(今日の写真は、キク科シオン属の多年草「ノコンギク(野紺菊)」だ。
山野に普通に見られ、日当たりのよい路傍や畦、河川敷などに生育する。秋に咲く「里地、里山」を代表する野菊の1つであるとされている。
だが、岩木山では標高1000mを越える場所でも生えている。そして、それらは「今日の写真」とは色合いも、全体の風姿もかなり違っている。私に言わせると「野に咲く」大勢の花々という印象は薄れて、孤高を保っている高貴な風情を醸し出している花ということになる。今日の写真は、もちろん、山麓部の林道沿いで撮ったものである。
「ノコンギク」は本州、四国、九州に分布する。各地で見られ、地方や生育環境によって花色や形態は多種、多様であり、葉の広いもの、狭いもの、舌状花の色の変化など、多くの「変種」があるとされている。だが、「ノコンギク」は「日本固有種」なのである。
草丈は、50cmから1mである。葉は互生し、葉身は卵状長楕円形だったり、長楕円形だったりする。長さは5~8cm、幅は2~4cmである。短毛が生え、ざらつき、縁にはまばらな鋸歯がある。
花は、茎の先に多数が散房状につき、頭花は直径2~2.5cm、舌状花は1列である。花色は白色に近いものから、淡い青、赤みがかった青から青紫色のものまでと多彩である。
名前の由来であるが、本来は「舌状花の色である紺色」に由来し、本種の栽培品種である「コンギク」に対して野生種である「野に咲く紺色の菊」という意味による。
「ノコンギク」と「ヨメナ」の区別は難しい。中心の筒状花の周囲に毛の様な「冠毛がある」のが「ノコンギク」で、「冠毛のない」方が「ヨメナ」である。
はっきりと区別出来るのは、花が終わった後である。毛が伸びて、風で舞い上がりそうなのが「ノコンギク」で、毛が伸びないで「キンミズヒキの種子」のような果実が見える方が「ヨメナ」である。
岩木山では、「ノコンギク」は山麓部でも山際の方によく生えているし、「ヨメナ」はそれよりも低地部に多い。)
◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(27) ◇◇
(承前)…でつないでいくのは余りにも間が開きすぎた。だが、途中で止める訳にはいかない。何たって9月12日に(26)を書いて以来、書いていないのである。
私が「引き揚げてきてから数年間のこと」は拙著「陸奥の屹立峰・岩木山」の中の「20 なぜ岩木山なのか・故郷の原風景(p371~p394)」に譲ることにしたい。
…小学生から中学生へと、私の遊びの殆どは「外」であった。それも、一人のことが多かった。雪が消え始める頃は、田んぼに出て「凧揚げ」をした。この地方でいう「春風」を利用したものだ。やがて雪が消え、田んぼには水が貯まる。「馬耕」される前までの「貯水池」のような田んぼでは「帆掛け船」遊びをした。
これは、自分で船を造るのである。もちろん自分が乗るためのものではない。平たい板をそのまま使う場合もあるが、垂木を削りだして船体を造る場合もあった。これは難しかった。帆を張る柱も難しかった。その位置と太さと長さが問題だった。上手く出来ると「帆掛け船」は春風を受けて自在に走った。
夏は川遊びが中心で、春からか秋までは釣りをした。冬は近くに小学校のスロープがあったので、スキーをすること、それにたまには「凧揚げ」で過ごした。
家の中では何をしていたか。買うことが出来なかったので、借りた漫画本や雑誌を見て過ごした。だがそれは、「見る・読む」というよりは、それを模写することの方が「主」であった。
記憶にある絵は「小松崎茂」のものだ。貸本屋などのない田舎である。「水木しげる」のものには出会ったことはない。
漫画も雑誌も「戦争を否定」するという内容よりも、戦争を「追想」し、「賛美」するというものが殆どだった。少なくとも私の周りでは、漫画や雑誌を含めて、大人にも社会にも、「戦争に深く反省を加え、戦争を否定する」という風潮は感じられなかった。
