(今日の写真は、キク科ヤマハハコ属の多年草「ヤマハハコ(山母子)」である。8月30日に鳥海山稜のほぼ東端で撮ったものだ。
「ヤマハハコ」は本州の中部地方以北の山地や高原などに分布し、日当たりのいい山地の路傍や草原に生育する雌雄異株の多年草だ。今日の写真も「群生」しているが、これは地下茎でも繁殖するからであろう。また、裸地化したところにいち早く侵入する。
茎は30cmから70cmほどになり、葉は細くて長さ6~9cm、幅は6~15mm位だ。いくらか厚みがあり表面にはクモ毛がある。葉の裏面に毛が密生して、白色である。
8月から9月にかけて、茎頂に多数の花をつけるが、白い「花弁」に見える部分は総苞片であって、「花弁」ではない。花はかさかさしているので、乾燥させると「ドライフラワー」になる。
「ヤマハハコ」は、広く言えば「キク科」だから「ウスユキソウ(薄雪草)」の仲間である。
「ウスユキソウ」はつとに登山者に知られ、愛されている花である。全草が白い綿毛を被るところからつけられた花名も、またいい。茎頂に苞葉をつけ、灰白色の小さな頭状花を集めてつけることも可愛らしくていい。
「ウスユキソウ」は高山性の「ミヤマウスユキソウ」や早池峰山の特産種「ハヤチネウスユキソウ」、それにアルプスの「エーデルワイス」と同属だといわれると「登山者」たちにとっては「垂涎の花」なのだろう。図鑑等によると「ウスユキソウ」は日本各地の低山に生えるとある。だが、どうしたことか、我が「岩木山」には自生していないのである。このことは、深く刺さった棘のように抜きがたい「悔しさ」として私を苛むのである。
これと同じ悔しさを与えてくれる植物に「ベンケイソウ科」がある。「キリンソウ属」の「キリンソウ( 麒麟草)」、「マンネングサ属」の「ツルマンネングサ(蔓万年草)」や「ミヤママンネングサ(深山万年草)」、「ムラサキベンケイソウ属」の白神山地で見られる「ツガルミセバヤ(津軽見せばや)」、「ベンケイソウ属」の「ホソバイワベンケイ(細葉岩弁慶)」や「イワベンケイ( 岩弁慶)」などは、大体がどこの「山」でも見られるものだが、「岩木山」にはいずれも、自生していないのだ。本当に「何でこうなったの」としか言いようがないのである。
名前の由来は、「春の七草」の一つ、真っ黄色な花をつけるキク科ハハコグサ属の越年草「ハコグサ(母子草)」に似ていることによる。別に「ハハコ」は「葉っこ」の転訛という説もある。いずれにしても、「母と子」については関わりのない命名であるようだ。
「ハハコグサ」はとは、春の七草の一つである「御形(オギョウあるいはゴギョウ)」でもあり、茎葉の若いものを食用にする。
同属の「チチコグサ(父子草)」は日本全土に分布し、人里から、田畑、山地、川原、渓流、原野、草原、岩場や礫地などいたるところに自生している。
岩木山では亜高山から山頂部までは「ヤマハハコ」、山麓の原野などには「ハハコグサ」や「チチコグサ」が見られるだけである。
少し寂しいので、遠縁の仲間として、キク科ノコギリソウ属の多年草「ノコギリソウ(鋸草)」も挙げておこう。)
◇◇ 果実探しの山行(2)◇◇
(承前)…私たちと相前後して登っていた男女連れがいた。二の御坂の下部で、その女性が「もう登れない。ここで待っているからあなただけ頂上に行って」と言っていた。それを聞きつけた私は「ここまで来て山頂に行かない手はありませんよ。頑張って行きましょう」と言って励ました。そうしたら、何と私たちを「追い越し」て 山頂へと登って行ったのだった。
私は受講者に「オオバスノキ」の果実を早く見せたいと思っていた。「スカイライン」から「山頂」までの登山道沿いには、「オオバスノキ」はすっかり影を潜めたが、その途中で分岐する「長平登山道」沿いには結構あるのである。
私たちは「分岐口」から少し下ることにした。降りはじめていくらもしないうちに、私たちの目には「鈴なり」の黒い果実が飛び込んできた。
それぞれに「葉っぱ」を1枚ずつ噛んでもらう。「酸っぱい」ことを確認した上で、全員が「オオバスノキ」であることを確認した。受講者すでにの花については学習している。ルビーのような色合いの花が、今、目の前では「黒熟」しているのである。何という大変身、大変幻だろう。(明日に続く)
◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(20) ◇◇
だが、私の記憶は「断片」的ではあるが他にもある。それは「引き揚げ」に関することである。これは鮮明に3つある。
…(承前)その第2は、恐らく「舞鶴港」に上陸したはずだが、「何線」を経由したのかは分からない。前後の脈絡は全くないのだが、「凄いな」とか「東京だ」という車内のざわめきに啓発されて車窓を覗いた。「上野」近くを通過した時の光景はすさまじかった。建物がことごとく破壊され、焼け落ちていて、視界は遙か彼方まで開いていた。
「B29」が「焼夷弾」を投下した空襲による焼け野原なのだ。視界を遮る建物は殆どなく、何と、東京湾が見渡せたのである。幼い私だが、この「風景」が「敗戦」だと思ったはずである。
その第3は、弘前駅に着いて、駅から2月の冬道を旧岩木町の「兼平」まで歩いたことだ。歩くにつれて道は次第に狭くなり、「馬橇」の轍が深くなり、とても歩きづらかった。だが、弘前駅に降りた時に見た「山」がだんだんと近づき「大きく」なっていくことが嬉しかった。私はこの時「初めて」山を、雪を頂く山を、「山」という象形をよく表している山を見たのである。子供心に数少ない漢字であるが、いくつかを知っていた。その中に「山」という漢字も入っていたのである。
「兼平」には私の父の実家があった。だが、私の祖父の弟、つまり、私の父の「叔父」がその時の「実質的」な当主であった。私の祖父は長男であるにもかかわらず、家業の農業を捨てて「樺太」で役人をしていた。父もその所為で「家」いることが出来ず「満州」に渡った。父の叔父からすれば、勝手な兄とその倅である。「引き揚げ」て来たといって「快く」迎えるわけはなかっただろう。
時はちょうど「旧正月」の頃だった。父の実家に「表向き」には迎え入れられて、「正月用」の餅を焼いて、それに「とろけるような甘い」練乳をつけたものを食べさせられた。 美味しかったが、「ここには食べ物が何でもあるだろうな」とひたすら思っていた。
「歓待」は一晩だけだった。翌日から屋敷の片隅に「藁葺き小屋」を建てなければいけなかった。そこが、「春」までの私たちの「住み家」となったのである。(明日に続く)
「ヤマハハコ」は本州の中部地方以北の山地や高原などに分布し、日当たりのいい山地の路傍や草原に生育する雌雄異株の多年草だ。今日の写真も「群生」しているが、これは地下茎でも繁殖するからであろう。また、裸地化したところにいち早く侵入する。
茎は30cmから70cmほどになり、葉は細くて長さ6~9cm、幅は6~15mm位だ。いくらか厚みがあり表面にはクモ毛がある。葉の裏面に毛が密生して、白色である。
8月から9月にかけて、茎頂に多数の花をつけるが、白い「花弁」に見える部分は総苞片であって、「花弁」ではない。花はかさかさしているので、乾燥させると「ドライフラワー」になる。
「ヤマハハコ」は、広く言えば「キク科」だから「ウスユキソウ(薄雪草)」の仲間である。
「ウスユキソウ」はつとに登山者に知られ、愛されている花である。全草が白い綿毛を被るところからつけられた花名も、またいい。茎頂に苞葉をつけ、灰白色の小さな頭状花を集めてつけることも可愛らしくていい。
「ウスユキソウ」は高山性の「ミヤマウスユキソウ」や早池峰山の特産種「ハヤチネウスユキソウ」、それにアルプスの「エーデルワイス」と同属だといわれると「登山者」たちにとっては「垂涎の花」なのだろう。図鑑等によると「ウスユキソウ」は日本各地の低山に生えるとある。だが、どうしたことか、我が「岩木山」には自生していないのである。このことは、深く刺さった棘のように抜きがたい「悔しさ」として私を苛むのである。
これと同じ悔しさを与えてくれる植物に「ベンケイソウ科」がある。「キリンソウ属」の「キリンソウ( 麒麟草)」、「マンネングサ属」の「ツルマンネングサ(蔓万年草)」や「ミヤママンネングサ(深山万年草)」、「ムラサキベンケイソウ属」の白神山地で見られる「ツガルミセバヤ(津軽見せばや)」、「ベンケイソウ属」の「ホソバイワベンケイ(細葉岩弁慶)」や「イワベンケイ( 岩弁慶)」などは、大体がどこの「山」でも見られるものだが、「岩木山」にはいずれも、自生していないのだ。本当に「何でこうなったの」としか言いようがないのである。
