬およびその繁殖地」として国の天然記念物に指定されています。この野生馬は江戸時代に高鍋藩が軍用馬飼育のため、放牧を始めたものが、後に半野生化したものとのことです。岬の東部に位置する都井岬灯台は、海抜255mに位置し、高さ15m、光達37海里。1929年(昭和4年)点灯。一般公開もしている参観灯台で、日本の灯台50選にも選ばれています。灯台に立てば、270度の太平洋の展望が楽しめます。
まず最初は、都井岬の最先端に奉祀されている御崎神社に行きました。大きな鳥居がありました。


(大きな鳥居)

その横に「都井岬ソテツ自生地」と書かれた案内板がありました。周辺はソテツ自生地の北限となっており、国の特別天然記念物に指定されているようです。


(「都井岬ソテツ自生地」と書かれた案内板)
(写真撮影:2013.04)

宮崎県・大分県の有人島へ 7回目

2013-04-27 04:30:00 | 71九州南部・宮崎県
舳漁港では、風がやんだら、漁に向かうためでしょうか網の手入れを漁師さんがされていました。


(網の手入れ)

今日一日、どうするかを仲間と相談して、まず、都井岬に行くことにしました。島旅でありませんが、お付き合いください。宮崎県を南下しました。途中、石波海岸の沖合にある無人島、幸島へ向かいました。海岸から近いので、渡島できるのではという思いがありました。途中、右手に幸島、左手沖合いに鳥島が見えました。陸にくっ付いているようです。


(右手に幸島、左手沖合いに鳥島)

石波海岸に着きましたが、渡船の姿は見られませんでした。やはり、駄目でした。ここで、幸島の概要を書いておきます。
幸島は、石波海岸の東約0.3kmにある島。面積0.3km2・周囲約3.5km・標高114m。日向八景の1つに数えられ、日南海岸国定公園に含まれる。日本でも最も有名なニホンザル生息地のひとつ。古くからサルは弁天様の使い「わこさま」として親しまれ、昭和9年には「幸島サル生息地」として国の天然記念物に指定された。昭和23年、京都大学霊長類研究所が幸島対岸の石波海岸に設けられ、同26年には日本で初めてサルの餌付けに成功。その結果、砂のついたイモを海水で洗うイモ洗い行動や、海水で塩味をつける味つけ行動、砂浜にまかれた小麦を水に投げ入れ浮かんだ麦を食べる砂金掘り行動が見られ、その知的行動から「文化サル」として世界的に有名になった。同研究所が週に数回の生態調査を継続しており、現在約100頭弱が生息するほか、タヌキ・ノウサギなどの姿を見ることができる。干潮時には本土側と砂州でつながる時もあり、島からやってきたサルが満潮になって島に帰れなくなることもあるという。ほぼ全島が常緑広葉樹林で覆われ、温暖な気候で霜が降りることもない。約40種余りの亜熱帯植物を含む、約200種の植物が確認されている。
海岸には、「百匹の猿現象 発祥の地」と書かれた石碑がありました。この現象は、「この行動はやがて少しずつ群れの中へ伝わっていく。するとある日、幸島でサツマイモを洗うニホンザルが臨界値(例として「100匹」)を超えたとき、不可思議な出来事が突然起こった。それまで数年かけて少しずつ広まっていった芋洗い行動が、この臨界値を超えた途端、まるでテレパシーでも使ったかのように幸島の群れ全体に一瞬で広まったのである。」とWikipediaには書かれていますが、ひの信憑性については、諸説があるようですね。


(「百匹の猿現象 発祥の地」と書かれた石碑と後ろ幸島)

幸島の猿ということで、説明板もありました。


(幸島猿生息地と書かれた案内板)

また、「宮崎県巨樹百選」の看板があり、イヌマキについて書かれていましたが、どの樹かよく分かりませんでした。高校の同期に「日本の巨樹」のホームページを作っている人がいて、島にある情報を私が送っているので、探しましたが、よく分からず残念でした。


(宮崎県巨樹百選の看板)

都井岬へ向かいました。都井岬が見えてきました。


(都井岬)
(写真撮影:2013.04)

宮崎県・大分県の有人島へ 6回目

2013-04-26 04:30:00 | 71九州南部・宮崎県
初っ端から大島に渡島できず、朝早かったですが、次の島、築島への渡船を予約している会社に電話をしましたが、即座に「ダメ」との返事です。朝の8時前には、今日予定が終わってしまいました。


