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昭JIJI(アキラジジ)の島旅賛歌*参加

日本全国に有人島が434島ほどある。全島制覇すべく島旅を継続中。

これで佐賀県の離島を制覇! 玄界灘に浮かぶ8つの島々へ 10回目

2009-06-27 04:30:00 | 62九州北部・佐賀県・玄海諸島
時間になりましたが、チャーター船は来ませんでした。漁港ですね。網が干されていました。何を獲る網でしょうか。


(干されている網)

チャーター船が接岸しました。お客さんを乗せていました。忙しいようですね。


(接岸したチャーター船)

待合所にいた皆さんも集まってきました。


(チャーター船へ)

チャーター船に乗り込み、次の神集島(かしわじま)へ向かうのに近い港へ向かいました。


(チャーター船へ乗船)


(近い港へ)

船に乗ると先ほど美味しく食べた天ぷらが宣伝されています。


(天ぷらの宣伝)

船窓からこれから行く島々が見えてきました。


(これから行く島々)
(2009.03写真撮影)

これで佐賀県の離島を制覇! 玄界灘に浮かぶ8つの島々へ 9回目

2009-06-26 04:30:00 | 62九州北部・佐賀県・玄海諸島
本土の方を見ると唐津城が見られました。裏側ですが、さくらも咲き、日本のお城は本当にきれいですね。


(唐津城)

診療所がありましたが、お医者さんも常駐されているようです。


(診療所)


島の反対側には、高い山がありますが、名前がわかりません。この頂上からの展望は、すばらしいようですが、時間がなく、下から眺めるだけでした。


(高島の山)

島内散策もあっという間に終わってしまいました。もう1つ、神社があったようですが、見逃してしまいました。港に戻ってくると美味しそうな手作りの天ぷらが売られていました。缶ビールを買ってきて食べました。美味しかったです。




(美味しそうな天ぷら)

その横には、漁村総合センターがありました。


(漁村総合センター)
(2009.03写真撮影)

これで佐賀県の離島を制覇! 玄界灘に浮かぶ8つの島々へ 8回目

2009-06-25 04:30:00 | 62九州北部・佐賀県・玄海諸島
社殿に上がり、熱心にお参りしている人もいました。




(社殿でお参り)

参拝も終わり、出発まで時間がありましたので、島内散策をすることにしました。すると、宝くじ売り場がありました。早速、熱心にお参りしていた人が宝くじを購入していました。私もジャンボの宝くじが売られていれば購入しようと思いましたが、その時期には、販売がありませんでした。




(宝くじ購入)

その後、島内散策へ向かいました。まず、目に付いたのは、防波堤に描かれた魚の絵です。このような絵は各島の防波堤に描かれています。皆、上手に描きますね。




(防波堤に描かれた魚の絵画)

水がきれいな川がありました。


(水がきれいな川)
(2009.03写真撮影)

これで佐賀県の離島を制覇! 玄界灘に浮かぶ8つの島々へ 7回目

2009-06-24 04:30:00 | 62九州北部・佐賀県・玄海諸島
その先には、宝当神社があり、この神社は、高島開発の祖・野島隠岐守綱吉を祀っている神社で、明治34年に「寶當神社」と改名、鳥居が奉献されています。近年、宝くじにご利益があるとして注目されています。






(宝当神社)

狭い境内の右側には、藤棚とおみくじを結ぶ棚があり、左側には社務所がありました。ここでは、お守り、お札は売られていましたが、宝当袋や宝くじは売られていませんでした。


(藤棚)


(おみくじを結ぶ棚)


(社務所)

社務所の横には、この神社の縁起を細かく書いた看板がありました。


(縁起を細かく書いた看板)
(2009.03写真撮影)

これで佐賀県の離島を制覇! 玄界灘に浮かぶ8つの島々へ 6回目

2009-06-23 04:30:00 | 62九州北部・佐賀県・玄海諸島
最初に、高島島内の案内マップが目に付きました。やはり、まず、宝当神社へ行くことにしました。


(案内マップ)

行き方は、どちらからでも行けるようですが、左側から行くのが正式な参拝の方法ですと言われました。根拠は、解りませんが、どうもそちらの土産物店が言っているようでした。




(宝当神社へ)

案内人は、まず、土産物店へ連れて行ってくれました。というか、連れて行かれました。店内には、色々な宝当袋が並んでいました。しかし、安いもので1200円しました。これで間違いなく当たるのであれば、買ってもいいのですが。仲間で、購入した人がいました。




(宝当袋)

神社近くには、野良猫がたくさんいて、「ネコを撫ぜると当たる」との伝説ができており、このネコを撫ぜた人が3億円を当てたとのこと。


(ネコを撫ぜると当たる)
(2009.03写真撮影)

