2009.03.30~04.02に佐賀県にある島を巡ってきました。その時の紀行文を投稿します。
まず、今回、渡島した佐賀県の島々の概要を書きます。
高島 唐津城の北2km、唐津湾にポッカリと浮かぶ周囲3km・人口370人の漁業の島。典型的なメサ(卓上)地形の島として知られ、カンラン岩を多く含む玄武岩が見られることから地質学的にも有名だ。島の両端から南へ砂州が延び、その間の平坦な砂浜上に集落が形づく作られている。頂上まで700メートルの遊歩道、周遊道路、展望所があり、展望所は魚見台の跡だけに遠く壱岐までも望める。島内にはマテバシイの群生林がある。島への定住は天正年間(1573~92)に遡り、島のほとんどが野崎姓で、島開発の祖・野崎隠岐守の末裔であることを物語っている。近年、この島の宝当神社の名称がウケていて「宝クジに当たる」と評判が高く、多くの参拝者を集めている。
神集島 唐津市湊の沖合2kmの海上にある周囲6kmの島。玄武岩で形成され、その台状の形から軍艦島ともよばれる。北西部に砂嘴と台地で囲まれた良港があり、その周りに集落が形づくられている。古来、大陸と松浦を結ぶ航路上にあたり、渡航船の寄港地となっていた。島名は、神功皇后が朝鮮出兵の時に神々を集めて海上の安全を祈ったことから由来すると伝えられる。「松浦拾風土記」には、神功皇后が日々軍議を謀ったという「皇后評議石」が頂上にあると記されている。また島のあちこちで旧石器から古墳時代にわたる遺跡や遺物が出土、鬼塚古墳群はその代表的なものだ。
加部島 東松浦半島の先端、呼子港の前面500mに位置する、歴史に刻まれた伝説の島。島の南西部にある標高112mの天童岳が最高地点。円錐形の台地で一面が耕地整理され、佐賀県の島の中では最も農業が盛んである。古くは「姫神島」「壁島」と呼ばれ、中国や朝鮮半島に渡る海上交通の拠点となっていた。平成元年4月、農面道路橋の「呼子大橋」が完成し、パイプラインで農業用水が確保され、施設園芸が盛んになった。漁業はイカの一本釣漁業が中心で、全国ブランド「呼子イカ」を生きたまま各地へ運ぶ漁業の基地となっている。近年、文化・歴史の探訪と活魚料理が魅力の観光の島に変貌しつつある。
小川島 呼子港から6.5kmの玄界灘に浮かぶ1km2に満たない小さな漁業の島。古くから朝鮮半島との交通の要衝として知られた。島北側の壱岐水道は鯨の通り道であることから文禄年間(1592~96)に捕鯨が始まり、江戸末期には平戸諸島生口島、五島列島中通島有川とともに国内近海捕鯨の3大基地と並び称せられ、「鯨見張所」「鯨鯢供養塔」などの貴重な歴史遺産が往時をしのばせている。冬期はしけが続いて航路の欠航もしばしば見られるが、対馬暖流の影響を受ける無霜地帯で比較的温暖な島だ。産業は小型漁船によるイカの一本釣漁業が中心。近年遊休農地の見直しで、都市との交流を図る滞在型の体験農園施設が完成し、島の特性を生かした地域づくりが展開されている。
加唐島 呼子の北西7.5kmに位置する南北に長い島。山地が海岸線に迫る玄武岩質の台地からなり、集落地を除いて周囲は海食崖に囲まれている。産業はイカ漁を中心とする漁業が主で、その他ニンニク、ダイコン、サツマイモの栽培も盛ん。また、島特産のツバキの実は有名である。南の加唐地区と北の大泊の2集落がある。
古くから朝鮮半島との交通の要衝で、『日本書紀』には「各羅島」の名で登場する。新羅征討の時、身ごもっていた神功皇后はこの島で着帯式を挙げたとされ、オビヤ浦の地名が残っている。またオビヤ浦には、古代朝鮮半島に三国時代を築いた百済の王のひとり、武寧王の生誕伝承が伝わり、サッカー・ワールドカップ2002の時の日刊交流をはじめとして、伝承をもとにした島おこしが進められている。
