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昭JIJI(アキラジジ)の島旅賛歌*参加

日本全国に有人島が434島ほどある。全島制覇すべく島旅を継続中。

長崎県南部へ島旅 72回目

2015-06-10 04:30:00 | 66九州西部・長崎県・平戸諸島
対馬小太郎の墓から少し行くと「刀の元の六地蔵」がありました。ここは、弘安の役で、元軍の捕虜を斬首した場所と伝えられ、六地蔵とともに五輪塔が祀られています。この六地蔵には赤土が塗られていて、子どもが病気になると平癒祈願に赤土を塗るというこの地に伝わる風習によるもので、今も一部の人たちによって受け継がれているようです。




(刀の元の六地蔵)

時間となり、戻りました。本島側から鷹島大橋を眺めました。


(本島側から鷹島大橋)

予定通りの時間で長崎空港に到着しました。


(長崎空港)

ランタン祭りの飾りが見られました。


(ランタン祭りの飾り)

20:10発の飛行機で東京へ戻りました。


(長崎空港)
(写真撮影:2015.02)

今回も長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。明日からは、「長崎県北部への島旅」を投稿いたします。お楽しみに。

長崎県南部へ島旅 71回目

2015-06-09 04:30:00 | 66九州西部・長崎県・平戸諸島
もう1か所を散策するため、ナビにセットして向かいました。途中、消防団の車庫がありました。


(消防団の車庫)

道路脇に、駐在所もありました。


(駐在所)

その先には、消防署もありました。


(消防署)

先へ進むと学校が見えてきました。小学校です。


(小学校)

対馬小太郎の墓に着きました。調べると「小太郎は、対馬の守護代、宗助国の家臣で、文永の役のおり、対馬にまず攻め入った元軍1千人に対し宗助国は68歳の身ながら80余騎を率い奮闘したものの全員討死となりました。元軍は1週間にわたり虐殺、放火、掠奪、暴行などにおよび対馬島内を荒らしまわりました。宗助国は、死の間際に小太郎と兵衛次郎に大宰府へ蒙古襲来の報を知らせよと命じます。2人は玄海の荒波を越え博多に上陸し、その使命を果たしました。2度目の襲来となった弘安の役で、元軍の鷹島上陸の報を受けた小太郎と兵衛次郎ははすぐさま鷹島へ駆けつけ、少弐景資の配下で元軍と戦いましたが、小太郎は重傷を負い自刃します。遺言に「我が屍を埋るに対馬を望むべき丘陵に於いてせよ」と言い残したため、対馬を望むことのできるこの丘に墓を建てたと伝えられています。」ありました。




(対馬小太郎の墓)
(写真撮影:2015.02)

長崎県南部へ島旅 70回目

2015-06-08 04:30:00 | 66九州西部・長崎県・平戸諸島
戻ることにして、今宮神社を後にして、道路に出てきたところに郵便局がありました。プレハブ造りのようですね。三里簡易郵便局です。


(三里簡易郵便局)

原の銅造如来座像へ向かいましたが、あったはずの案内板が見つからず、通り越してしまいました。戻って探して、左折していきました。案内板は、道路の左側だけにしかなかったようです。細い道を入っていき、銅造如来座像に着きました。


(原の銅造如来座像)

堂内です。


(堂内)

後で調べると「江戸時代末期、船唐津の漁師が夢に「原の海岸にアオギタ(魚の群れで海の色が変わること)が生じる」さまを見て、翌朝網をおろしたところこの仏像がかかったといわれています。この仏像はその後盗難に遭いますが、仏像が「原の釈迦は原に帰る」と叫んだため、盗人は恐れて仏像の頭や額に埋め込んであった水晶などを抜き取って逃げたという言い伝えもあります。現在は、原免字沖ノ前の市杵島神社内のお堂に祀られています。元軍船に安置されていた高麗仏と考えられますが、対馬や壱岐に見られる高麗時代の仏像とは作風が少し異なり、日本にもたらされている銅造仏像のなかでも優品に数えられています。」とありました。


(原の銅造如来座像)

その奥に神社がありました。市杵島神社です。


(市杵島神社)

いつものように、拝殿内です。


(拝殿内)
(写真撮影:2015.02)

長崎県南部へ島旅 69回目

2015-06-07 04:30:00 | 66九州西部・長崎県・平戸諸島
今宮神社の拝殿をいつものようにのぞいてみました。


(今宮神社の拝殿)

幣殿、奥殿もありました。


(幣殿、奥殿)

前回、「境内には樹齢450年といわれる大銀杏があり、昭和32年に長崎県指定天然記念物になっています。枝からは乳柱が垂れ下がっていて昔からその皮を煎じて飲むと乳が出ると言い伝えられています。」と書きましたが、その大銀杏のようです。



(大銀杏)

その下に色々な石碑がありました。年代を感じますね。


(色々な石碑)

境内には、いくつかの境内社がありました。




(境内社)
(写真撮影:2015.02)

長崎県南部へ島旅 68回目

2015-06-06 04:30:00 | 66九州西部・長崎県・平戸諸島
殿ノ浦から島内散策に向かおうとしましたが、「元寇ロマンの里」と刻まれた石柱がありました。各所に、元寇の遺跡があるようです。


(「元寇ロマンの里」と刻まれた石柱)

向かって着いたのは、今宮神社です。調べると「元寇で鷹島を守るために活躍した第14代松浦答の墓や五輪塔、宝筐印塔が無数にあります。境内には樹齢450年といわれる大銀杏があり、昭和32年に長崎県指定天然記念物になっています。枝からは乳柱が垂れ下がっていて昔からその皮を煎じて飲むと乳が出ると言い伝えられています。また、この今宮神社には満福寺という寺があったのですが明治になって寺は廃止されました。このお寺は第8代松浦久が三里の平坦な地形を見て耕作する土地に最も適していると、一族発展の根拠地としてここに広久山満福寺を建てたと言われています。」とありました。


