Schreib mal wieder!

自分の感じるままに...それがクレームと言われても

神道主義

2006-10-28 23:58:18 | Thoughts
 ドイツでの9ヶ月間の研修から帰ってきて、僕は自分を神道主義者としようと決めた。帰国後ちょっと興味を持って神道について調べてみたところ、それが非常にオープンで、都合がよく、またシンプルですっきりしていると思ったからだ。

「...愛する俟子姉妹の思い出を話してくれる兄弟姉妹はこちらへ」

42で亡くなってしまった父の姉はクリスチャンだった。葬儀のミサで牧師さまは参列者にそう促した。そこで僕は、「いつもおいしいケーキを焼いてくれるやさしいおねーちゃんだった」と言いたかったが、そこには子供には重過ぎる、重苦しい空気があり、まだ小学生だった僕にはとても前に進み出てそう言うような勇気はなかった。

父方はクリスチャン一家だったこともあり(父は洗礼を受けただけで無神論者だが)、いくつかの機会を通してキリスト教の、今ここに生きる人が、いかに楽に生きることができるかを追求する考え方は、本当にすばらしいと思った。ただただお経を上げる葬儀とは違い、心休まるものがあると思った。

ただ、そのキリスト教の考え方はすばらしいと思うのだが、「信じるものは救われる(信じないものは救われない)」「他の宗教・神を認めない」という点で、僕は相容れないという気がして、外から眺めるのにとどめていた。

そんなキリスト教すら認めてしまう(というか認めかねないオープンさがある)神道は僕にとっては都合がいいことこの上ない。そんなとき、そのころたまたま出掛けた明治神宮に「崇敬会」なる組織があることを知り、年、数千円の会費で入れ、好きなときに昇殿参拝できる(そうすれば外国人を連れていけて便利だ)というのに惹かれて即入会した。

人間として神や自然に対する畏怖の念を忘れてはならないと思う。それはあくまで気持ちの問題であり、何を信じるとか、どこの信者であるというのは、形式的なことだと思っている。

にわか信者といわれるのも厭わないが、ただその形式として、参拝する作法については、外国人に説明できるくらいは知っているつもりだ。そう考えると、僕はどこかで教養として捉えている側面もあるようだ。罰が当たらないように気をつけねば。




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1 コメント

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Unknown (O)
2006-11-06 00:41:14
自分しか信じて無さそうな
Yhが神道主義者だった事に驚きました。

僕も元旦には大國魂神社だけど昇殿参拝して来ます。

日本は死んだ人を神と崇めるし、天皇も神と崇めるし、神社にも神様が居るなんて不思議だねぇ。

でも、神を信じる気持ちは大切だよね。
全ては自分に戻ってくる、って考え方が説明できるから。
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