まいにちはなたば

キレイな花、枯れた花、トゲだらけの花。
毎日いろんなことがあるけど、遠くから見れば、やっぱりきれいな花束だと思うよ?

だから、だいじょうぶ(^ ^)b

2012-09-27 13:51:53 | 想い

なかなか、こちらがFBに追いつきません
パソコンをゆっくり開いている時間が、ないのです

 


無理せず、ぼちぼちいきますので

ぼちぼち、おつきあいをよろしくお願いします



今日は、タの中学の体育祭なので、
お仕事は交代してもらって休みです

お天気、良すぎるくらい良くて、暑かったよ~

タくん、リレーの選手にも立候補したらしく、
がんばって走ってました

スタート走者、7クラス中4位でバトンが渡せていたので、
ハハとしては、ちょいとホッとしています

ところで
↑このように↑ 複数の写真をupするのに、
【携帯のアプリを使って編集する】という方法を
先日、教えてもらいました

まるで、新しいオモチャを手に入れた気分で、
楽しんで使っています


コレを教えてくれたのは、
年若い、ガールのリーダー仲間


私たちの結婚式に参列してくれたとき、
確か小学6年生だったので

まぁ、それだけ、トシは離れてます

でも
ガールの世界では、トシに関係なく、同じ【仲間】


若いころは、パワフルなオバチャンたちと
友だちみたいに同じ話題で盛り上がれることが、
すごくうれしいし、楽しいなぁ、と思っていました

今度は、今の若者たちに
そんなふうに思ってもらえるオバチャンでありたいなぁ

‥なんて思っています


写真upついでに
一昨日も、勤務変更を急に頼まれてフリーになったので、
ランチに行ってきた写真も‥

 

美味でした~


それとそれと

ぜんっぜん関係ないハナシにぶっ飛びますが


前にもここで紹介したこともあると思うんですが

お気に入りの話を、私自身の覚書のために、
ここで、再び、紹介しておきます

渡辺和子著「忘れかけていたたいせつなこと 
 ほほえみひとつで人生は変わる」より

曹洞宗の尼僧、青山俊董が書いた「禅のまなざし」という本の中に、
「だいじょうぶの小石」というお話があります。
仕事がら病院に出入りを許されている一人の方が、
掌に入るくらいの小さな小石をもっていて、
これから手術を受けようとしている人に、
その小石を握らせてあげるのだそうです。

その小石には、平仮名で「だいじょうぶ」と書いてあるので、
それを握らせてもらった人は、
「大丈夫なんですね。手術はうまくいくのですね、ありがとう」
と喜びます。

すると、その方は、
「あなたが思っている通りになる大丈夫ではなくて、
どちらに転んでも大丈夫、そういう大丈夫の小石なんですよ」
とおっしゃるのだ、というお話なのです。

この話を読んで、
私のこれまでの考えは足りなかったと思いました。
これまでは「手術のためにお祈りしてください」と頼まれると
「はい、わかりました。きっとお治りになりますよ。大丈夫ですよ」、
そういう気持ちで「大丈夫」を使っていたことが多かったと思うのです。

祈れば神が私の願い通りにしてくださる、
病気を治してくださる、
夫の怪我を治してくださる、
子供の暴力を止めてくださる、というのではなく、
どっちに転んでも大丈夫、神は悪いようにはなさらないという信頼、
腹のすわった心がまえ、
そういうものをもって祈ることが大切なのだと気づいたのです。

「祈りは神を変えません。祈りは私を変えます」。

私たちが祈ると神はきいてくださる。
まるで私たちの意のままになる神のように想いがちですが、
私がどう願おうと、神はご自分の御心をお行いになるのです。
私は「欲しいもの」を願うけれど神は「要るもの」を下さるのです。

私は26年前、うつ病になりました。
50歳で脂が乗っている時、仕事が面白くて仕方がない、
その時に欲しくも無い病気をいただきました。
その時、一人のカトリックのお医者さまが、
「シスター、運命は冷たいけれど、摂理はあたたかいですよ」
と慰めてくださったのです。
その当時は、その言葉の意味がわかりませんでした。
治りたい!治りたい!とだけ想い、
神をうらみ、愚痴を並べ、そして暗い顔をしておりました。
私が唯一微笑むことの出来なかった時期です。
その後、運命と摂理の違い、それがようやく少しずつわかってきました。

この世の中に起こることをしようがないこと、
降って湧いたような天災、人災つまり、運命として受け取るのではなく、
同じ受け取るなら、摂理として神のはからいとして受け取る。

だから「大丈夫だ」ということなのです。
私の欲しかったことはその時には実現しないかもしれない。

でもいつか神の時間に実現されるのだということ、
そう信じて生きることが、すべてを摂理として受けとめるということです。
(略)

神の摂理として病気をいただいたということ、
その時はとても辛かったけれども、いまとなっては、
あの時あの病気をしてよかったと思います。
病気をしたおかげで人に対して優しくなりました。
それまで人に対してきびしくて、あの人はだらしがない、
なぜもうちょっと頑張らないんだ、などと思っていたのが、
それを思わないで済むようになりました。
自分の弱さを知ったからです。
私が変わるために、神が摂理として病気をくださったのだと思います。
そして、そう思うことが出来るようになったことをありがたいと思います。
(略)

皆さんも、「だいじょうぶの小石」をしっかり握りしめて
生きることが出来る方たちであって欲しいと思います。

時たまポロッと落としてしまってもかまいません。

どこに置いたかわからなくなって探し回ってもかまいません。

でもいつかその「だいじょうぶの小石」をもう一度見つけてください。

 

なんとなくは覚えていたのだけど、
読み返してみると、また、新たな発見があります

 

今、ものすごくこの言葉を贈りたい
大切な友だちのために、探しだしてきたのだけど。

このバタバタした私の日常を楽しんで覗きにきてくれている
全ての人に贈ります。

だから、あなたは、大丈夫

 


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