松島 本土から3.2kmに位置する「ひょうたん」型の島。島の東西双方に100m~150mの高台をもつ丘陵状の島で、玄武岩に覆われている。島の開発は、安政年間(1854~60)に加唐島からの来住に始まる。その後、長崎の黒島からの移住者がすべてカトリック信者であったことから、現在も当時の4氏系を含む住民の大部分か信者である。産業は漁業(海士漁)と瀬渡し(遊漁船)が主。佐賀県の離島の中でもっとも小さい島の一つだが、近年は若い人たちのUターンも多く、人口が増えている元気な島である。馬渡島 本土から北西8kmの沖合にある、玄海諸島の中で最大の島。対馬暖流の影響で比較的温暖、無霜地帯でもある。島名は、平安時代に近江国馬渡庄を納めていた源義俊が白河天皇に謀反を起こしてこの島へ流された事件に由来するとも、中国から馬が最初に渡って来たからだとも伝えられている。文永の役(1274)、弘安の役(1281)には元軍が来襲した歴史を持つ。江戸時代には唐津藩の牧場が置かれた。寛政年間(1789~1801)にキリシタン弾圧によって黒崎村(長崎県外海町)から7人のキリスト教信者が入植、今でも住民の半数はカトリック教徒である。集落は、仏教徒の宮の本地区(本村)とカトリック信徒の二夕松・野中地区(新村)からなっている。産業は、馬渡島漁港を拠点に一本釣り、はえ縄漁が営まれ、新村地区を中心に甘藷、ツワと水耕が栽培されている。玄海国定公園の一角を占める景勝の地であり、とくに「番所の辻」では360°の展望がきき、観光開発が進められている。
向島 肥前町の北西約23kmにある標高67mの島。玄武岩からなる。文禄年間(1592~96)、豊臣秀吉に滅ぼされた松浦の豪族・波多三河守の縁者が住みついたのが始まりといわれる。秀吉が朝鮮出兵の時、肥前名護屋城から眺め、沖に見える「向こうの島」と呼んだのが島の由来と伝えられている。気候は温暖だが台風の影響を受けやすい。集落は南東部の漁港周辺のみで、人口の変動が少ない。産業は漁業がほとんどで、一本釣りと採貝が主である。近海は玄界灘の好漁場となっている。近年、キャンプ場、遊歩道、公園など観光開発も進み、生活環境や漁港も整備中だ。
馬渡島 本土から北西8kmの沖合にある、玄海諸島の中で最大の島。対馬暖流の影響で比較的温暖、無霜地帯でもある。島名は、平安時代に近江国馬渡庄を納めていた源義俊が白河天皇に謀反を起こしてこの島へ流された事件に由来するとも、中国から馬が最初に渡って来たからだとも伝えられている。文永の役(1274)、弘安の役(1281)には元軍が来襲した歴史を持つ。江戸時代には唐津藩の牧場が置かれた。
寛政年間(1789~1801)にキリシタン弾圧によって黒崎村(長崎県外海町)から7人のキリスト教信者が入植、今でも住民の半数はカトリック教徒である。集落は、仏教徒の宮の本地区(本村)とカトリック信徒の二夕松・野中地区(新村)からなっている。産業は、馬渡島漁港を拠点に一本釣り、はえ縄漁が営まれ、新村地区を中心に甘藷、ツワと水耕が栽培されている。玄海国定公園の一角を占める景勝の地であり、とくに「番所の辻」では360°の展望がきき、観光開発が進められている。
向島 肥前町の北西約23kmにある標高67mの島。玄武岩からなる。文禄年間(1592~96)、豊臣秀吉に滅ぼされた松浦の豪族・波多三河守の縁者が住みついたのが始まりといわれる。秀吉が朝鮮出兵の時、肥前名護屋城から眺め、沖に見える「向こうの島」と呼んだのが島の由来と伝えられている。気候は温暖だが台風の影響を受けやすい。集落は南東部の漁港周辺のみで、人口の変動が変動が少ない。産業は漁業がほとんどで、一本釣りと採貝が主である。近海は玄界灘の好漁場となっている。
近年、キャンプ場、遊歩道、公園など観光開発も進み、生活環境や漁港も整備中だ。
島山島 満越地区の国民宿舎「いろは島」の西約50mにある架橋島。面積0.05km2・周囲1.3km・標高36m。