名前の由来は、「春の七草」の一つ、真っ黄色な花をつけるキク科ハハコグサ属の越年草「ハコグサ(母子草)」に似ていることによる。別に「ハハコ」は「葉っこ」の転訛という説もある。いずれにしても、「母と子」については関わりのない命名であるようだ。
「ハハコグサ」はとは、春の七草の一つである「御形(オギョウあるいはゴギョウ)」でもあり、茎葉の若いものを食用にする。
同属の「チチコグサ(父子草)」は日本全土に分布し、人里から、田畑、山地、川原、渓流、原野、草原、岩場や礫地などいたるところに自生している。
岩木山では亜高山から山頂部までは「ヤマハハコ」、山麓の原野などには「ハハコグサ」や「チチコグサ」が見られるだけである。
少し寂しいので、遠縁の仲間として、キク科ノコギリソウ属の多年草「ノコギリソウ(鋸草)」も挙げておこう。)
◇◇ 果実探しの山行(2)◇◇
(承前)…私たちと相前後して登っていた男女連れがいた。二の御坂の下部で、その女性が「もう登れない。ここで待っているからあなただけ頂上に行って」と言っていた。それを聞きつけた私は「ここまで来て山頂に行かない手はありませんよ。頑張って行きましょう」と言って励ました。そうしたら、何と私たちを「追い越し」て 山頂へと登って行ったのだった。
私は受講者に「オオバスノキ」の果実を早く見せたいと思っていた。「スカイライン」から「山頂」までの登山道沿いには、「オオバスノキ」はすっかり影を潜めたが、その途中で分岐する「長平登山道」沿いには結構あるのである。
私たちは「分岐口」から少し下ることにした。降りはじめていくらもしないうちに、私たちの目には「鈴なり」の黒い果実が飛び込んできた。
それぞれに「葉っぱ」を1枚ずつ噛んでもらう。「酸っぱい」ことを確認した上で、全員が「オオバスノキ」であることを確認した。受講者すでにの花については学習している。ルビーのような色合いの花が、今、目の前では「黒熟」しているのである。何という大変身、大変幻だろう。(明日に続く)
◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(20) ◇◇
だが、私の記憶は「断片」的ではあるが他にもある。それは「引き揚げ」に関することである。これは鮮明に3つある。
…(承前)その第2は、恐らく「舞鶴港」に上陸したはずだが、「何線」を経由したのかは分からない。前後の脈絡は全くないのだが、「凄いな」とか「東京だ」という車内のざわめきに啓発されて車窓を覗いた。「上野」近くを通過した時の光景はすさまじかった。建物がことごとく破壊され、焼け落ちていて、視界は遙か彼方まで開いていた。
「B29」が「焼夷弾」を投下した空襲による焼け野原なのだ。視界を遮る建物は殆どなく、何と、東京湾が見渡せたのである。幼い私だが、この「風景」が「敗戦」だと思ったはずである。
その第3は、弘前駅に着いて、駅から2月の冬道を旧岩木町の「兼平」まで歩いたことだ。歩くにつれて道は次第に狭くなり、「馬橇」の轍が深くなり、とても歩きづらかった。だが、弘前駅に降りた時に見た「山」がだんだんと近づき「大きく」なっていくことが嬉しかった。私はこの時「初めて」山を、雪を頂く山を、「山」という象形をよく表している山を見たのである。子供心に数少ない漢字であるが、いくつかを知っていた。その中に「山」という漢字も入っていたのである。
「兼平」には私の父の実家があった。だが、私の祖父の弟、つまり、私の父の「叔父」がその時の「実質的」な当主であった。私の祖父は長男であるにもかかわらず、家業の農業を捨てて「樺太」で役人をしていた。父もその所為で「家」いることが出来ず「満州」に渡った。父の叔父からすれば、勝手な兄とその倅である。「引き揚げ」て来たといって「快く」迎えるわけはなかっただろう。
時はちょうど「旧正月」の頃だった。父の実家に「表向き」には迎え入れられて、「正月用」の餅を焼いて、それに「とろけるような甘い」練乳をつけたものを食べさせられた。 美味しかったが、「ここには食べ物が何でもあるだろうな」とひたすら思っていた。
「歓待」は一晩だけだった。翌日から屋敷の片隅に「藁葺き小屋」を建てなければいけなかった。そこが、「春」までの私たちの「住み家」となったのである。(明日に続く)