(大島の地図)

とりあえず、宮崎県を南下していきました。島と思いましたが、半島です。観音崎です。その後ろには、大島が見えます。


(観音崎)

その観音崎と大島の間に大きくくり抜かれた島があります。島の名前は分かりません。


(大きくくり抜かれた島)

次は、渡島できないですが、近くまで行こうということで、築島へ向かいました。


(ナビ上の築島)

舳漁港にやって来ました。築島は、本当に目の前です。泳いでも渡れそうです。しかし、私は、泳げませんが。


(築島)

集落は、築島港の周りに集中しているようです。


(築島の集落)

行けなかったですが、築島の概要を書いておきます。
築島は、宮崎県の最南端、日向灘に面した串間市市木浦の湾口に位置する島。日南海岸国定公園内にある。地形は急峻で東側は硬い砂岩で外海に面し、高さ50m前後の海食崖となっている。西側のわずかにある平地に漁業集落が立地している。島全体にビロウの原生林が生い茂り、周辺の海底にはテーブルサンゴや熱帯魚などの海中資源に恵まれ、四季を通じて磯釣り船釣りの場となっている。島名は明治初期、島を61円で買収し、最初に居住した四国宇和島の漁師、築島藤吉氏の名に由来する。
(写真撮影:2013.04)

宮崎県・大分県の有人島へ 5回目

2013-04-25 04:30:00 | 71九州南部・宮崎県
時間もあったので、周りを散策しました。「海の駅 めいつ」と書かれた建物がありました。2005年2月にオープンした「道の駅」を意識した施設のようです。しかし、朝も早く閉まっていました。


(海の駅 めいつ)

後で知ったのですが、この目井津港は、カツオ一本釣りとマグロ延縄漁の漁獲量では県内有数の漁港で、宮崎県南地域の漁業を支えているとのことでした。よって、大きな漁船が係留されていたのですね。


(目井津港)

出航時間近くになったので、発着場に行きましたが、発券売場の事務所の扉には鍵がかかっていました。何故と思い、船着場に行くと「風の影響により本日は運休」と書かれた看板が掲げられていました。


(運休の看板)

船は係留されていて、後ろの方には、行く予定の大島が見えるのに、駄目でした。


(船は係留)

行く予定の島だけでも見ようと防波堤脇にある道路を通って、虚空蔵島へ車で渡って、さらに、防波堤に登り、大島を見て、写真を撮りました。


(大島)

本来は、渡島していた大島の概略を書いておきます。
大島は、日南市の南、日向灘海上約2kmに浮かぶ。全島が日向海岸国定公園に指定されており、変化に富んだ海岸線や海上に点在する大小無数の岩礁の景観が素晴らしい。南端には日本初のコンクリート造りの灯台として知られる鞍崎灯台が建っている。嘉永1年(1848)までは飫肥藩の放牧で、それ以後開拓が進んだ。昭和30年には400人近い人口を数えている。地形は急峻、ほとんどが林野で耕地に乏しい。年平均気温18.5℃の温暖多雨な気候で亜熱帯性の植物が繁茂している。マリンスポーツはじめ散策に訪れる人も近年増えている。産業は漁業がほとんどで、民宿は2軒ある。
渡島していたら行ったかもしれない鞍埼灯台も望遠で見ることができました。


(鞍埼灯台)
(写真撮影:2013.04)

宮崎県・大分県の有人島へ 4回目

2013-04-24 04:30:00 | 71九州南部・宮崎県
レンタカー会社の車に迎えに来てもらい、手続きを終え、空港に向かいましたが、石垣島からの島旅仲間の到着まで、少し時間があったので、少し車に慣れるために、周りを運転してみました。宮崎空港には、JRが来ているのですね。列車が停まっていました。


(JRの列車)

車を駐車場に入れて、待ってもよかったのですが、後、30分くらいでしたので、空港が見える場所で、ラジオを聞きながら待ちました。


(宮崎空港前)

宮崎空港は、やはり南国ですね。


(南国的雰囲気)

島旅仲間を迎えて、宮崎市内のホテルに向かいました。しかし、お互いにホテルを取ったため、違うホテルでした。夕食もホテル間の距離があり、別々にすることにしました。しばらく振りだったので、楽しみでしたが、残念でした。しかし、4泊は、同じホテルなので、お互いに我慢しました。また、翌朝は、朝、5:00出発なので、早く寝ました。早朝、宮崎駅の近くへ迎えに行きました。


