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昭JIJI(アキラジジ)の島旅賛歌*参加

日本全国に有人島が434島ほどある。全島制覇すべく島旅を継続中。

これで佐賀県の離島を制覇! 玄界灘に浮かぶ8つの島々へ 52回目

2009-08-08 04:30:00 | 62九州北部・佐賀県・玄海諸島
椿が茂った道になってきました。説明書では、それを越すと北端へ着くと書かれていましたので、一踏ん張りしました。


(椿が茂った道)

その先は開けて北端へ到着しました。カリオ岬でした。加唐灯台がありました。普段の見ている灯台とは少し形が違っていました。




(加唐灯台)

そこには、佐賀県の最北端との表示がありました。


(佐賀県の最北端との表示)

その岬の下を見下ろすと、「エヌヲの鼻」とよばれる突端が見られました。


(エヌヲの鼻)

その先に島影が見えましたが、壱岐でした。壱岐がこんなに近い島だとは思っていませんでした。

(壱岐)
(2009.03写真撮影)

これで佐賀県の離島を制覇! 玄界灘に浮かぶ8つの島々へ 51回目

2009-08-07 04:30:00 | 62九州北部・佐賀県・玄海諸島
ただ、舗装された道をどんどん進むだけでした。しかし、先ほど、渡島した松島が見えました。また、その先では、明日、出かける馬渡島が見えてきました。


(松島)


(馬渡島)

ただただ歩くだけでした。日差しも強くどうするかも考えましたが、ここまで来たのだからと桜や白い桃の花を見ながら、どんどん歩きました。


(桜)


(白い桃の花)

しばらくするとツワブキの畑がありました。きれいに手入れされて植えられていたので、商売にしているようでした。




(ツワブキの畑)
(2009.03写真撮影)

これで佐賀県の離島を制覇! 玄界灘に浮かぶ8つの島々へ 50回目

2009-08-06 04:30:00 | 62九州北部・佐賀県・玄海諸島
金毘羅さんや鳥居や祠がありました。


(金毘羅さん)


(鳥居)


(祠)

桜をみなから、散策を続けると弘法大師像がありました。


(桜)


(弘法大師像)

そのまま散策を続け、北へ向かいました。


(散策)
(2009.03写真撮影)

これで佐賀県の離島を制覇! 玄界灘に浮かぶ8つの島々へ 49回目

2009-08-05 04:30:00 | 62九州北部・佐賀県・玄海諸島
上から加唐島漁港を見ることができました。


(上から加唐島漁港)

その近くに、お墓があり、石碑もありました。


(お墓)


(石碑)

また、その周りにも不動明王像や石仏がありました。


(不動明王像)


(石仏)

お堂もあり、色々な宗教的なものが集まっているようでした。




(お堂)
(2009.03写真撮影)

これで佐賀県の離島を制覇! 玄界灘に浮かぶ8つの島々へ 48回目

2009-08-04 04:30:00 | 62九州北部・佐賀県・玄海諸島
散策を続けるとここでもネコがノンビリと過ごしていました。


(ノンビリとしているネコ)

また、お地蔵さんや祠がたくさん祀られていました。


(お地蔵さん)




(祠)

登っていくと海が見え、九州本土も眺められました。


(海と九州本土)

民家の玄関に面白いものが置かれていました。それは、貝殻が付着した蛸壷でした。


(貝殻が付着した蛸壷)
(2009.03写真撮影)

これで佐賀県の離島を制覇! 玄界灘に浮かぶ8つの島々へ 47回目

2009-08-03 04:30:00 | 62九州北部・佐賀県・玄海諸島
学校に近づいてくると壁面に色々なことが書かれていました。最初は、椿と校歌です。


(椿と校歌)

次には、「つばき」を取ったスローガンで、「つよいからだ ばりば勉強 きちんと挨拶」と書かれていました。


(「つばき」を取ったスローガン)

さかなと椿の絵がきれいに可愛く描かれていました。


(さかなと椿の絵)

学校の正門近くでは、桜が咲いていました。ギリギリ始業式には間に合うかもしれませんです。


(学校の正門近くの桜)

ここの学校も加唐小中学校になっていました。


(加唐小中学校)

島内散策を続けました。


(島内散策)
(2009.03写真撮影)

これで佐賀県の離島を制覇! 玄界灘に浮かぶ8つの島々へ 46回目

2009-08-02 04:30:00 | 62九州北部・佐賀県・玄海諸島
散策を始めると立派な建物がありました。JFの建物でした。


(JFの建物)

その傍に、石仏が祀られていました。船の安全を祈るためでしょうか。


(石仏)

