朱の徒然

変形性股関節症の76歳

雨の日は雨を愛そう

2014年06月29日 | 日記
 朝、4時40分に目が覚めました。ン、曇りだねと思って起きました。
 でも外に出ると、小雨。思いきって術後初めて傘さしての散歩に出ました。
 用心して、いつもの遊歩道には下りず、無人の歩道の真ん中を歩きました。
 いける、いけると確信しながら、歩みを進め いつもの道を往復しました。

 午後、美容院に行きました。術後5回目。月に2回のシャンプー・カットとシャンプー・ヘアーマニキュアは欠かせません。少しおしゃべりしながら、お任せする髪いじられの心地よさ。
術後の1,2回はシャンプー椅子からカット椅子への移動が難儀で,
あちらこちらにつかまりだったのと比べてスムーズ。 ホッとしました。
今までは支払時も、急いで杖を取りに行ってからハンドバックの財布をヨロヨロしながら開けていましたから・・。全てがスムーズ。
 雨は降っていましたが、美容院の後の楽しみは
 馴染みの喫茶店のケーキセット。そこで「週刊現代」を読み、2時間余も粘ります。
 ここのりんごケーキは絶品でお客も少なくって のんびりします。
 活字、週刊誌大好きおばさんは、これで、本当に 心も 頭も すっきり!
 そして、電車に乗って、まだ続く雨の中、傘さして帰りました。疲れましたが、歩けたことに自信を持って・。もう大丈夫っと!

 ところが、夜、台所でいつものように横歩きしたら、アレッ痛いかな。で、早めに寝ました。

 翌朝、5時、空は曇り。杖をついて、いつもの散歩。あれ、左のくるぶしが痛い。家に帰ってみると少し腫れている。

 何故?自分では分からなかったけど、左の足に負担をかけすぎたのでしょうか?
                  右の足の股関節もなんだかな・違和感。
 何の前触れもなく、痛み出す足。
    腫れている左のくるぶしと右の不気味な異和感の ふともも。


 でもでも、手術前のあの、時折襲ってきたナイフで刺されまくるような地獄の痛みでは、ない。
 傘さして、バックを肩にかけての自力歩行、雨の日の歩きは早すぎたみたい。
 やれ、やれ、左足  痛いっす。まだ、杖、杖がいる。

  雨の日は雨を愛そうはまだ無理ですって、堀口大学さん!

    ○自らに
  雨の日は      雨を愛そう
  風の日は      風を好もう
  晴れた日は     散歩をしよう
    貧しくば心に富もう



      (娘の17歳の誕生日にやってきたティラちゃん17歳.
    すもものジュースを作ったので どーぞ!彼女も1月から杖つきです。
    私の2番目の友達。 1番目は、けんかもする夫。
       ティラちゃんは黙っていつも見ています。
     お洋服は亡くなったお姑様の手作りです)






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定命とメダカ

2014年06月28日 | 日記

 十代のころから、ひとりぼっちでの楽しみに映画があります。
今、本当に観たい映画は洋画で「グランド・ブタペスト・ホテル」や「ブルージャスミン」といったおしゃれで夢見れる作品です。でも、これらの映画館は電車に乗って30分、それから私の今の歩みなら徒歩30分。口惜しいけれど映画館に着くまでに疲れて電池切れ。それを考えたら無理。観たい映画がまだ見れない!
 で、近くのイオンの映画館にしました。
「私のハワイの歩き方」にしようか、劇団ひとりの「青天の霹靂」にしようか迷って、笑いたいので「青天の霹靂」にしました。
結論は駄作。笑いもなし。

それに今のこの足では映画館の椅子に2時間座るのは、早すぎました。私とシルバーカップルだけでしたので、かなり自由に意識して足は動かしましたが、股関節付近の痛みが起こり、帰りは不自然に歩きました。でも、まあこれも一晩寝ると治りました。

 「青天の霹靂」は出産と引き換えに母親が死ぬと云う話でしたので少し考えました。
私のように命に別条のない病で傷つくのは僭越ではないか?もっと辛い病の方に申し訳ない。それなのに、少しの体の痛みを心の苦痛に変えようとしている自分がいる。まあ、こんな風に、少しでも他者を思えるようになったということが、元気になったということでしょうか?