これで佐賀県の離島を制覇! 玄界灘に浮かぶ8つの島々へ 5回目

2009-06-22 04:30:00 | 62九州北部・佐賀県・玄海諸島
時間になり、高島へ向かうことにしました。




(高島へ)


(定期船 ニュー高島)

唐津城を見ながら出発しました。松浦川河口の橋を通り、唐津湾へ出ました。


(高島へ向かって出港)


(唐津城)

高島が見えてきました。


(高島)

高島へ上陸しました。


(高島へ上陸)
(2009.03写真撮影)

これで佐賀県の離島を制覇! 玄界灘に浮かぶ8つの島々へ 4回目

2009-06-21 04:30:00 | 62九州北部・佐賀県・玄海諸島
松浦橋を渡る途中の車窓から唐津城が見えました。ここにも桜が咲いていて、きれいでした。


(松浦橋)


(唐津城)

唐津郵便局を通過して、高島へ向かう桟橋に着きました。


(唐津郵便局)


(高島へ向かう桟橋)

そこで、出港までに時間があったので、、唐津城を眺めながら弁当を食べました。きれいな景色を見ながら食べる弁当は更においしくなりますね。


(唐津城)




(一日目の昼食)
(2009.03写真撮影)

これで佐賀県の離島を制覇! 玄界灘に浮かぶ8つの島々へ 3回目

2009-06-20 04:30:00 | 62九州北部・佐賀県・玄海諸島
丁度、桜の花が満開で、車窓から花見をしながら唐津湾へ向かいました。








(車窓から見られた各所の桜)

海岸側には以前行ったことのある玄界島が見えました。地震からの復興はどうなっているのでしょうか。


(玄界島)

唐津に近づいてくると「日本三大松原」のひとつである「虹の松原」が見えてきました。約100万本の黒松が5kmにわたってあるようです。しばらく、松林の中を走りました。




(虹の松原)
(2009.03写真撮影)

これで佐賀県の離島を制覇! 玄界灘に浮かぶ8つの島々へ 2回目

2009-06-19 04:30:00 | 62九州北部・佐賀県・玄海諸島
今回は、羽田空港の集合時間が早いので、始発に乗り、出向きましたが、集合時間を少し遅くなりました。添乗員には事前に了解を得ていました。羽田空港の国際線ターミナルの工事が進んでいます。また、モノレールの線路も造られていました。出来上がると国際線経由と国内線直の便ができるのでしょうか。


(レインボーブリッジ)


(工事中の羽田空港国際線)

予定通りの時間に羽田空港に到着でき、手続きを終え、ゲートへ向かいました。今回は、久しぶりによく知っている仲間が来ていました。今回の旅も楽しみです。


(羽田空港第一ターミナル)


(搭乗口)

定刻に飛び立った飛行機は少し遅れで、福岡空港に到着しました。




(福岡空港)

そこからは、目的地まで、バスでの移動となりました。例により参加者の割には、大きいバスなのでユッタリと座れました。


(バスでの移動)
(2009.03写真撮影)

これで佐賀県の離島を制覇! 玄界灘に浮かぶ8つの島々へ  1回目

2009-06-18 04:30:00 | 62九州北部・佐賀県・玄海諸島
2009.03.30~04.02に佐賀県にある島を巡ってきました。その時の紀行文を投稿します。

まず、今回、渡島した佐賀県の島々の概要を書きます。

高島 唐津城の北2km、唐津湾にポッカリと浮かぶ周囲3km・人口370人の漁業の島。典型的なメサ(卓上)地形の島として知られ、カンラン岩を多く含む玄武岩が見られることから地質学的にも有名だ。島の両端から南へ砂州が延び、その間の平坦な砂浜上に集落が形づく作られている。頂上まで700メートルの遊歩道、周遊道路、展望所があり、展望所は魚見台の跡だけに遠く壱岐までも望める。島内にはマテバシイの群生林がある。島への定住は天正年間(1573~92)に遡り、島のほとんどが野崎姓で、島開発の祖・野崎隠岐守の末裔であることを物語っている。近年、この島の宝当神社の名称がウケていて「宝クジに当たる」と評判が高く、多くの参拝者を集めている。

神集島 唐津市湊の沖合2kmの海上にある周囲6kmの島。玄武岩で形成され、その台状の形から軍艦島ともよばれる。北西部に砂嘴と台地で囲まれた良港があり、その周りに集落が形づくられている。古来、大陸と松浦を結ぶ航路上にあたり、渡航船の寄港地となっていた。島名は、神功皇后が朝鮮出兵の時に神々を集めて海上の安全を祈ったことから由来すると伝えられる。「松浦拾風土記」には、神功皇后が日々軍議を謀ったという「皇后評議石」が頂上にあると記されている。また島のあちこちで旧石器から古墳時代にわたる遺跡や遺物が出土、鬼塚古墳群はその代表的なものだ。

