今回は、長崎県北部への島旅に出かけました。いつものように今回の島々の概略を書いておきます。
(鷹島) 長崎県の東北部に位置し、東は幅2Kmの日比水道をはさんで佐賀県東松浦半島と向かい合い、南は航路8Kmを隔てて長崎県松浦市と相対している。さらに西に平戸諸島、北は壱岐島や対馬が望め、海岸線は美しいリアス式で入江に富み、風光明媚な島である。また、文永11年(1274)の文永の役、弘安4年(1281)の弘安の役と2度にわたる元寇で、14万人の元軍を殲滅した地として国史に残る島でもある。現在はこの史実をもとにモンゴル・ホジルト市との国際交流(姉妹都市締結)も始まり、平成5年にはモンゴル大草原での遊牧民の世界が体験できる「モンゴル村」が開村、、同12年には温泉センターもオープンし、躍動感あふれる島である。佐賀県肥前町とをつなぐ鷹島肥前大橋(仮称)は平成19年の完成を目指して工事が進められている。
黒島(鷹島町) 鷹島の西海上約4Kmに位置している。中央部の最高標高が73m、島全体が台地で、高さ40~60mの切り立った海岸線が続く。古くは「石島」と呼ばれ、墓石材の産地として知られていた。島の西方に平戸諸島、北東に壱岐島や対馬が望め、美しい海岸線と好漁場があり、風光明媚な島である。
飛島 松浦市今福港の北方約5Kmに位置する島。第三紀層上に火山岩が覆う地質である。元寇襲来で戦場になったと伝えられている。島の若宮神社は享保元年(1716)の創建といわれている。寛政年間(1789~1801)頃より石炭の採掘が始まり、昭和14年には島の東部で本格的に炭鉱が開発された。本土から眺めると、炭鉱時代の面影を残すボタ山がいまなお静かにそびえ立っているのがわかる。戦後の石炭産業最盛期には年間10万tを出炭、昭和35年には人口2,023人を数えたが、同44年に閉山し、現在は80人をわずかに上回る程度にまで激減している。まき網や一本釣りなど漁業を主体とする島である。
青島 御厨港から海上約5Kmの玄界灘に浮かぶ島。第三紀層の底部に海面上はローム化した土壌が覆い、北部と南西部に溶岩の噴出がみられる。古くは「南島」といわれた。その昔元寇襲来で戦場となった歴史がある。子安観音像は、昭和3年ごろ志佐鳳州師の手によって建立されたもので、安産と家庭円満に霊験あらたかといわれ、参拝者も多い島の名所である。玄海の潮風を胸にうけ、夏はキャンプに最適で、付近に宝の浜海水浴場もある。島の周囲いたるところ魚の宝庫で、夏を楽しむ行楽客や釣人でにぎわう。
大島(大島村) 平戸市の北約10Kmの玄関灘に浮かぶ島。「的山(あづち)大島」といわれている。農業、漁業が中心。「肥前風土記」には「大家島」と記され、古くから海上交通の要衝として知られていた。遣唐使船も寄港している。弘安4年(1281)の弘安の役で戦場となり、犠牲者を葬ったといわれる千人塚が残る。的山湾は倭寇の中継地としての役割を果たし、海賊ケ浦という地名も残っている。大島の領主・大島氏は貞応3年(1224)から寛永6年(1629)までの405年間、この島を統治していた。戦前には壱岐要塞の一部となり、旧陸軍の砲台が昭和4年に竣工している。現在、島では米を生産し、斜面を利用した棚田も見られる。明治22年に的山村と大島が合併し、平成元年に村制100周年を迎えた。「的山」は、流鏑馬で「阿っち」(盛土)に矢を立てて年始の祈をしたことに由来する。島の自慢は自然と海と空、それに人情味あふれる島のひとびと。満天の星の下で漁火を見ながら恋を語るもよし、酒を酌み交わすもまたいい。
度島(たくしま) 平戸島最北端から最短距離2.3Kmに横たわる島。江戸時代には「多久島」と称した。荒崎から観音崎にいたる北西海岸は、標高40~60mの海食崖が発達している。平戸島に臨む南側に3集落がある。小高い丘が起伏し、平坦地に乏しい。周辺を海に囲まれ、海洋性の温暖な気候である。旧石器・弥生時代の遺跡が出土、古墳もある。天文23年(1554)にキリスト教の布教がなされ、信者500人ともいわれるキリシタンの島になったが、慶長2年(1597)には平戸藩主の命で改宗を強いられた。今ではキリスト教徒はいない。農・漁業が主で、就業人口の47%を占めている。昔から伝わる盆行事「盆ごうれい」は、大名行列形式で島内の神社・仏寺を回って奉納する島を挙げての行事。県の文化財に指定されている。
高島(平戸市) 平戸島南西端・宮ノ浦地区の0.3Km沖合、美しい「九十九島」の1島。小高い岩山の小島であり、平戸島を望む東側に集落があり、小中学校の分校に中学生2名が在籍している。温暖な海洋性気候で、住民のほとんどが水産業を営んでいる。以前、タヌキの餌付けをしていたことがあり、タヌキの島とも呼ばれている。太平洋戦争当時は軍の要塞となり、今も砲台跡が残る。平成14年、定期航路のない小離島の将来を憂慮する住民から全戸集団移転の要望もなされたが、15年4月から宮ノ浦との間に定期船が就航するようになった。
(福島) 長崎県の東北部、佐賀県伊万里湾の奥部に位置し、玄海国定公園区域内に浮かぶ「つばきの島」。島名の由来は、水が豊富で土地が肥え、海産物も豊かなことから名付けられたといわれている。中世には、北西に位置する鷹島と同じく、元寇の戦場になったと考えられている。明治の中ごろから炭鉱の開発が進み、特に昭和に入ると島内各所で中小規模の炭鉱が次々と開坑、、昭和28年には人口13,000人を数えたが、その後徐々に減少し、昭和47年には炭坑の火も消えた。昭和42年に長さ225mの福島大橋が完成し、県境を越えて佐賀県伊万里市と結ばれた。昭和58年、南西端の炭鉱跡地に西日本最大級のLPG(液化石油ガス)基地が進出、操業を続けている。島の北部には約5万本のヤブツバキが群生しており、愛好家によるツバキ展も毎年開催されている。また、夏場は海水浴・キャンプなどマリンスポーツが楽しめ、ペンションのならぶ休養地でもある。
( )は、渡島済みの島
出典:(財)日本離島センター発行の「
日本の島ガイド SHIMADAS シマダス」から
今回行った島の人口を記載しておきます。
鷹島は2,203人、黒島(鷹島町)は70人、飛島は56人、青島は263人、大島(大島村)は1,269人、度島は828人、高島(平戸市)は26人、福島は2,916人
出典:(財)日本離島センター発行の「島々の日本」から (平成22年国勢調査(確定値)など)