岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

今日の写真は「ミヤマホツツジ」/果実探しの山行(4)/「余録:『65年後』の昔と今」に思う(23)

2010-09-09 04:11:30 | Weblog
 (今日の写真は、ツツジ科ミヤマホツツジ属の落葉小低木「ミヤマホツツジ(深山穂躑躅)」の果実だ。見てのとおり、結構堅い「朔果」である。赤倉登山道の風衝地で8月30日に撮ったものだ。
 亜高山帯や高山帯の草地や岩場に生える。「ホツツジ」の近縁で、花冠が付け根まで切れ込んむ点では似ているが、葉の形や花序の違いから属名が、「ホツツジ属」と「ミヤマホツツジ属」と違っている。
 また、「ホツツジ」の花柱が横に伸びるのに対し、「ミヤマホツツジ」の花柱は、付け根から大きく上に曲がる。
 生育環境でも、「ミヤマホツツジ」はより高いところまで分布し、ハイマツ林に混生していることもある。
「ホツツジ」も全木毒物で、昔は蛆殺しに使われたくらいだが、「ミヤマホツツジ」もまた、 全木、つまり、花蜜から葉まで毒で、 頭痛、嘔吐、下痢、神経麻痺等に陥る。)

◇◇ 果実探しの山行(4)◇◇

 8月30日に一緒に出かけた受講者のYさんから次のような「観察記」が届いたので今日と明日の2回に分けて紹介しよう。

*岩木山植物観察記*

岩木山登山 日付 2010年8月30日 天候 晴れ 時間 9:10-17:00 暑かったが、山稜では心地よい風があった

散策ルート
岩木山スカイライン・リフト終点から鳥海山、岩木山山頂、巌鬼山を経て赤倉登山道を下山。

観察した植物等

鳥海山の山稜で
ミヤマアキノキリンソウ 深山秋の麒麟草
あまり他に咲いている花がないところで、黄色い花がすぐ目についた。
イワオトギリ 岩弟切
地面にほとんど這うように黄色い花を咲かせていた。
タカネナナカマドの実  高嶺七竈
真っ赤な実が天をついているようだった。
ミヤマハンノキの実  深山榛の木 雌雄別花()
3m程の樹高で、雌株は今年の実を、雄花は来春用の芽をもう作っていた。
ヤマハハコ 山母子
小群落を作っていた。リフト沿いにもところどころで咲いていた。
ムツノガリヤスの群落  陸奥野狩芒
山稜を覆って風に揺れていた。
コマクサの若芽 駒草
岩木山にはなかったのに意図的に登山者によって植えられたとか。全部駆除したはずが、数本新たな芽が出ていた。根が深いのには驚きで、駆除の難しさを垣間見た。
ミヤマタニタデ 深山谷蓼
白い小さな花。
ネバリノギラン 粘り芒蘭
花が終わって粘りがなくなっていた。
ミヤマキンバイ 深山金杯
もう少し早い時期に咲くようだが、一輪まだ咲き残っていて、歓迎しているようでうれしかった。花びらは
大きめ。
メイゲツソウ 名月草
花が少し色づきはじめていた。

長平登山道分岐から少し入ったところ
オオバスノキの実 大葉酢の木
花には出会えていたので、ようやく黒塾した実を味わうことが出来て感激でした。

岩木山山頂で
ヒメアカバナ 姫赤花
岩木山の山頂にしか見られない珍しい花だという。山頂の岩場のあちらこちらに見られた。清楚な姿形がいい。

赤倉登山道下山途中で
コケモモの実 苔桃
赤い実を少し味わわせていただいた。
オオバスノキの実 大葉酢の木
ここでもまた出会えた。
ミヤマホツツジ 深山穂躑躅
岩木山登頂時にも小株をいくつか見かけたが、こちらの方が多かった。これからもっと赤みが増すのでしょう。
ガンコウランの実 岩高蘭
黒い実は少し水分が少なめでした。
ウスノキの実 臼の木
透明感のある真っ赤な実が印象的だった。
ハナヒリノキ はなひりの木
これから枝も葉も赤く色づいていくのでしょう。
クロウスゴの実 黒臼子
黒い実を沢山つけていた。
ハリブキの実 針蕗
小さい赤い実を沢山つけていてビックリ。針のことを思えば赤もどぎつく感じる。
ゴゼンタチバナ 御前橘
六枚の葉を輪状につけた上に2個の赤い実が立っていた。いつか花も見てみたい。
ガマズミの実
少し黄緑がかった葉と、きつすぎない赤い実の組み合わせが青い空に映えていた。(明日に続く)

◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(23) ◇◇

 (承前)…「1943年から1945年の敗戦まで」、この言い方はよくない。その頃はすでに「敗戦」という戦いを「大日本帝国軍」は続けていたのである。
 法学者小林直樹が、その当時の「帝国軍」のことを「人間らしさ奪う軍の『孤島…追憶の風景』」と題して、「朝日新聞」2010年9月1日付に載せているので、それを紹介しながら、私の思いに言及したい。

 …街そのものは、情緒豊かで本当に素晴らしかった。しかし、金沢城本丸にあった旧陸軍の部隊はいねば「陸の孤島」で、馬以下の生活が強いられる理不尽な世界でした。
 後年、学会で訪れた時などには「僕らの汗と涙がにじんでいる」と周囲に話したものです。

 1943年、入隊の翌日から市民社会の価値観が転倒しました。部隊では市民社会を「地方」と呼んで、価値観の入れ替えを求めていました。「地方」から持ってきた哲学書などは没収され、残ったのは歯ブラシとふんどしぐらい。使うのはほとんど官給品でしたが、靴に足のサイズを合わせろと言われる始末でした。初年兵として馬にえさや水をやる仕事などで張り切ってはいましたが、下士官や古兵に「お前たちの手は馬ふんをつかむためにある」などと言われ、やはりつらかった。人間が末端の道具と化していましたね。
 その時分、私は「国難」という言葉を重く受け止め、「国難に殉ずる」という青年らしい一種のロマンチシズムにはまりこんで、それ以外は判断停止の精神状態でした。
 1944年後半になると、軍隊内部でも「この戦いはだめだ」とみる者もいて、デスペレート(自暴自棄)な気分が漂っていました。上官も望みのない戦争の行方に感付いていたのか、閉塞感といらだちの中で、部下への陰湿ないじめをエスカレートさせていました。今思うと、軍隊での出来事は、しごきをする上官も、いじめられる部下たちも、すべて見苦しく悲しく、小さな悪と小さな悲惨さの集合体でした。(明日に続く)