加部島 東松浦半島の先端、呼子港の前面500mに位置する、歴史に刻まれた伝説の島。島の南西部にある標高112mの天童岳が最高地点。円錐形の台地で一面が耕地整理され、佐賀県の島の中では最も農業が盛んである。古くは「姫神島」「壁島」と呼ばれ、中国や朝鮮半島に渡る海上交通の拠点となっていた。平成元年4月、農面道路橋の「呼子大橋」が完成し、パイプラインで農業用水が確保され、施設園芸が盛んになった。漁業はイカの一本釣漁業が中心で、全国ブランド「呼子イカ」を生きたまま各地へ運ぶ漁業の基地となっている。近年、文化・歴史の探訪と活魚料理が魅力の観光の島に変貌しつつある。

小川島 呼子港から6.5kmの玄界灘に浮かぶ1km2に満たない小さな漁業の島。古くから朝鮮半島との交通の要衝として知られた。島北側の壱岐水道は鯨の通り道であることから文禄年間(1592~96)に捕鯨が始まり、江戸末期には平戸諸島生口島、五島列島中通島有川とともに国内近海捕鯨の3大基地と並び称せられ、「鯨見張所」「鯨鯢供養塔」などの貴重な歴史遺産が往時をしのばせている。冬期はしけが続いて航路の欠航もしばしば見られるが、対馬暖流の影響を受ける無霜地帯で比較的温暖な島だ。産業は小型漁船によるイカの一本釣漁業が中心。近年遊休農地の見直しで、都市との交流を図る滞在型の体験農園施設が完成し、島の特性を生かした地域づくりが展開されている。

加唐島 呼子の北西7.5kmに位置する南北に長い島。山地が海岸線に迫る玄武岩質の台地からなり、集落地を除いて周囲は海食崖に囲まれている。産業はイカ漁を中心とする漁業が主で、その他ニンニク、ダイコン、サツマイモの栽培も盛ん。また、島特産のツバキの実は有名である。南の加唐地区と北の大泊の2集落がある。
古くから朝鮮半島との交通の要衝で、『日本書紀』には「各羅島」の名で登場する。新羅征討の時、身ごもっていた神功皇后はこの島で着帯式を挙げたとされ、オビヤ浦の地名が残っている。またオビヤ浦には、古代朝鮮半島に三国時代を築いた百済の王のひとり、武寧王の生誕伝承が伝わり、サッカー・ワールドカップ2002の時の日刊交流をはじめとして、伝承をもとにした島おこしが進められている。

松島 本土から3.2kmに位置する「ひょうたん」型の島。島の東西双方に100m~150mの高台をもつ丘陵状の島で、玄武岩に覆われている。島の開発は、安政年間(1854~60)に加唐島からの来住に始まる。その後、長崎の黒島からの移住者がすべてカトリック信者であったことから、現在も当時の4氏系を含む住民の大部分か信者である。産業は漁業(海士漁)と瀬渡し(遊漁船)が主。佐賀県の離島の中でもっとも小さい島の一つだが、近年は若い人たちのUターンも多く、人口が増えている元気な島である。馬渡島 本土から北西8kmの沖合にある、玄海諸島の中で最大の島。対馬暖流の影響で比較的温暖、無霜地帯でもある。島名は、平安時代に近江国馬渡庄を納めていた源義俊が白河天皇に謀反を起こしてこの島へ流された事件に由来するとも、中国から馬が最初に渡って来たからだとも伝えられている。文永の役(1274)、弘安の役(1281)には元軍が来襲した歴史を持つ。江戸時代には唐津藩の牧場が置かれた。寛政年間(1789~1801)にキリシタン弾圧によって黒崎村(長崎県外海町)から7人のキリスト教信者が入植、今でも住民の半数はカトリック教徒である。集落は、仏教徒の宮の本地区(本村)とカトリック信徒の二夕松・野中地区(新村)からなっている。産業は、馬渡島漁港を拠点に一本釣り、はえ縄漁が営まれ、新村地区を中心に甘藷、ツワと水耕が栽培されている。玄海国定公園の一角を占める景勝の地であり、とくに「番所の辻」では360°の展望がきき、観光開発が進められている。
向島 肥前町の北西約23kmにある標高67mの島。玄武岩からなる。文禄年間(1592~96)、豊臣秀吉に滅ぼされた松浦の豪族・波多三河守の縁者が住みついたのが始まりといわれる。秀吉が朝鮮出兵の時、肥前名護屋城から眺め、沖に見える「向こうの島」と呼んだのが島の由来と伝えられている。気候は温暖だが台風の影響を受けやすい。集落は南東部の漁港周辺のみで、人口の変動が少ない。産業は漁業がほとんどで、一本釣りと採貝が主である。近海は玄界灘の好漁場となっている。近年、キャンプ場、遊歩道、公園など観光開発も進み、生活環境や漁港も整備中だ。

