岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

今日の写真は、「ジュンテイカンノン(准胝観音)」/「余録:『65年後』の昔と今」に思う(28)

2010-09-20 04:29:56 | Weblog
 (今日の写真は、赤倉登山道沿いに見られる第6石仏、「ジュンテイカンノン(准胝観音)」である。かなり秋の深まった明るい日射しの元で撮った1枚である。
 准胝(じゅんてい)観音は「六観音」の1つである。他に、基本形である聖(しょう)観音をはじめ、十一面観音・如意輪(にょいりん)観音・馬頭(ばとう)観音・千手観音の6つである。 だが、何故かしら、赤倉登山道沿いの石仏観音像には、「馬頭(ばとう)観音」が見られないのである。また、これに不空羂索(ふくうけんじゃく)観音を加えて「七観音」とする場合もある。なお、赤倉登山道沿いの石仏観音像には、この「不空羂索(ふくうけんじゃく)観音」は建立されている。
 もともと、「六観音」とは浄土信仰と共に中国で生まれたもので大悲観音・大慈観音など六尊を拝んで輪廻から抜け出す手段とされたものであり、「六観音信仰」は真言宗・天台宗と関連の深い寺院等で占められる。
 赤倉登山道沿いの石仏観音像には、「六観音」の他に「三十三観音」というものの中にある馬郎婦観音(めろうふ)、岩戸観音(いわど)、龍頭観音(りゅうづ)、葉衣観音(ようい)なども、建てられている。

 「観音」さまというのは日本では恐らく一番信仰を集めている仏であろう。この仏様は慈悲の心により、救いを求めている人があったらすぐにそこへ行って彼らを救済をすると言われており、「如来」様ほど畏れ多い存在でもないところから人気を集めたのではないかと思われる。「六観音」、「七観音」、「三十三観音」などと数え方も幾通りもあるので、「観音」さまの姿は全部で幾つくらいあるかは見当がつかないであろう。何故ならば、「観音」さまは衆生を救済に顕れる時、多くの姿をとると言われているからである。

 「今日の写真の准胝(じゅんてい)観音」は観音の女性神格の代表の1つだ。「准胝観音」は「水の女神」という性格も強く持っており、仏教的には「水の浄化の働きにより清浄をもたらす女神」ともいわれているものである。)

◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(28:最終回) ◇◇

(承前)…しかし、時々、いや頻繁に起きる戦闘機の墜落事故、それに伴う民間人の死亡事故や自衛隊員の訓練中の事故を知るにつけて、ここは「戦場」ではないのかと考えるようになっていた。憲法9条によって「戦争」を放棄したはずなのに、日本はしっかりと「戦場」を抱えているではないかと思ったのである。
 そのような時のある晩のことだ。深夜2時を回っていた。戸外で大きな音がした。それが自動車が突然何かにぶつかって「停止」した音であった。この強制的な「目覚め」は不愉快なものだった。4時起床の私にとって2時間も早い起床は「寝不足」のもとであり、苦痛に近いものだった。
 外で、人の話し声が聞こえる。数人いるらしい。日本語ではない。どうも英語らしい。そのうちに、玄関を「ドンドン」と叩く音が聞こえた。それと同時に何やら喚いている。 私は上着を羽織って出てみた。結果からいうとこうだ。
 千歳アメリカ空軍基地の兵士が3人、酔っ払って自動車を運転して、私が住み込んでいる家の前の農業用水堰に落ちたのである。
 彼らの言うことは、英語なのでよく分からないが「その落ちた自動車を引き揚げたいので、『馬』がいるならば、引っ張り上げてくれないか」ということだった。
 私は「馬ならいる」といいながら、農業用のチェ~ンをつなぐフックがその自動車のバンパー部にあるかどうかを確認した。そして答えた。「馬はいるが自動車につなぐ箇所がないので、引き上げは出来ない」と。
 そうしたら、ものすごい勢いで怒るのである。言葉の端はしに「これはアメリカ軍の命令である」とか「何で日本人がアメリカ人の言うことに従えないのか」というニュアンスを含んだ単語が聞こえたのである。
 私は「ベリーソリー、グッナイト」と言ってドアを閉めたのである。翌日の昼過ぎに、空軍の大型のレッカー車が来て、その自動車を引き揚げて帰っていた。
私はその時思ったのだ。日本は独立した国ではない。まだまだ、アメリカによって「占領」されている国なのだと。
北海道での、これらの体験から、私は「戦争反対」と真の「自主独立」を考えるようになったのである。その後私は、定時制の高校生になっていた。少ない給料から、歴史関係の本を買った。世界史的には「中央公論社」版の「世界の歴史」を読んだ。日本については明治維新から1945年までのものをよく読んだ。日本が歩んだ道は間違っている。アジアの民衆にしたことは間違いを越えて、悪行である。植民地政策は略奪の何ものでもない。私は、その植民地で育ったものである。
 ちょうど4年生の時が1960(昭和35)年であった。時はまさに、「安保反対闘争」の年だった。
 1960年5月20日に、衆議院で新「安保条約」案が強行採決されると、「民主主義の破壊である」として一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲をデモ隊が連日取り囲み、闘争も次第に激化の一途をたどっていた。「安保反対」闘争は次第に、反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。
 だが、私は定時制高校の4年生だ。地方の定時制高校生で「安保反対闘争」に参加するすべはなかった。「安保反対闘争」そのものが話題にもならなかったというのが現実でもあった。
 この、「安保反対」闘争に対して当時の総理大臣、岸信介は、警察と右翼の支援団体だけでは、デモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の橋本登美三郎を「暗黒街の親分衆」の会合に派遣した。松葉会、錦政会、住吉会、関東尾津組ら全員が、「デモ隊を抑えるために手を貸すこと」に合意した。
 さらに、三つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請した。それは、新日本協議会、全日本愛国者団体会議、日本郷友会である。
 彼らの総数は38.000人、また、政府提供のヘリコプター、小型機、トラック、車両、食料、司令部や救急隊の支援を受け、さらに約8億円(約230万ドル)の『活動資金』が支給されていたのである。
 「60年安保条約」は「暴力団や右翼集団に支えられて」衆議院を「通過」したのである。これでは、とうてい対等の関係における「安全保障条約」ではないだろう。これが、その後、50年も続いているのである。それにしても、時の政府権力は何でも、するものである。この民意の「封じ込め方」にはそれがよく現れている。社会の敵とされる「暴力団」とまで与するのだ。
 もしも、私が全日制高校に進んで、現役で「東京の大学」に進んでいたら、間違いなく「大学1年生」として「安保反対」闘争に参加していただろう。
 私にはそれがそれが出来なかった。このことが、「世の潮流から取り残されたという悔いとなって今もあるのである。
 私は1961(昭和36年)に弘前大学に入学した。しかし、「安保反対」闘争は、その影をすでに潜め、学生運動は分派し、セクト争いに終始していた。酔っ払って警察に保護されたことはあるが、警察の「警棒」を使う「デモ隊列」からのごぼう抜きを味わったことは、私にはない。

 私の願いは素朴である。だが真実だといつも思っていたし、69歳になった今もそう思っている。それは、「戦争反対」である。だから、すべての「戦争」につながるようなことには反対する。
 しかし、戦争に反対はしているけれど、世界中で戦争は絶えない。「安保条約」の手枷足枷で沖縄は雁字搦めである。「自主独立」のない半ば占領の状態が50年も続いたままだ。私はいったい何をしてきたのだろう。
 ただ、私のこの悔いを和らげてくれるものは、私が現在している自然保護運動である。戦争は「自然破壊」の何ものでもない。自然保護運動は根底に平和主義を内在している。(この稿は今日で終わりとなる)