(JR宮崎駅)

早朝で、駅もまだ暗かったです。今回は、レンタカーを運転したため、道中の風景はありません。距離も60km以上あるので、2時間強とみていましたが、早朝ということもあり、予定より30分も早く目井津港に到着しました。途中、風が強かったです。港では、朝日が出てきたところでした。天気は、晴れで幸先いいと思いました。


(目井津港での日の出)

目井津港には、大きな漁船がたくさん係留されていました。どんな漁がされているのでしょうか。


(大きな漁船が)
(写真撮影:2013.04)

宮崎県・大分県の有人島へ 3回目

2013-04-23 04:30:00 | 71九州南部・宮崎県
出発機が到着しました。最近は、優先搭乗が色々と言われますね。どんなものでしょうか。


(出発機が到着)

搭乗して、窓を見ると雨が降り始めました。天気予報は最近当たりますね。


(窓に雨が)

熊本県のユルキャラ「くまもん」は、色々なところに登場しますね。最近は、こういうユルキャラが流行るようですね。


(「くまもん」がPR)

途中、ほとんど雲の中を飛行していましたが、宮崎に近づくと周りの雲は晴れてきました。


(宮崎に近づくと雲の切れ間が)

宮崎空港に到着しました。


(宮崎空港に到着)

到着後、レンタカー会社に電話をしました。迎えに来るということで、空港の外で待ちました。


(空港の外)
(写真撮影:2013.04)

宮崎県・大分県の有人島へ 2回目

2013-04-22 04:30:00 | 71九州南部・宮崎県
今回も、安いツアーを探して、1泊6日のコースで申し込みました。このツアーは、行と帰りの飛行機と1泊目のホテルがセットになっていて、その間のレンタカーは、オプション扱いになっていました。比較的安いツアーだと思っています。したがって、レンタカーは、宮崎空港で借用して、大分空港で返却することになっていました。今日は、宮崎まで行くだけなので、3時前の飛行機に乗って、出かけることにしました。いつものように浜松町を出発しました。


(浜松町駅)

下の線路を眺めているとやけに緑が濃い電車が走っていました。JRの50周年記念のキャンペーン用の車両のようです。


(山手線の車両)

新幹線もしばらく乗っていません。最近は、沖縄とか、九州が多くて、飛行機が多いですね。


(新幹線)

羽田空港に着いて、自動チェックインを行いました。最近は、これの扱いにも少し慣れてきました。今回は、事前座席予約ができずに、当日とのことで、少し早めに来ました。窓側の席の予約をすることができました。


(自動チェックイン)

少し遅めの食事をしながら、外を眺めていると霞んでいましたが、東京スカイツリーを見ることができました。


(東京スカイツリー)

出発時刻の少し前になり、搭乗口付近に行きました。


(搭乗口付近)
(写真撮影:2013.04)

宮崎県・大分県の有人島へ 1回目

2013-04-21 04:30:00 | 71九州南部・宮崎県
今回は、石垣島にロングステーしていた島旅仲間と一緒に宮崎で落ち合い、宮崎県と大分県の有人島に挑戦しました。
いつものように今回の島々の概略を書いておきます。


(青島) 宮崎市中心地の南約15kmの太平洋上にある島。古くは淡島、歯朶の浮島・鴨就島などと呼ばれた。淡島という名は紀州の淡島(粟島)にもあり、古来日向と紀州には地形・気候・神話など同一のものが多く、淡島もその一例である。全域が青島神社の神域として古くから信仰を集め、かつては島奉行が配属され、他藩からの渡島は一切禁止されていたが、元文3年(1732)5月すべての人々に祭りの時だけ参詣が許されたので、九州・四国からも参詣者が訪れにぎわったという。旧暦3月の干潮時には歩いて渡れ、その日は「島開きの祭り」としてかつては大変なにぎわいとなった。島全体が亜熱帯性の植物で覆われ、南国そのものの景色が見られる。植生は学術的にも貴重で、大正10年に天然記念物、昭和27年には「青島亜熱帯性植物群落」として特別天然記念物に指定されたいる。植物の種類も豊富で高等植物は75科226種が確認され、うち亜熱帯性植物が全体の14%にも上っている。南国的なビロウは群落のおよそ80%・約4,300本を数え、中には樹齢300年を超すものもある。島を取り囲むギザギザの波食台は「鬼の洗濯板」と呼ばれ、天然記念物に指定されている。島には宿泊・観光施設はないが、橋の手前本土側にホテル・亜熱帯植物園・遊園地などがある。