玄海国定公園に含まれる。島内は「花と冒険の島」という公園になっており、別名ピーターパンの島ともいう。「妖精の橋」を渡ると、くつろぎの広場・ウェンディの家・海賊の丘・チクタクワニの崖・妖精の迷路・インディアンの岬・ピーターパンのかくれがといったアスレチック施設が整備されている。入場無料。開園は9:00~17:00。海水浴場もあり、シーカヤック大会などが行われている。
三島 仮屋地区の沖合約30mの仮屋湾内にある島。面積0.04km2。玄海国定公園に含まれる。昭和52年、本土と架橋された。島内には玄海温泉福祉センターや三島公園、三島神社があり、遊歩道、アスレチック、展望台などが整備されている。毎年10月末ごろ行われる三島神社秋の例大祭は500年以上の歴史があり、漁船に乗せた神輿が仮屋湾内を巡航、多くの見物客でにぎわう。
次の島は、長崎県の島ですが、オプションで乗った船で案内してもらいました。
福島 長崎県の東北部、佐賀県伊万里湾の奥部に位置し、玄海国定公園区域内に浮かぶ「つばきの島」。島名の由来は、水が豊富で土地が肥え、海産物も豊かなことから名付けられたといわれている。中世には、北西に位置する鷹島と同じく、元寇の戦場となったと考えられている。明治の中ごろから炭鉱の開発が進み、特に昭和に入ると島内各所で中小規模の炭鉱が次々に開鉱、昭和28年には人口13,000人を数えたが、その後、徐々に減少し、昭和47年には炭鉱の灯も消えた。昭和42年に長さ225mの福島大橋が完成し、県境を越えて佐賀県伊万里市と結ばれた。昭和58年、南西端の炭鉱跡地に西日本最大級のLPG(液化石油ガス)基地が進出、操業を続けている。島の北部には約5万本のヤブツバキが群生しており、愛好家によるツバキ展も毎年開催されている。また、夏場は海水浴・キャンプなどマリンスポーツが楽しめ、ペンションのならぶ休養地でもある。
出典:(財)日本離島センター発行の「日本の島ガイド SHIMADAS シマダス」から
まず、今回、渡島した佐賀県の島々の概要を書きます。
高島 唐津城の北2km、唐津湾にポッカリと浮かぶ周囲3km・人口370人の漁業の島。典型的なメサ(卓上)地形の島として知られ、カンラン岩を多く含む玄武岩が見られることから地質学的にも有名だ。島の両端から南へ砂州が延び、その間の平坦な砂浜上に集落が形づく作られている。頂上まで700メートルの遊歩道、周遊道路、展望所があり、展望所は魚見台の跡だけに遠く壱岐までも望める。島内にはマテバシイの群生林がある。島への定住は天正年間(1573~92)に遡り、島のほとんどが野崎姓で、島開発の祖・野崎隠岐守の末裔であることを物語っている。近年、この島の宝当神社の名称がウケていて「宝クジに当たる」と評判が高く、多くの参拝者を集めている。
神集島 唐津市湊の沖合2kmの海上にある周囲6kmの島。玄武岩で形成され、その台状の形から軍艦島ともよばれる。北西部に砂嘴と台地で囲まれた良港があり、その周りに集落が形づくられている。古来、大陸と松浦を結ぶ航路上にあたり、渡航船の寄港地となっていた。島名は、神功皇后が朝鮮出兵の時に神々を集めて海上の安全を祈ったことから由来すると伝えられる。「松浦拾風土記」には、神功皇后が日々軍議を謀ったという「皇后評議石」が頂上にあると記されている。また島のあちこちで旧石器から古墳時代にわたる遺跡や遺物が出土、鬼塚古墳群はその代表的なものだ。
加部島 東松浦半島の先端、呼子港の前面500mに位置する、歴史に刻まれた伝説の島。島の南西部にある標高112mの天童岳が最高地点。円錐形の台地で一面が耕地整理され、佐賀県の島の中では最も農業が盛んである。古くは「姫神島」「壁島」と呼ばれ、中国や朝鮮半島に渡る海上交通の拠点となっていた。平成元年4月、農面道路橋の「呼子大橋」が完成し、パイプラインで農業用水が確保され、施設園芸が盛んになった。漁業はイカの一本釣漁業が中心で、全国ブランド「呼子イカ」を生きたまま各地へ運ぶ漁業の基地となっている。近年、文化・歴史の探訪と活魚料理が魅力の観光の島に変貌しつつある。