 昔、母が「人間は生まれる前から、死ぬ時は決まってるらしいものね」と囁いた時「そんな恐ろしいことを」と思いましたが、それは仏教では「定命」だとか。母は無信仰でしたが誰に聞いたのでしょうか・・。故夏目雅子の夫だった伊集院静が「人間はたとえ事故や病気で死んだとしても実は寿命でこの世を去る。どうやって生きて、この世を去るのかも寿命が決める」と週刊誌に書いていました。愛する人を失った人だけが出しえる納得でしょうか?

 今、生まれたてのメダカ達を見ていて思います。
 卵で親に食べられてしまうもの、運よく孵化しても、何かの加減でパーッと大量死する事もあります。父がよく話していた芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を意識しながら、メダカの神の手となった私は、彼方此方に異動させます。それでも何故?こんなことがと思うことも起こります。
嘆く私に夫は云います。自然の摂理だと!   ああ!

(メダカは何年もの間、代々と命は受け継がれて私の心を癒してくれています。
 40年物のロッキングチェアの上にも
 リビングのテーブルの上にも
 台所でも  子どものメダカが泳ぎ、初夏を告げています)


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共依存

2014年06月25日 | 日記

身体が今までのようには動かない弱者になってみて、一番心に引っかかったのは
夫との間の「共依存」です。


世間によく聞く話では、母と子。
私がいなければと子供をスポイルし、結局は母親自身が自分個人の喜びを見出すことのできない人間で、逆に子の存在に頼っていて、子の自立心を阻んでいると社会問題に。

子離れ、親離れが出来ずに相互依存に陥るのは身近によく聞く話で、母娘が仲が良い話とは似て非なる関係だと思います。

私が歩けなくなることで一番気にしたのは、このことでした。

家族介護は、無償で密室での関係なので、ともすれば心が支配や被支配の構造に陥りがちです。
入院した時から、なるべく依存しないようにと思いながら、おそらく相当甘えていたと思います。白状します!100パーセント頼っていました。

でも、手術から二十日間ほどして、身体の自由がきくようになると、一日おきの見舞いに替わり互いの心に余裕が生まれたと思います。良かったわあ。

今、二人で一緒に静かに時が過ぎるようになったことを、嬉しく思います。
自宅内では食事の時以外は、殆ど別行動です。どちらかが抜ける時はエチケットとして「○○に行くね」と云います。
もうそろそろ、もっと私一人の外出を増やして夫を自由にしてあげなければとも思っています。夫も友人とゴルフや会食に出掛けたり、今年は町内の回り持ち役員になりましたので外出する事もあり、良いことと思っています。でも、おそらくもっとやりたいこともあったのではないかと、申し訳なく思っています。

術後3か月が過ぎて、横向きに座布団を股に挟んで寝ていますが、やはり傷口辺りがひきつれたような感じがあります。

でも、最近では不安になるような突発的な痛みはなくなりました。
痛みが少し治まってくると、脚以外のところの少しの異常?が気になります。

 右目の上から瞼辺りまでの違和感、シミが気になっていましたので、皮膚科に
出かけてみました。
 
 洗顔時に赤くなるので、頬や鼻の近くにある老人シミとは違う。
もしかしたら身体に異物が入ったことによるアレルギーでは?と思ったのです。
でも、やっぱり医者にも分らないとのことでした。
まあ、いいか、1か月前から、わずかにかゆみがあるだけだし・・。


手術して以来、右足以外の不調は、不調の数に入らないと思うようになりました。 
おしりも長く座りつづけると痛い。だから1時間たつと独自体操を直立でします。
上半身の肩の上げ下げ、首回しだけでも、気持ちがいいものですね。
でも、長時間の立ち仕事はまだ苦手なので、キャベツの千切りなどは、リビングの椅子に座って、TVを見ながら気楽にします。つまり、長時間の座りも、立ちも苦手ってことです。かがむことによる疲れには、うんざりです。

 まだまだ、頼らざるを得ない私ですが、なるべく甘えず、常に自重するってことが大事なんでしょうね。

  


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帚木蓬生の読書会

2014年06月21日 | 日記
   勝気で喧嘩っぱやい私と違って、母は穏やかで優しい人でした。
 母は「とぜんなかねー」と時々言っていたことを思い出しました。
 花が好きな母でしたが、なすこともなく退屈な時もあったのでしょうかね。

 (私の故郷では“なすこともなく退屈な”状態を 「とぜんなか」と表現します。 
はっきりしませんが”徒然なか”という漢字が充てられるのでしょうか?)

