朱の徒然

変形性股関節症の76歳

帚木蓬生の読書会 「白蓮れんれん」と伊藤伝右衛門の仕事

2014年07月18日 | 日記

 今回は、NHK朝のドラマ「花子とアン」で話題沸騰の「白蓮れんれん」。
 これは私の個人的な感想ですが
 林真理子の底の浅さに、これで柴田錬三郎賞?と思いましたが、帚木様も、もらってだわね。1年で700通ものラブレターを書いた恥ずべき親の手紙を、20年も前に流行作家に預けた娘の心情が分りませんね。白蓮よりも知りたかったのは、こけにされた伝右衛門。   軽く調べてみました。

 題して ☆男・伊藤伝右衛門の仕事(ダイジェストで)
1860年(文久元年)桜田門外の変の年、福岡県穂波郡大谷村幸袋で生まれる。
 魚の行商、狸堀、農業、呉服商、石炭船の船頭、採炭夫をしていたそうです。16歳の時、西南の役が起こり 官軍の兵士として2年間勤務。

明治21年 父 伝六が、目明し時代の上司 松本潜(炭鉱王安川敬一郎の兄)の援助により伊岐須炭鉱を入手。その手伝いを伝右衛門もすることになりました。

27歳の時、士族の娘と結婚。(この時代でも坑夫と士族の娘との結婚は稀だったらしい)

明治20年代 中野徳次郎(坑夫仲間)と伝六の出資で幸袋工作所(石炭設備メーカー)発足。
明治26年 共同で相田炭鉱を買収。明治30年 伝六と中野で牟田炭鉱を開抗。

明治32年 伝六が60歳で胃がんで死去。(伝右衛門40歳で家督を継ぐ)

明治34年 官営・八幡製鉄所が発足し、伊岐須炭鉱がここに買収され莫大な利益を得る。

明治36年 中野徳次郎の後を継ぐ形で、衆議院議員に当選。(43歳)

明治38年 第17銀行(福岡銀行の前身)の取締役になる。
   反対を押し切り、銀行の担保物件・中鶴炭鉱の採炭に着手。(日露戦争勃発)
明治39年 開抗した中鶴炭鉱の大当たり。(高倉健の父は、ここの労務係だった)

明治41年 政界を引退。  明治42年 泉水炭鉱開抗。  宝珠山炭鉱取得。

明治43年 妻ハル死去。 技芸女学校設立に資金全額寄付(現在の県立嘉穂東高校)

 明治44年 52歳で27歳のアキ子と再婚。

大正 3年 古河鉱業と提携し大正鉱業(株)を設立し社長に就任。(第1次世界大戦勃発)
大正 4年  社団法人伊藤育英会設立(返還不要の奨学金)
大正 6年  筑豊疑獄事件起きる。(鉱務署長への贈収賄疑惑)伊藤農園設立。

 大正10年  アキ子からの絶縁状が来る。伝右衛門は61歳。
(雅号・白蓮は、泥田にいても濁りに染まぬとつけたと知っていたが多額の出版費用は出してやったと伝右衛門も反論。全ての財産の返却。子は伝右衛門の子ではないと証明して離縁した)

大正12年 関東大震災。大正13年 博多コースター(株)創立(昭和2年手放す)

昭和16年 太平洋戦争始まる(陸海軍に戦闘機、艦を献上。別府の邸も献上)
昭和19年 大正鉱業は軍需工場に指定。

昭和22年12月15日  87歳で死去。死ぬまで大正鉱業、幸袋工作所の社長であった。

 この人を男の中の男と呼ばずして誰を言います!世間にも負けず、偉い!

 後継は、大正鉱業が養子の伊藤八郎、幸袋工作所は孫の傳之佑。

昭和38年 幸袋工作所は、日本製鉄の子会社の日鉄鉱業の傘下となり伊藤家から離れた。
昭和39年(1964)大正鉱業は解散。その付属病院は現在の中間市立病院である。


波乱の幕末で、目明しから野望を抱いて炭坑主となった父親を尊敬し、どんどん発展させていった伝右衛門は、やっぱり血にこだわったのでしょうね。

 ホテルの17階「浅黄」の個室で、カウンター越しに料理長の鮮やかな鉄板焼き・コテ捌きを眺めながらの例会。横一列は初めてでしたが、これも少人数の会ならでは・・。
 この後、デパートを歩きましたが、チト疲れました。
 帰ってすぐに
 シーツの糊付け用の大きめの洗面器で足湯。SAKODAの背もたれつきの高めの椅子あればこそ。足湯しながらのシャワーなんて手術後に見つけた思わぬ楽しいことです。
 話題の伝右衛門ですが、白蓮いればこそですね。でもエネルギー革命には敗れたといえるのでしょうね。 まあ いいさあ 実り豊かな人生だったとはいえますよ!





