岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

今日の写真は「何の果実」/ 赤倉沢修験者の道は危険 / 余録:『65年後』の昔と今」に思う(21)

2010-09-07 04:09:49 | Weblog
(今日の写真は、何の果実だろう。もちろん、ツツジ科だ。このくらいに「黒熟」すると甘酸っぱくて、ジューシーですごく美味しい。テレビなどで健康食品として、盛んに宣伝されている「ブルーベリー」などの仲間である。ただ、「アサマブドウ」と呼ばれる「クロマメノキ」ではない。クロマメノキは岩木山には自生していない。
 ツツジ科スノキ属である。岩木山では標高1600mの山頂部付近から、低いところでは北麓の「西岩木山林道」沿いにも見られる。非常に、生えている場所が広範で、どこでも見られるというものだ。だが、その数は「山頂部」がとりわけ多いのである。
 これと似たものには「クロウスゴ」がある。これは、黒くなっても、若干上を向いているので、果実のなり方で見分けがつくだろう。
 ここ数日が「美味しさ」のピークだろう。是非、山頂まで登って、弥生登山道を少し、下山してみるがいい。数珠なりの黒熟した果実に出会えること間違いないだろう。さてはて、この果実は何だろう。答えは明日掲載する「果実探しの山行(3)」の中に出てくるはずだ。)

◇◇ 赤倉沢修験者の道は危険 ◇◇

 …8月30日に次のようなメールをもらった。登山道に深い関心を寄せている方からの情報なので、感謝と強い関心をもって読ませていただいた。ありがとうございました。
 それを受けて本会では、HP 扉に「赤書き部分」を含めた『9月1日 登山道情報更新 「赤倉神社~赤倉沢~鬼の土俵」ルートに注意』を掲載し、『岩木山登山マップをご利用ください』という案内もし、ワンクリックで、赤倉登山道のマップが見られるようにした。
 なお、マップには「鬼の土俵」から「赤倉沢」へ、赤倉沢を下降して右岸の赤倉講社屋までの道は記載されていない。また、25.000分の1地図にもこの道は記載されていない。
 また、本会の「岩木山登山道情報」のトップ欄に「2010.0901更新 本会では未確認ですが、大石赤倉登山道の『赤倉神社~赤倉沢~鬼の土俵』ルートが、転石が錯乱して不安定で非常に危険であるとの情報が寄せられています。8月31日の大量の降雨もありましたので、十分にご注意ください。」と表記されている。
 しかし、この情報はきわめて最近のものではなく、この情報に関する件はすでに、本会では確認済みである。
 10年ほど前に最上部の「治山ダム」(谷止め)が造られてから、徐々に赤倉沢の様相はすっかり変わり「転石」、「浮き石」などが多数見られ、それまで主に「修験」関係者が歩いていた踏み跡も、消失してしまったのである。

・阿保さんからのメール・
『岩木山を考える会様
 初めてご連絡いたします。弘前市内に住む阿保と申します。
 一昨日、(8月28日)土曜日に赤倉ルートから岩木山に登り、復路は鬼の土俵から赤倉沢に下りて下山したところ、非常に危険な状態であったことからご連絡します。
斜面を下り、赤倉沢に降りてみると大きな転石が非常に不安定な状態で散乱しています。
 また最上部の砂防ダムの下は3年前は安定した平地でしたが、今は大きくえぐれた不安定な沢になっています。

 赤倉沢から登山しようとする場合は諦めて引き返すことになりますが、知らないまま私のように下山した場合、とても危険な状況になります。
初めての人はもとより、経験者でも厳しい状況となりますので、参考までご連絡しました。
以上ご一報まで。』

 この「鬼の土俵」から「赤倉沢」へ、赤倉沢を下降して右岸の「赤倉講社屋群」までの道、および正規の尾根を通る「赤倉登山道」については、07年11月5日から11月11日まで、私の「ブログ」に書いた『 Sさん、Tさんと赤倉登山道を登る』を参照していただけると嬉しい。
 川原の荒れ具合は特に『 Sさん、Tさんと赤倉登山道を登る』の「その6」、「その7」に掲載されている写真を参照して欲しいものだ。
 また、阿保さんが指摘している場所および状況については『Sさん、Tさんと赤倉修験者(山伏)道を降りる』(その7)に詳述しあるので、それらを読んでいただけると理解が可能なのではないだろうか。
 なお、その後も何回か最上部の「治山ダム」までは行って、現況を確認している。また、阿保さんが教えてくれたような事実を、今まで、登山道情報にアップしなかったのは、このルートが「修験者または赤倉講信者たちのもの」であり、一般登山者のものでないと判断していたからである。
 いずれにしても、このルートは「林野庁による治山ダム」の敷設によって、大きく破壊され、登山者の安全という観点からは、遙かに遊離するものとなってしまったのである。だから、一般登山者には「勧められない」ルートである。

◇◇ 毎日新聞2010年8月15日付電子版 「余録:『65年後』の昔と今」に思う(21) ◇◇

 (承前)またまた思う。…「『玉砕』出来ずに生き残った者たちは、『玉砕』の意味を噛みしめて、『瓦全』であることに徹して、『日本の復興』に命を賭けたのである。戦後の目覚ましい、他国を驚かせるような『復興』は彼らの、生き残った者たちの努力の賜である。そして、日本は世界第2位の『経済大国』になったのである。
 ところで、『玉砕』を企て、それを兵士や国民に押しつけた『大日本帝国』の指導者やその取り巻き連中は何をしたのだろう。もとより、『玉砕』を強制した側なのだから、自分たちに『玉砕』するという意志はない。ましてや、『天皇のために死ぬことが玉砕』である以上、その『天皇』が生き延びた以上、臣下として、その枠の中で『瓦全』の道を選ぶ。だが、ここには『玉砕』の意味を噛みしめて、『瓦全』であることに徹した者たちとの決定的な違いがある。
 それは、元来た道に戻ろうとすることであった。決して、『日本の復興』に命を賭けるということではなかったのである。

 …「元来た道に戻ろうとすること」を考えた時に、私の脳裏には「NHKの大河ドラマ」(龍馬伝)のことが思い浮かんだ。
 「坂本龍馬」は日本が、列強の「食い物」にならないために、軍備の強化、薩長との連合を目論んだ。これは、「富国強兵」策の出発点ではなかったのか。その当時から以降65年以上続く、日本国を破滅させた「富国強兵」と「覇権を握るための国策」推進者の先鋒ではなかったのか。(明日に続く)