小川島 呼子港から6.5kmの玄界灘に浮かぶ1km2に満たない小さな漁業の島。古くから朝鮮半島との交通の要衝として知られた。島北側の壱岐水道は鯨の通り道であることから文禄年間(1592~96)に捕鯨が始まり、江戸末期には平戸諸島生口島、五島列島中通島有川とともに国内近海捕鯨の3大基地と並び称せられ、「鯨見張所」「鯨鯢供養塔」などの貴重な歴史遺産が往時をしのばせている。冬期はしけが続いて航路の欠航もしばしば見られるが、対馬暖流の影響を受ける無霜地帯で比較的温暖な島だ。産業は小型漁船によるイカの一本釣漁業が中心。近年遊休農地の見直しで、都市との交流を図る滞在型の体験農園施設が完成し、島の特性を生かした地域づくりが展開されている。
加唐島 呼子の北西7.5kmに位置する南北に長い島。山地が海岸線に迫る玄武岩質の台地からなり、集落地を除いて周囲は海食崖に囲まれている。産業はイカ漁を中心とする漁業が主で、その他ニンニク、ダイコン、サツマイモの栽培も盛ん。また、島特産のツバキの実は有名である。南の加唐地区と北の大泊の2集落がある。
古くから朝鮮半島との交通の要衝で、『日本書紀』には「各羅島」の名で登場する。新羅征討の時、身ごもっていた神功皇后はこの島で着帯式を挙げたとされ、オビヤ浦の地名が残っている。またオビヤ浦には、古代朝鮮半島に三国時代を築いた百済の王のひとり、武寧王の生誕伝承が伝わり、サッカー・ワールドカップ2002の時の日刊交流をはじめとして、伝承をもとにした島おこしが進められている。
松島 本土から3.2kmに位置する「ひょうたん」型の島。島の東西双方に100m~150mの高台をもつ丘陵状の島で、玄武岩に覆われている。島の開発は、安政年間(1854~60)に加唐島からの来住に始まる。その後、長崎の黒島からの移住者がすべてカトリック信者であったことから、現在も当時の4氏系を含む住民の大部分か信者である。産業は漁業(海士漁)と瀬渡し(遊漁船)が主。佐賀県の離島の中でもっとも小さい島の一つだが、近年は若い人たちのUターンも多く、人口が増えている元気な島である。馬渡島 本土から北西8kmの沖合にある、玄海諸島の中で最大の島。対馬暖流の影響で比較的温暖、無霜地帯でもある。島名は、平安時代に近江国馬渡庄を納めていた源義俊が白河天皇に謀反を起こしてこの島へ流された事件に由来するとも、中国から馬が最初に渡って来たからだとも伝えられている。文永の役(1274)、弘安の役(1281)には元軍が来襲した歴史を持つ。江戸時代には唐津藩の牧場が置かれた。寛政年間(1789~1801)にキリシタン弾圧によって黒崎村(長崎県外海町)から7人のキリスト教信者が入植、今でも住民の半数はカトリック教徒である。集落は、仏教徒の宮の本地区(本村)とカトリック信徒の二夕松・野中地区(新村)からなっている。産業は、馬渡島漁港を拠点に一本釣り、はえ縄漁が営まれ、新村地区を中心に甘藷、ツワと水耕が栽培されている。玄海国定公園の一角を占める景勝の地であり、とくに「番所の辻」では360°の展望がきき、観光開発が進められている。
向島 肥前町の北西約23kmにある標高67mの島。玄武岩からなる。文禄年間(1592~96)、豊臣秀吉に滅ぼされた松浦の豪族・波多三河守の縁者が住みついたのが始まりといわれる。秀吉が朝鮮出兵の時、肥前名護屋城から眺め、沖に見える「向こうの島」と呼んだのが島の由来と伝えられている。気候は温暖だが台風の影響を受けやすい。集落は南東部の漁港周辺のみで、人口の変動が少ない。産業は漁業がほとんどで、一本釣りと採貝が主である。近海は玄界灘の好漁場となっている。近年、キャンプ場、遊歩道、公園など観光開発も進み、生活環境や漁港も整備中だ。