「戦争放棄」という憲法を持ったことでの「安心感」に多くの国民は浸っていたのかも知れない。私はそのような生活の中で、「多くの国民にの一員としての中学3年生」になっていた。進路を考え、高校受験も思い描いたが、経済的に無理だった。
貧しい者には進学が閉ざされていた時代である。金がかからないで勉強出来る方法はないのか、もしも、月給が貰えて、その上に勉強が出来る道はないだろうか。
私は、「少年自衛隊」に受験した。衣食住つき月給つきという道である。しかし、「幸いにも」2次選考で不合格になった。その理由はよく分からない。運動神経が余りよくなかったからだろうか。それとも他の理由によるものなのかは、今になってもよく分からない。本当は「不幸にも」というべきだろうが、その後の自分の人生なり、ものの考え方からすると、実は「幸い」だったのである。
母方の叔父は戦死していたが、父方の係累では戦死者はいなかった。先に述べた記憶以外に私には「直接的な戦争体験的な記憶」はなかったのである。
そのようなことから、私は15歳の春まで「戦争」を憎悪したことはなかった。また、取り立てて、「反対」したこともないのである。
「受けるだけ」という気持ちで受験したら「全日制高校」に合格した。だが、2ヶ月半で退学した。その理由は授業料を払えなかったことだ。新規学卒者でもない中途半端なものにとって直ぐに「職」は見つからない。私は北海道に出稼ぎに行くことにした。それは「農業従事者」として働くことだった。「農業従事者」とはいうが、その実態は「津軽地方」の「借り子・かれご」同様であった。簡単に言うと「衣食住を与えられた奉公人」、「住み込みの農作業員」である。朝4時前に起床し、仕事が終わるのが晩の8時というのが毎日であった。
私の出稼ぎ先は、北海道の千歳市近郊である。そこにはアメリカ軍の航空基地と自衛隊の駐屯地があった。
そして、連日、頭上をアメリカの戦闘爆撃機が低空で飛び、自衛隊の射爆場からは機銃や重砲の音が聞こえた。最初は珍しさもあって作業の合間に腰を上げて見たり、聞いたりしたものである。(明日に続く)
山野に普通に見られ、日当たりのよい路傍や畦、河川敷などに生育する。秋に咲く「里地、里山」を代表する野菊の1つであるとされている。
だが、岩木山では標高1000mを越える場所でも生えている。そして、それらは「今日の写真」とは色合いも、全体の風姿もかなり違っている。私に言わせると「野に咲く」大勢の花々という印象は薄れて、孤高を保っている高貴な風情を醸し出している花ということになる。今日の写真は、もちろん、山麓部の林道沿いで撮ったものである。
「ノコンギク」は本州、四国、九州に分布する。各地で見られ、地方や生育環境によって花色や形態は多種、多様であり、葉の広いもの、狭いもの、舌状花の色の変化など、多くの「変種」があるとされている。だが、「ノコンギク」は「日本固有種」なのである。
草丈は、50cmから1mである。葉は互生し、葉身は卵状長楕円形だったり、長楕円形だったりする。長さは5~8cm、幅は2~4cmである。短毛が生え、ざらつき、縁にはまばらな鋸歯がある。
花は、茎の先に多数が散房状につき、頭花は直径2~2.5cm、舌状花は1列である。花色は白色に近いものから、淡い青、赤みがかった青から青紫色のものまでと多彩である。
名前の由来であるが、本来は「舌状花の色である紺色」に由来し、本種の栽培品種である「コンギク」に対して野生種である「野に咲く紺色の菊」という意味による。
「ノコンギク」と「ヨメナ」の区別は難しい。中心の筒状花の周囲に毛の様な「冠毛がある」のが「ノコンギク」で、「冠毛のない」方が「ヨメナ」である。
はっきりと区別出来るのは、花が終わった後である。毛が伸びて、風で舞い上がりそうなのが「ノコンギク」で、毛が伸びないで「キンミズヒキの種子」のような果実が見える方が「ヨメナ」である。
岩木山では、「ノコンギク」は山麓部でも山際の方によく生えているし、「ヨメナ」はそれよりも低地部に多い。)
◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(27) ◇◇
(承前)…でつないでいくのは余りにも間が開きすぎた。だが、途中で止める訳にはいかない。何たって9月12日に(26)を書いて以来、書いていないのである。
私が「引き揚げてきてから数年間のこと」は拙著「陸奥の屹立峰・岩木山」の中の「20 なぜ岩木山なのか・故郷の原風景(p371~p394)」に譲ることにしたい。
…小学生から中学生へと、私の遊びの殆どは「外」であった。それも、一人のことが多かった。雪が消え始める頃は、田んぼに出て「凧揚げ」をした。この地方でいう「春風」を利用したものだ。やがて雪が消え、田んぼには水が貯まる。「馬耕」される前までの「貯水池」のような田んぼでは「帆掛け船」遊びをした。
これは、自分で船を造るのである。もちろん自分が乗るためのものではない。平たい板をそのまま使う場合もあるが、垂木を削りだして船体を造る場合もあった。これは難しかった。帆を張る柱も難しかった。その位置と太さと長さが問題だった。上手く出来ると「帆掛け船」は春風を受けて自在に走った。
夏は川遊びが中心で、春からか秋までは釣りをした。冬は近くに小学校のスロープがあったので、スキーをすること、それにたまには「凧揚げ」で過ごした。
家の中では何をしていたか。買うことが出来なかったので、借りた漫画本や雑誌を見て過ごした。だがそれは、「見る・読む」というよりは、それを模写することの方が「主」であった。
記憶にある絵は「小松崎茂」のものだ。貸本屋などのない田舎である。「水木しげる」のものには出会ったことはない。
漫画も雑誌も「戦争を否定」するという内容よりも、戦争を「追想」し、「賛美」するというものが殆どだった。少なくとも私の周りでは、漫画や雑誌を含めて、大人にも社会にも、「戦争に深く反省を加え、戦争を否定する」という風潮は感じられなかった。
「戦争放棄」という憲法を持ったことでの「安心感」に多くの国民は浸っていたのかも知れない。私はそのような生活の中で、「多くの国民にの一員としての中学3年生」になっていた。進路を考え、高校受験も思い描いたが、経済的に無理だった。
貧しい者には進学が閉ざされていた時代である。金がかからないで勉強出来る方法はないのか、もしも、月給が貰えて、その上に勉強が出来る道はないだろうか。
私は、「少年自衛隊」に受験した。衣食住つき月給つきという道である。しかし、「幸いにも」2次選考で不合格になった。その理由はよく分からない。運動神経が余りよくなかったからだろうか。それとも他の理由によるものなのかは、今になってもよく分からない。本当は「不幸にも」というべきだろうが、その後の自分の人生なり、ものの考え方からすると、実は「幸い」だったのである。
母方の叔父は戦死していたが、父方の係累では戦死者はいなかった。先に述べた記憶以外に私には「直接的な戦争体験的な記憶」はなかったのである。
そのようなことから、私は15歳の春まで「戦争」を憎悪したことはなかった。また、取り立てて、「反対」したこともないのである。
「受けるだけ」という気持ちで受験したら「全日制高校」に合格した。だが、2ヶ月半で退学した。その理由は授業料を払えなかったことだ。新規学卒者でもない中途半端なものにとって直ぐに「職」は見つからない。私は北海道に出稼ぎに行くことにした。それは「農業従事者」として働くことだった。「農業従事者」とはいうが、その実態は「津軽地方」の「借り子・かれご」同様であった。簡単に言うと「衣食住を与えられた奉公人」、「住み込みの農作業員」である。朝4時前に起床し、仕事が終わるのが晩の8時というのが毎日であった。
私の出稼ぎ先は、北海道の千歳市近郊である。そこにはアメリカ軍の航空基地と自衛隊の駐屯地があった。
そして、連日、頭上をアメリカの戦闘爆撃機が低空で飛び、自衛隊の射爆場からは機銃や重砲の音が聞こえた。最初は珍しさもあって作業の合間に腰を上げて見たり、聞いたりしたものである。(明日に続く)