馬渡島 本土から北西8kmの沖合にある、玄海諸島の中で最大の島。対馬暖流の影響で比較的温暖、無霜地帯でもある。島名は、平安時代に近江国馬渡庄を納めていた源義俊が白河天皇に謀反を起こしてこの島へ流された事件に由来するとも、中国から馬が最初に渡って来たからだとも伝えられている。文永の役(1274)、弘安の役(1281)には元軍が来襲した歴史を持つ。江戸時代には唐津藩の牧場が置かれた。
寛政年間(1789~1801)にキリシタン弾圧によって黒崎村(長崎県外海町)から7人のキリスト教信者が入植、今でも住民の半数はカトリック教徒である。集落は、仏教徒の宮の本地区(本村)とカトリック信徒の二夕松・野中地区(新村)からなっている。産業は、馬渡島漁港を拠点に一本釣り、はえ縄漁が営まれ、新村地区を中心に甘藷、ツワと水耕が栽培されている。玄海国定公園の一角を占める景勝の地であり、とくに「番所の辻」では360°の展望がきき、観光開発が進められている。

向島 肥前町の北西約23kmにある標高67mの島。玄武岩からなる。文禄年間(1592~96)、豊臣秀吉に滅ぼされた松浦の豪族・波多三河守の縁者が住みついたのが始まりといわれる。秀吉が朝鮮出兵の時、肥前名護屋城から眺め、沖に見える「向こうの島」と呼んだのが島の由来と伝えられている。気候は温暖だが台風の影響を受けやすい。集落は南東部の漁港周辺のみで、人口の変動が変動が少ない。産業は漁業がほとんどで、一本釣りと採貝が主である。近海は玄界灘の好漁場となっている。
近年、キャンプ場、遊歩道、公園など観光開発も進み、生活環境や漁港も整備中だ。

島山島 満越地区の国民宿舎「いろは島」の西約50mにある架橋島。面積0.05km2・周囲1.3km・標高36m。
玄海国定公園に含まれる。島内は「花と冒険の島」という公園になっており、別名ピーターパンの島ともいう。「妖精の橋」を渡ると、くつろぎの広場・ウェンディの家・海賊の丘・チクタクワニの崖・妖精の迷路・インディアンの岬・ピーターパンのかくれがといったアスレチック施設が整備されている。入場無料。開園は9:00~17:00。海水浴場もあり、シーカヤック大会などが行われている。

三島 仮屋地区の沖合約30mの仮屋湾内にある島。面積0.04km2。玄海国定公園に含まれる。昭和52年、本土と架橋された。島内には玄海温泉福祉センターや三島公園、三島神社があり、遊歩道、アスレチック、展望台などが整備されている。毎年10月末ごろ行われる三島神社秋の例大祭は500年以上の歴史があり、漁船に乗せた神輿が仮屋湾内を巡航、多くの見物客でにぎわう。

次の島は、長崎県の島ですが、オプションで乗った船で案内してもらいました。

福島 長崎県の東北部、佐賀県伊万里湾の奥部に位置し、玄海国定公園区域内に浮かぶ「つばきの島」。島名の由来は、水が豊富で土地が肥え、海産物も豊かなことから名付けられたといわれている。中世には、北西に位置する鷹島と同じく、元寇の戦場となったと考えられている。明治の中ごろから炭鉱の開発が進み、特に昭和に入ると島内各所で中小規模の炭鉱が次々に開鉱、昭和28年には人口13,000人を数えたが、その後、徐々に減少し、昭和47年には炭鉱の灯も消えた。昭和42年に長さ225mの福島大橋が完成し、県境を越えて佐賀県伊万里市と結ばれた。昭和58年、南西端の炭鉱跡地に西日本最大級のLPG(液化石油ガス)基地が進出、操業を続けている。島の北部には約5万本のヤブツバキが群生しており、愛好家によるツバキ展も毎年開催されている。また、夏場は海水浴・キャンプなどマリンスポーツが楽しめ、ペンションのならぶ休養地でもある。

出典:(財)日本離島センター発行の「日本の島ガイド SHIMADAS シマダス」から