その先には、JFの銀行と簡易郵便局が同じ建物の中にありました。簡易郵便局では、郵便のみの取り扱いと書かれていました。


(JFの銀行と簡易郵便局)


(取り扱い業務)

この島には、一匹もイヌがいないとのことで、ネコの天下で、ノンビリとしていました。




(ノンビリとしているネコ)
(2009.03写真撮影)

これで佐賀県の離島を制覇! 玄界灘に浮かぶ8つの島々へ 45回目

2009-08-01 04:30:00 | 62九州北部・佐賀県・玄海諸島
加唐島へ上陸しました。チャーター船はここまでで終わりでした。あっという間でした。


(加唐島へ上陸)


(チャーター船)

上陸して直ぐのところに「百済第25代王 武寧王生誕伝承の地」と日本語とハングルで書かれた看板がありました。






(「百済第25代王 武寧王生誕伝承の地」と書かれた看板)

詳細をインターネットなどで調べてみましたので、少し長文ですが、書いておきます。

「・・・百済の蓋鹵王の王弟昆支が日本に遣わされたとき、筑紫(九州)の各羅島で妃が子を産んだ。その子は嶋君と名付けられた。・・・百済人は、この嶋を主嶋と呼んでいる。・・・」と、日本書紀(雄略天皇5年(西暦461年)の条)に記録されている。各羅島は加唐島、嶋君は後の武寧王。武寧王はオビヤ浦で生まれ、産湯を使ったとする伝承が加唐島に残っている。ところが、韓国の三国史記などの歴史書に武寧王が嶋君(斯麻王)と称したことや日本で生まれたとする記録がないなど、韓国の人々には書紀の記録は受け入れ難いものだった。しかし、三十数年前(1971年)、韓国の広州市武寧王陵から墓誌石が発見され、解明が進むうちに状況は一変した。墓誌の記述から日本書紀の記述の正確性が裏付けられ、加えて王棺は韓国に産しない高野槙で造られたものだった。加唐島は、百済、対馬、壱岐、筑紫(九州)の最短コース。古代における日韓の親密な交流や海上交通ルート、雄略紀の実年代等々も武寧王陵の墓誌石や木棺から明確になってきた。武寧王は、阿直岐(あちき)や王仁(わに)博士を日本に派遣して千字文や論語を伝えるなど日韓史に大きな足跡を残した大王だった。(伝王仁博士墓が大阪府枚方市に所在する。同市には継体天皇の伝樟葉宮や7世紀に唐・新羅の連合軍に敗退し、日本に亡命した百済王氏を遠祖とする陸奥守百済王敬福の氏寺百済寺の遺址がある。) 平成14年1月には、日韓の学識経験者が参加し、「百済武寧王生誕海峡地国際シンポジウム」が地元鎮西町で開催された。平成16年6月には、「武寧王1500年ぶり 父(昆支)と巡り会うin加唐島」が開催されるなど、加唐島を架橋とした日韓の交流が進展している。

その先には、「つばきとロマンの島 加唐島」と書かれた案内板がありました。


(案内板)
(2009.03写真撮影)

これで佐賀県の離島を制覇! 玄界灘に浮かぶ8つの島々へ 44回目

2009-07-31 04:30:00 | 62九州北部・佐賀県・玄海諸島
漁港には、老夫婦が荷物を船に積み込んでいました。仲間はその手伝いをしていました。積み込むと船は出港していきました。


(積み込みを手伝う仲間)


(積み込みも終わり出港して行った老夫婦)

チャーター船が入港して来ました。これで、加唐島へ渡ります。


(チャーター船)

乗船すると直ぐにチャーター船は出港しました。


(チャーター船へ乗船)


(松島を出港)


(チャーター船内)

加唐島は直ぐ見えてきました。


(加唐島)
(2009.03写真撮影)

これで佐賀県の離島を制覇! 玄界灘に浮かぶ8つの島々へ 43回目

2009-07-30 04:30:00 | 62九州北部・佐賀県・玄海諸島
皆さんが作業されている場所の隣には、新しい住宅がありました。教職員用の住宅のように思われました。


(新しい住宅)

港へ下っていく途中に郵便ポストがありました。集配時間は書かれていませんでした。


(郵便ポスト)

港へ戻って、松島カトリック教会を見に行きました。島民のすべてがカトリック信者だそうです。








(松島カトリック教会)

教会の運営も当番性で行われていて、「お茶とまかない」の当番表が貼られていました。


(「お茶とまかない」の当番表)
(2009.03写真撮影)