(今宮神社)

神社前の広場でゲートボールをされている方々がおられ、少し話を聞きました。


(今宮神社)

その後に「満福寺の木造阿弥陀如来坐像」と書かれた案内板があり、小さなお堂がありました。


(小さなお堂の内部)

これが、木造阿弥陀如来坐像です。案内板には、「阿弥陀如来が定印を結んで瞑想する様子をあらわす。頬がつよく張り、頭と体の比例がととのって充実した肉体は、円満具足と呼ばれた平安時代後期(11~12世紀)の典型的な仏の姿である。左肩から胸にかけてみられるように、衣のひだは薄く柔らかく彫りあらわされていて、穏やかで上品なこの時代の貴族趣味を反映している。大変にすぐれた出来映えであり、京都など畿内で製作されたと想像される。県内でも数少ない平安仏であり、畿内の優れた文化が松浦地方につたえられた具体的な様相をみせる貴重な仏像である。」と書かれていました。


(木造阿弥陀如来坐像)

今宮神社をお参りしました。


(今宮神社)
(写真撮影:2015.02)

長崎県南部へ島旅 67回目

2015-06-05 04:30:00 | 66九州西部・長崎県・平戸諸島
仲間と別れてから、どうするかを考えました。帰りの飛行機には、6時間もあり、次回の予定にしている鷹島へ下見を兼ねていくことにしました。佐世保を出発しました。


(佐世保を出発)

鷹島大橋に着きました。道中は、運転手のため、写真がありません。


(鷹島大橋)

鷹島大橋を渡り、鷹島に渡島しました。


(鷹島)

飛島へ向かうフェリー乗り場がある殿ノ浦へ向かい、フェリーターミナルに到着しました。


(殿ノ浦フェリーターミナル)

フェリーターミナルを確認することができました。次回の時には、長崎空港から直にここに来るので、時間、ルートの確認をすることができました。


(飛島へのフェリー)

鷹島の名所も案内板で確認しました。


(鷹島の名所も案内板)
(写真撮影:2015.02)

長崎県南部へ島旅 66回目

2015-06-04 04:30:00 | 66九州西部・長崎県・平戸諸島
フェリーは黒島を離れていきました。


(さようなら黒島)

高島に近づきました。


(高島に)

高島に入港しました。


(高島に入港)

高島を離れていきました。


(さようなら高島)

相浦に戻ってきました。


(相浦)

仲間を佐世保まで送り、昼食を一緒に食べ、別れました。


(一緒に昼食を)
(写真撮影:2015.02)

長崎県南部へ島旅 65回目

2015-06-03 04:30:00 | 66九州西部・長崎県・平戸諸島
この地区にもお店がありました。


(この地区にもお店)

興善寺です。


(興善寺)

この興善寺があるの人たちはほとんどが仏教徒なのだとか。仏教徒は隠れる必要がなかったので、港の側に家が密集していたのだそうです。港が見えました。


(港が)

時間になり、港まで送っていただきました。お礼を言ってお別れしました。帰りの切符を購入しました。


(港)

フェリーが入港しました。早速、乗船しました。


(フェリーが入港)

検診車も積み込まれてきました。


(検診車も)
(写真撮影:2015.02)

長崎県南部へ島旅 64回目

2015-06-02 04:30:00 | 66九州西部・長崎県・平戸諸島
島民の8割がカトリック信者。カトリック墓地には、日本ではあまり見られない風景が並んでいます。


(カトリック墓地)

マルマン神父の墓です。最初に下五島の担当として赴任したマルマン神父は、貧困の犠牲となる子どもの養育事業などに奮闘し、伊王島、奄美大島、琉球を経て、1897(明治30)年、黒島に赴任した。初代の堂崎教会堂など各地の教会堂をつくった。一時フランスへ帰国するが終生黒島ですごし、1912(大正1)年に亡くなられたようです。


(マルマン神父の墓)

古い墓があちこちに点在していました。


(古い墓)

年号が1899年と刻まれた墓石です。


(年号が1899年と刻まれた墓石)

案内していただいた方のご家族の墓です。


(案内していただいた方のご家族の墓)

次は、島に唯一のお寺である曹洞宗興善寺へ向かいました。


(島に唯一のお寺である曹洞宗興善寺へ)
(写真撮影:2015.02)

長崎県南部へ島旅 63回目

2015-06-01 04:30:00 | 66九州西部・長崎県・平戸諸島
あこうの木は、「絞殺しの木」と書きましたが、実際にトタンを巻き込んでいました。


(トタンを巻き込んで)

ちかくにある「根谷のサザンカ」に行きました。この木は、根回り4m、幹回りり18m、樹高約10mの黒島が誇る堂々たる巨木で、350年~400年の樹齢と見込まれ、温暖な黒島の気候を象徴する木でもあり、潜伏キリシタン達は、このサザンカの種を集めて油を採り、食用油として利用したり、条件の悪い土地に住まざるを得なかった潜伏キリシタンの生活の一部を支えた、島の歴史を物語る木です。



(根谷のサザンカ)

今度は、カトリック墓地へ案内するといわれました。そこには行ったといいましたが、マルマン神父の墓を見たのかといわれ、見ていないと答えたら、連れて行くといわれました。この方は、カトリック教徒のようで、毎朝の黒島天主堂の早朝ミサには、出られているようでした。


(カトリック墓地へ)

黒島天主堂が高台に見えてきました。


(黒島天主堂が)

カトリック墓地に着きました。


(カトリック墓地)
(写真撮影:2015.02)