大島 日南市の南、日向灘海上約2kmに浮かぶ。全島が日向海岸国定公園に指定されており、変化に富んだ海岸線や海上に点在する大小無数の岩礁の景観が素晴らしい。南端には日本初のコンクリート造りの灯台として知られる鞍崎灯台が建っている。嘉永1年(1848)までは飫肥藩の放牧で、それ以後開拓が進んだ。昭和30年には400人近い人口を数えている。地形は急峻、ほとんどが林野で耕地に乏しい。年平均気温18.5℃の温暖多雨な気候で亜熱帯性の植物が繁茂している。マリンスポーツはじめ散策に訪れる人も近年増えている。産業は漁業がほとんどで、民宿は2軒ある。

築島 宮崎県の最南端、日向灘に面した串間市市木浦の湾口に位置する島。日南海岸国定公園内にある。地形は急峻で東側は硬い砂岩で外海に面し、高さ50m前後の海食崖となっている。西側のわずかにある平地に漁業集落が立地している。島全体にビロウの原生林が生い茂り、周辺の海底にはテーブルサンゴや熱帯魚などの海中資源に恵まれ、四季を通じて磯釣り船釣りの場となっている。島名は明治初期、島を61円で買収し、最初に居住した四国宇和島の漁師、築島藤吉氏の名に由来する。

幸島 石波海岸の東約0.3kmにある島。面積0.3km2・周囲約3.5km・標高114m。日向八景の1つに数えられ、日南海岸国定公園に含まれる。日本でも最も有名なニホンザル生息地のひとつ。古くからサルは弁天様の使い「わこさま」として親しまれ、昭和9年には「幸島サル生息地」として国の天然記念物に指定された。昭和23年、京都大学霊長類研究所が幸島対岸の石波海岸に設けられ、同26年には日本で初めてサルの餌付けに成功。その結果、砂のついたイモを海水で洗うイモ洗い行動や、海水で塩味をつける味つけ行動、砂浜にまかれた小麦を水に投げ入れ浮かんだ麦を食べる砂金掘り行動が見られ、その知的行動から「文化サル」として世界的に有名になった。同研究所が週に数回の生態調査を継続しており、現在約100頭弱が生息するほか、タヌキ・ノウサギなどの姿を見ることができる。干潮時には本土側と砂州でつながる時もあり、島からやってきたサルが満潮になって島に帰れなくなることもあるという。ほぼ全島が常緑広葉樹林で覆われ、温暖な気候で霜が降りることもない。約40種余りの亜熱帯植物を含む、約200種の植物が確認されている。

(黒島) 臼杵市の北部、佐賀関半島の尾元港の沖合い300mに位置する臼杵湾の小島。のちに徳川家康の政治顧問になったウィリアム・アダムス(三浦按針)が乗船していたオランダ船リーフデ号慶長5年(1600)に漂着したのがこの黒島だといわれている。ミカン園があり、夏には海水浴客でにぎわう。

津久見島 臼杵港の東北東4.5km、臼杵湾に浮かぶ標高166mの島。一名、小竹島ともよばれる。亜熱帯性の原生林に覆われ、県指定天然記念物のミカドアゲハが生息している。臼杵城の鬼門にあることから、寛永元年(1624)臼杵藩主稲葉一通が近江・竹生島の祭神を勧請した弁天堂がある。夏には海水浴場・キャンプ場が開かれ、臼杵内外から多くの人が訪れている。現在、民宿を営む家が1軒だけある。

(保戸島) 津久見港から14km、豊後水道に浮かぶ島。標高179mの遠見山を頂点に急傾斜地が海岸に迫り、北と南東側の海岸線は絶壁で、ほとんど平地がない。集落は西側の斜面に密集している。島名は、承平年間(931~938)の百科辞書「和名類聚抄」にある「海部郡穂門郷」の名を継承しているという。江戸時代には佐伯藩の勘定や遠見番所が置かれていた。明治23年ころから始められた遠洋マグロ漁業は今では年間100億円の水揚げがあり、一大マグロ基地となっている。日豊海岸国定公園に指定され、美しい砂浜や奇岩が点在している。平成13年度よりモデル事業としてブルーツーリズムを実施している。