 私は、結婚後“とぜんない”時を無くすために、岡山、大阪、福岡と転勤した先々で
仲間作りをしてきました。 その一つが読書会です。

 今、私の作った、小さな「帚木蓬生の読書会」は15年目を迎えようとしています。
私が50代の時は50代の方を、60代になってからは60代の方を1年に1回の募集をしてきました。

1か月に1度、平日にランチを食べながら、読後感を語り合います。女性だけの集まりですから、
本の話だけではなく、世間話でも盛り上がって楽しい午後を過ごします。
でも、15年続いてきたのは「親しんで馴れず」というのをモットーにして、過度に互いのことに
触れずにきたからです。
それが理解できない人はアウト!去って!

ところが、私の突然の変形性股関節症で3か月もの休会を強いられました!
初めてのことです。でも、古株達は残ってくれました。
ご心配かけました。お見舞いありがとう!

で、術後初めての例会を天神の「ASO」の個室で、警固公園を眺めながら開きました.


1年に1度冊子も発行してきましたので、今回は夫に手伝ってもらいました。ありがとう!



久しぶりにお会いした皆さんの反応は「全然分らないね。思ったより元気ね」とのこと。
でも、歩きに、まだまだ自信がなく、本来なら御一緒にデパート巡りでもするところですが、
一人帰りました。

つくづくと、元気な時に、この会をつくっていて良かった!身も心も活力に溢れていないと、
見知らぬ方々との縁なんか結べない!と心弱くなった今、思います。

多分、この会がなければ、術後3カ月で、わざわざ街中に出向くことはなかったでしょう。


会を作っていて、良かった!この会は私に生きる力をくれる!

母さん!とぜんなかって言わないように、今は「朱の徒然(このブログのタイトル)」を書いているよ!

(夏の花をいただきました。ありがとう)
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3ヶ月検診

2014年06月18日 | 日記

 3か月ぶりの病院は、懐かしくもあり、もう見たくもないといった複雑な感情でした。
 幸いに、偶然、婦長さんや理学療法士の方、看護助手の方にお会いして、その節のお礼を言うことが出来ました。よかったあ!
 で、いよいよ診察室へ。そこには、医学生らしい方々4人と執刀医の先生が。
 X線を見ながら、「3か月は痛み盛り、半年間はまだ杖をついて、運動が出来るようになるのは2年後でしょうかね」とソフトに話されました。
 主人が「材質はなんだったんでしょうか?」というと、即女性が目の前のパソコンでプリントアウトしてくれました。材質は、「中島メディカル」との共同開発の最新作とお聞きして、まあ、順調ってことで、いいかねっと、一年後の予約をして頭を下げて帰りました。
 いただいた資料は、股関節のX線、経過記録。そしてセメントレス人工股関節置換術 術後半年間の過ごし方 と術後半年後から術後2年の過ごし方の書かれた資料を頂きました。                         おいおい、なんで退院時に渡さんのよ!
 折角の自力歩行は、見て頂けませんでした。残念!

 先日のNHKの医療特集に出演していた川島なおみさんは、「管内胆管がん」の手術をされたそうです。で、「術後執刀医に聞いてもらいたい事があっても、医者は忙しすぎるので、軽い風邪ぐらいでは病院に行かないで」と発言して反発を受け、黙られた寂しいお顔が思い出されました。そうなんですよね。医者にとっては、術後の患者との時間よりも、今医者を必要としている患者の方が優先ですものね。当たり前のことです。病院の待合室には大勢の人が待っています。でも私には、川島さんの術後の不安を医者に聞いて欲しい気持ちもよーく分かります。
 結局人生と一緒で、自分の術後の痛みの有無や強弱や不安感は、自分にしか分りませんものね。か、同病の人にしか・・・。
 私も術後の自分の足の不調を一人で判断しています。先生には、手術をしていただいた事で感謝です。現在の進んだ医療にも感謝です。昔なら寝たきりだったでしょうからね。 何故かあちらこちらに替わる痛みやだるさは、どこかに無駄な負荷がかかっているのだろうなあと、その時は安静にして、時を過ごします。私の場合は、ベットに寝て膝を伸ばして、血栓予防でやっていた足首の曲げ伸ばしを繰り返すと楽になります。こんなことじゃ、へこたれないぞ!ってね。
(写真は、病院のある街で、評判のイタリア料理屋に帰りに寄りました。
 お嫁様のお母様からお見舞いに頂いた、絹のスカーフをさらりと巻いて・・・。
  お母様にも感謝です)

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