馬渡島 本土から北西8kmの沖合にある、玄海諸島の中で最大の島。対馬暖流の影響で比較的温暖、無霜地帯でもある。島名は、平安時代に近江国馬渡庄を納めていた源義俊が白河天皇に謀反を起こしてこの島へ流された事件に由来するとも、中国から馬が最初に渡って来たからだとも伝えられている。文永の役(1274)、弘安の役(1281)には元軍が来襲した歴史を持つ。江戸時代には唐津藩の牧場が置かれた。
寛政年間(1789~1801)にキリシタン弾圧によって黒崎村(長崎県外海町)から7人のキリスト教信者が入植、今でも住民の半数はカトリック教徒である。集落は、仏教徒の宮の本地区(本村)とカトリック信徒の二夕松・野中地区(新村)からなっている。産業は、馬渡島漁港を拠点に一本釣り、はえ縄漁が営まれ、新村地区を中心に甘藷、ツワと水耕が栽培されている。玄海国定公園の一角を占める景勝の地であり、とくに「番所の辻」では360°の展望がきき、観光開発が進められている。
向島 肥前町の北西約23kmにある標高67mの島。玄武岩からなる。文禄年間(1592~96)、豊臣秀吉に滅ぼされた松浦の豪族・波多三河守の縁者が住みついたのが始まりといわれる。秀吉が朝鮮出兵の時、肥前名護屋城から眺め、沖に見える「向こうの島」と呼んだのが島の由来と伝えられている。気候は温暖だが台風の影響を受けやすい。集落は南東部の漁港周辺のみで、人口の変動が変動が少ない。産業は漁業がほとんどで、一本釣りと採貝が主である。近海は玄界灘の好漁場となっている。
近年、キャンプ場、遊歩道、公園など観光開発も進み、生活環境や漁港も整備中だ。
島山島 満越地区の国民宿舎「いろは島」の西約50mにある架橋島。面積0.05km2・周囲1.3km・標高36m。
玄海国定公園に含まれる。島内は「花と冒険の島」という公園になっており、別名ピーターパンの島ともいう。「妖精の橋」を渡ると、くつろぎの広場・ウェンディの家・海賊の丘・チクタクワニの崖・妖精の迷路・インディアンの岬・ピーターパンのかくれがといったアスレチック施設が整備されている。入場無料。開園は9:00~17:00。海水浴場もあり、シーカヤック大会などが行われている。
三島 仮屋地区の沖合約30mの仮屋湾内にある島。面積0.04km2。玄海国定公園に含まれる。昭和52年、本土と架橋された。島内には玄海温泉福祉センターや三島公園、三島神社があり、遊歩道、アスレチック、展望台などが整備されている。毎年10月末ごろ行われる三島神社秋の例大祭は500年以上の歴史があり、漁船に乗せた神輿が仮屋湾内を巡航、多くの見物客でにぎわう。
次の島は、長崎県の島ですが、オプションで乗った船で案内してもらいました。
福島 長崎県の東北部、佐賀県伊万里湾の奥部に位置し、玄海国定公園区域内に浮かぶ「つばきの島」。島名の由来は、水が豊富で土地が肥え、海産物も豊かなことから名付けられたといわれている。中世には、北西に位置する鷹島と同じく、元寇の戦場となったと考えられている。明治の中ごろから炭鉱の開発が進み、特に昭和に入ると島内各所で中小規模の炭鉱が次々に開鉱、昭和28年には人口13,000人を数えたが、その後、徐々に減少し、昭和47年には炭鉱の灯も消えた。昭和42年に長さ225mの福島大橋が完成し、県境を越えて佐賀県伊万里市と結ばれた。昭和58年、南西端の炭鉱跡地に西日本最大級のLPG(液化石油ガス)基地が進出、操業を続けている。島の北部には約5万本のヤブツバキが群生しており、愛好家によるツバキ展も毎年開催されている。また、夏場は海水浴・キャンプなどマリンスポーツが楽しめ、ペンションのならぶ休養地でもある。
出典:(財)日本離島センター発行の「日本の島ガイド SHIMADAS シマダス」から
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