(地無垢島) 津久見港から16kmの豊後水道に浮かぶ島。日豊海岸国定公園に指定され、美しい自然景観を有している。標高111mを頂点とする起伏の大きい山稜の南側は断崖絶壁で、東北部の平地と山腹傾斜地に集落がある。昭和56年から“椿の里”づくりに取り組んでいて、山の北側のふもとから山頂にかけて椿園にはヤブツバキをはじめツバキ約5,000本が植えられており、毎年1月中旬から見事な花をつける。島の漁業者の悩みは、島の周囲に共同漁業権をもっていないことである。平成13年度よりモデル事業としてブルーツーリズムを実施している。

大入島 大分県南東部に位置する県南の中心部市・佐伯市から北北東に0.7kmに浮かぶ周囲22kmの島。形が「入」の字に似ている。漁業と農業が中心で、漁業では沿岸漁業が主体で、ヒラメの陸上養殖なども盛ん。新鮮な農水産物を使った特産加工品やレストランメニューが人気の「おいしい島」である。また、全島が国定・県立自然公園に指定されており、風光明媚な景色が四季折々に味わえる。また、神武天皇伝説や6世紀ごろの古墳など、歴史的にもロマンのある島でもある。

大島 佐伯市の東約15km、鶴見半島先端近くの豊後水道に浮かぶ、小さな大島。島の東側は太平洋の荒波が打ち寄せる断崖絶壁で、豊後水道自然公園に指定され、雄大な景観は目を見張るものがある。西側には船隠・田野浦・地下の3つの集落がある。一本釣漁業が主産業で男たちが腕一本でささえる漁業の島である。最近、島の西側に沖合養殖場が造成され、ブリ、タイなどが養殖されている。その品質はすばらしく、市場の評価も高い。佐伯湾口の交通の要衝に位置することから、慶長11年(1606)に毛利佐伯藩の船番所が置かれて開発がすすんだといわれ、賀茂神社や「とび太鼓」などの文化遺産、「壇の窓」に代表される自然のおりなす景観がすばらしい。

屋形島 蒲江町の南約2kmの蒲江湾口に位置する。西側と北側中央部に集落と耕地がある。地質は黒色千枚岩からなり、気候は温暖多雨で、夏季には南南東、冬季には北西の季節風をうける。南7kmにある深島を結ぶ海中には起伏の多い天然礁がある。海流は瀬戸内海の低温水と黒潮から流入する高温水との混合流となっている。島名は、かつて唐船が来航した際、来泊者の仮屋が建てられたことに因むという。島の開拓は元禄5年(1692)に始まり、のちに佐伯藩の藩牧が開かれ、寛保3年(1743)に深島から4戸が移住している。真珠母貝・ヒオウギ貝の養殖は昭和38年ごろから始まっている。近年、トコブシ漁などの潜水漁も営まれるようになった。

深島 大分県の南東端、蒲江港から南に9kmの日向灘に位置する。地殻変動で沈降水没した陸の山頂部といわれている。周囲は大小無数の岩礁、切り立った海食崖、海食洞がある。南部と北部にある台地状の2つの島が、「はま」と呼ばれている砂州で結ばれ、砂州のくびれた部分に集落がある。気候は温暖多雨で、夏季には南南東、冬季には北西の季節風を受ける。もともと御手洗水軍の拠点だったと伝えられ、享保6年(1721)に本土から農民が移住し開拓が始まったが、寛保3年(1743)に佐伯藩の命令で屋形島に移され、無人化した。のちに佐伯藩の流刑地となり、明治5年に蒲江浦から7人が移住、再び開拓された。現在は小型旋き網漁を中心とした沿岸漁業が営まれている。

島野浦島 延岡市の中心部から北東へ約12kmの日向灘にあるしま。標高約185mの遠見場山を中心に全体が切り立った地形で、西側の漁港周辺に住宅が密集している。島の周囲は変化に富んだリアス式海岸で、美しい自然景観をかもしだしており、日豊海岸国定公園の一部となっている。かつては伊予水軍が付近で活躍、江戸時代には船の風待ち・潮待ちに利用されていた。定住は元禄年間(1688~1704)といわれている。水産業と水産加工業で全国屈指の漁業基地に発展した活気に満ちた島だ。

(  )付きの島は、以前に渡島していましたので、新しくは、有人島8島の渡島の予定でしたが、強風で、2島に渡島できず、6島になってしまいました。


出典:(財)日本離島センター発行の「日本の島ガイド SHIMADAS シマダス」から