 今年も日よけと食材にゴーヤを3か所植えました。収穫の喜びっていいですね。



 もうすぐやってくる孫たちのためにクリスマスからのうさこさんとランは台所へ。
     どちらも大した長持ちね。ありがとね。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

術後4カ月

2014年07月10日 | 日記

 
 まったく、平気平気と喜びたいところですが、今の現状は、なんのきっかけもなく、あれ、おかしいな、違和感があるぞ、なんちゅうこと、身体と足を繋ぐまさしく股関節が痛い!といったことが時折起こります。
私を不安にさせるのが、こうすればこれが起きるといった理屈で説明できることではなく、なんでー と突然の痛みというよりも不調に悲しみが押し寄せます。

 4か月前の術後すぐは、血栓予防の対処法を看護師の方に指示され、ベットの中で自分に出来る努力は、足首の曲げ伸ばしだけでしたので、必死で何度もやりました。
 少し動けるようになってからは、脱臼が恐くて、後ろを振り返らないこと、手を遠くに伸ばさないこと、腰を振らないことといった事に気をつけていました。どちらも、悩まなくて済みましたので、今から考えると楽でした。

 それが、今はこの前触れもなくやってくる不調(痛みではない)になすすべがない。
予防も努力もできないことは辛い。

私の今までの人生では考えられないこと。
かっては、足が痛い時、歩けば治っていた。
姑を一人で看る心がうつ状態の時も歩くことで、気が晴れていた。
それが今は、歩くことが悩みになって、心を癒してくれないのが 悲しく辛い。

もしかしたら、これが人工関節と私の骨が直接結合する為の、馴染むための良い?不調感なのでしょうか?
これを、関節包の再生の為のプロセスというのでしょうか?

それなら、どうか、誰でもよいから、そうだよ!と言ってほしい!
お医者さんでもナカジマさんでも誰でもよいから、教えて!不安を取り除いて欲しい!

  でもまあ、この程度だとすると4ヶ月目は大過なく、順調に迎えたってことになるのでしょうか?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 カメリア会 (股関節を語ろう会)

2014年07月07日 | 日記
   
 私が手術を受けた医療センターの股関節の患者会です。参加人数200名位?
 講師は3名。センター長と運動指導士と股関節・術後5年の保健師。それぞれの先生のお話は患者にとって参考になりました。が、それよりも私が一番興味を持ったのが、質疑応答でした。
 特に76歳で仕事もまだ現役で、2月に手術を受けられた方です。
 5時に起きて2000歩ウォーキングし、帰ってラジオ体操をしているとのこと。ホントにイキイキした方でした。
 でも不思議にも思いました。何故股関節がダメになったのかとかは、考えられないのだろうか?前と同じような生活をすぐに始めて、不安はないのだろうか?他人事ではありますがね。
 又、司会の方の「自分の体は自分で守ろうとよく言われるけど、人工関節は自分の体ではないので先生にお聞きしましょう」との言葉に、さすが彼女は内科医とも思いました。

 ランチは、ホテルの5階のビュッフェバイキング1280円に一人で入りました。
 会場でも一人でしたし、まあ大抵の所は一人でズッカズッカ楽しみます。
 降り続く雨を横目に、全てが美味しいので、何度もお替りのお皿を持って、勿論杖なしで往復しました。足の心配より食欲の方の勝ち!
 そして隣のデパートでウインドーショッピング。
 でもなんだか、足が重く疲れている感じで楽しめなくて、今は服よりも足が大事と電車からTAXIと家路につきました。

 足の酷使はよくないことを、自分で認識して生きてゆく覚悟を決めるのが今の時期ではないかしら?
それにしても200人もの股関節患者が2時間座り続けられたことに感心。私は、尻も腰も痛くて10分の休憩時は立っていましたが?
 失礼ながら、もしかしたら、殆どが70歳以上でしたので不調の鈍化もあるのでしょうか?
 そう思ったら、年をとるのは悪くない  とも思いました。
 
 写真
 (やがて、4か月が来る術後ですが、病院で私を慰めてくれた蘭の花はまだ咲いています。まだ役目は終わってないと思っているのでしょうか?
  もう大丈夫よ。と、亡き母にも心の中で言っています。
  私が着ているカーディガンは20年物。娘がそれは捨てないでねって・・)



(今年もブラックブルベリーが実をつけました。たった1本で毎朝収穫に追われます。カメムシとの競争ですから・・。こんなに狭い庭なのにありがとね!)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7月の のぞみ会

2014年07月04日 | 日記
  
 障害者福祉センターでの、10時30分からの懇談会に出席しました。19名でした。

 お昼は、ここの食堂のコーヒー付き鶏肉ランチ500円を食べながら、手編みのカラーとショールを巻いた、おしゃれなCさんと楽しいおしゃべりをしました。

 午後1時からの筋力体操の参加者は、50人を超えていたかしら?
 皆さん熱心。でも術後3カ月の私はビビリなので、右足は殆ど上げず、マットに横たわっていたらウトウト。やはりまだ右方向に横向きもやりたくないので、ウツラウツラ。

 午後2時からは、私の今日の主たる目的の、初めてのプール。
 改装なったプールに、体格の良いイケメンの指導者と参加者おばちゃんばかり30名?
 後ろに足を振りすぎないように等と基本指導を受けながら、ゆっくりと足あげての繰り返し。私にはまだ少し早いかもとも思いましたが、もう20日もすれば夏。暑い夏。孫たちがドッとやってくる忙しい夏休み。
( 意地悪で元気なBABAとの定評は崩したくありません。去年と同じでありたい!)

後半の一人一人に指導の間は自由泳ぎでしたので、一人離れて端っこで、仰向けで浮いてみました。足を下ろす時、無意識に右足を先に着地しそうで、何回か躊躇して慌てましたが、左を先に床に着けると脳に指令を出してからはプカリ、プカリと余裕を持って、自由自在。
元々、泳ぐよりも浮くことが好きでしたので、平泳ぎなんか真っ平。今年からは孫ちゃん達に 得意の横泳ぎが見せれなくて 口惜しい!

 勿論、水着は傷口の見えない2部式パンツタイプ。おしゃれCさんは3万円でデパートで買った品の良い水着。私はスーパーの2割引きの6千円のゆる水着。どちらも、太ももは隠されとりまーす。

 プールで浮きながら、つくづくと、身障者は恵まれているな―、有難いなーと思いました。 この間までは全く知らない世界です。
 電車は半額。博物館は無料。そして、こうしてリハビリプールも無料。
 ハンディを背負った悲しみを、国家が慰めてくれる社会に感謝!



(10数年前の母の日のプレゼント。娘が手作りのティッシュ入れと共布で市販のバックに手を加えて素敵に世界に一つだけのバックにしてくれました。これを持ってイソイソと出かけました。)
(下のゴリちゃんは息子の中学時代の友達で、いつもサンドバックになってました。上のオランちゃんは、娘のためにマレーシアからやってきました。久しぶりに太陽干し)


 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6月のリハビリ日誌

2014年07月03日 | 日記
   ○東京大衆歌謡楽団コンサート
 昨年までは公民館主催の歌声会で「カチューシャ」や「鈴懸けの道」など若い頃に流行った歌声喫茶の曲を楽しんで歌っていましたので、入場料1000円なら、歌いたいと思って出かけました。
 30歳前後ぐらいの青年が3人。昭和10年代の軍歌や「旅の夜風」など、彼らの祖父母の時代の歌ばかりで、がっかり。一緒に歌えやしない!

 でも、隣町の大ホールの周りは、図書館併設なので緑もあり、歩くのに最適でした。

    ○九州龍谷短大と沼川河川プール
 「沼川河川プール」を目指してのドライブ。初めての田舎道。道路の一部が工事中でもあり、迷った道の側の、少し風変わりな大きい建物が「九州龍谷短大」でした。
 とても長い階段だったので玄関には辿りつけませんでした。

 「沼川河川プール」は国有林と一体の深い深い森の中にありました。
 「御手洗の滝」もすぐ近くのようでしたが、急な山道が続いていて、歩けないことが残念!
 でも、こんなにも近くに背振山系の九千部山と呼ばれる深い森林があることに感動しました。

   ○日田ハウス「山海」と かんぽの宿「日田」
 快晴でしたので「温泉に連れてって!」と夫を誘いました。
 いつもドライブに出かけるときは、コーヒー、お茶、お菓子を準備して、より旅を盛り上げます。
 



 まず チラシに載っていた「日田ハウス山海」のフルコースランチへ。
 三隈川を見ながら、優雅に美味しく頂きました。私たちと同じような年恰好のカップルも年配の女子クループも幾組もあり、皆さん人生の後期を楽しんでいらっしゃるな―と思いました。

 食後は「かんぽの宿日田」で、露天風呂にもゆったりと入り、久しぶりの温泉に体力が戻った感じがし、心身の充実を感じました。
 夫への感謝心も増しました?



  ○田代公園
 術後3カ月を過ぎて、ほぼ快調と思って過ごしていましたが、土曜日、日曜日は休養日と称して朝の散歩もサボり気味で、義務化していないと、歩くのは室内家事だけ。
 ちょっとした拍子に アー違和感 と泣きそうになる。
 そこで月曜日に「田代公園」へ。
 期待したよりも小さな林でしたが、夫には車で待ってもらって(彼はスマホで遊ぶ)なだらかな坂道を下って上ってを繰り返すことで、大丈夫っとホッとしました。
 こうして、気持ちの良い午後が過ごせました。

   ○「伊都菜彩」と伊都ハウス「山海」と「まねきの湯」
 「日田ハウス山海」で味を占めましたので、今度は「伊都ハウス山海」にも誘いました。
 まず、話題のJAの「伊都菜彩」へ。午前中なのにいっぱいの人。海、山、そして加工食品、花も安くて豊富。にぎわいが、納得の市場でした。

 早めに「山海」へ。日田とほぼ同じメニューでしたので、満足しました。

 それから、イオン志摩の「まねきの湯」へ。TVつきの露天風呂には驚きましたが、ゆったりと1時間過ごして早めに帰宅。

 夕飯には「伊都菜彩」で買ったタケノコで煮物を作りました。  早目の就寝でぐっすり。



   以上5件が6月のリハビリ行動ですが、元々老後はこんな暮らしがしたいと思っていましたので理想の日常ってことです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする