ダイアナ妃の死去の報を半信半疑の思いでバスに乗ってたどり着いたのはデトロイト。まさか、この五年後にデトロイト郊外に半年ちょっと住むことになるとはこのときはまったく想像もしていない。そのときはこの野球場は移転し、新しいものに変わっていた。
この球場は当時としてはボストンのフェンウェイパークと並んで最古の球場だった。縦横に走る道路の升の中に作ったので左中間・右中間のふくらみがない。
デトロイトは治安が悪いという情報で結構警戒していた。東西に走る大通りは中心からのマイル数が通り名前になっている。滞在時の住まいは12マイル。ここまで離れていれば安全と言われていた。
この日の試合もインターリーグ。今では毎日1試合(もしかしたら数試合?)行われているインターリーグだが、このときは同地区だけの対戦で期間が集中していた。アメリカンリーグの地元タイガースとナショナルリーグのフィリーズ。試合前、フィリーズのエース・シリングがブルペンで投げていたのに一枚も写真撮ってない。
元ヤクルトのパリッシュ・ベンチコーチ。
当時の主力のトニー・クラークとヒギンソン。ヒギンソンは5年後のミシガン滞在時に数少ない居残り選手。
地元タイガースが勝ったですね。
試合終了後はまた夜行バスに乗るために(3夜目)、市内をうろうろ。治安の悪いといれれるところ、大きなビルに入ったけど休日で誰もおらず、もしかしたら入ってはいけないところだったのかと思いながら。
対岸はカナダ。米加国境で唯一カナダが南側にあるというところだったと思う。
バスターミナルでダイアナ妃死去のニュースを見ようと売店で新聞でもと思ったが売店がない。キョロキョロしてたら男性が声をかけてきた。それを説明すると、「ちょっとついてきなよ」と言って外に連れ出し、少し歩いた。どこ連れてかれるのかと思ったが、コンビニがあった。「ここにあるんじゃないか?」と言い、買うことができた。疑ってすみません、ナイスガイですな。
アトランタからは夜行バスでひたすら北上。ひたすらとか言ってもこっちはバス乗って寝てるだけで何もしてませんが、運転手さんご苦労様。どこかでドライバー交代とかしたのかな。
当時住んでいたワシントンDCにはお昼頃到着。そこで降りて家に帰る手ももちろんあったが、乗ったバスがニューヨーク行きでまだ体力もある。パスがあるので行きも帰りもタダで行ける。ならニューヨーク行っちゃおうってことで降りずにそのままで。
ここからは見覚えのある風景。アクシデントと言えば、走っている途中ものすごい音が聞こえたこと。そのあとタイヤが転がってるのが見えた。近くを走っている車がパンクして飛んでしまったのか。乗用車で運転しているところだったらビビったろうが、大船はないが大バスにに乗っているので少し安心。
ニューヨークに着いて街中でホットドッグ食べたかな。何しろこの日はバスに乗ってるだけだけど朝も昼も食べてない。それでもホットドック一個でお腹いっぱいになった。
地下鉄に乗ってメッツのシェイスタジアムへ。ゲームを見るにはお金を惜しまなかったが、外野席ってことはここしか売っていなかったんだろう。
打席は多分パドレスのトニー・グウィン。
この日はアイリッシュデーみたいなイベントで、アイルランド色の帽子をいただいてきた。
この日の試合
チケット
この時代、外野で18ドルとはさすがニューヨークだなぁ。
また例によってバスターミナル近くの怪しげなお店で時間つぶして、メトロが走る時間に着くように夜行バスでDC戻りました。
市内に戻って見たのはこの看板。当時、そして今も仕事では三次元空間で考えるのは日常なので、こんなのが目に入れば写真に撮ってしまう。
次の目的地はマーガレットミッチェルの家。ここが生誕の地だとか。内部は映画で使われた衣装などがあったと思うが、写真禁止で撮れなかった。
チケットが残っている。
語学学校の学生証でも見せたのか、STUDENTのチケットになっている。
コカ・コーラに行ったのは前日だが、なぜか写真はこの日に撮っていたようだ。
チケットはこれ
アトランタ最後は野球でしめた。地下鉄の駅からシャトルバスが出ていてそれに乗って。
ここは前年にアトランタオリンピックのメイン会場となったところ。大会終了後、半年くらいで陸上競技場から野球場にしてしまった。
試合前のサインタイム。
この選手、多分バイレッキーだと思う。なぜなら
サインもらってるから。にもかかわらず、30年近くたったとはいえ「と思う」とは誠に申し訳ない。
しかも誰か忘れないようにBIELECKYと書いてある。さらに失礼なことに、調べてみたらスペルが違ってBIELECKIだった。
試合開始にはまだ時間があって、球場内に今でいうレジェンドたちのユニフォームとか
ウォーレン・スパーン
こちらはエディ・マシューズ
写真館も。上は1992年のナショナルリーグチャンピオンシップ第七戦のサヨナラの瞬間でしょう。走者ブリーム、捕手はラバリエールだったかな。
先発のマダックスがブルペンに入って試合に備える。この10年後にもマダックス先発の試合を見ることになる。
90年代を代表する投手
試合開始
打者はマグリフ
その打席でホームラン
地元ブレーブスの勝ち
この試合の経過
ハンクアーロンの銅像。前年まではこの隣にあった球場を使っていたので、銅像も移動したのか?
フィル・ニークロ
帰りもシャトルバスで地下鉄駅、そしてバスターミナルへ。夜行バスで北に戻りましょう。
今回は大リーグ好きな人じゃないと分かりにくい内容になってしまいました。
トロントやクーパーズタウンなど北東部から帰ってきてから約一週間後、今度は南部アトランタへ。
前回はニューヨークへ明るいうちに行ってそこから夜行バスだったが、今度は住んでいたDCから夜行バス。
夕食用だったか夜食用だったか、おにぎりを作って行った。ふりかけをまぜて俵型に。
約9か月の滞在だったので、炊飯器を買ってお米も日本食料品店まで行って購入していた。市の中心部のチャイナタウンにもあったかもしれないが、郊外の店で買っていたな。10km買って持って帰る体力があったんだな。
通っていた語学学校では月に一回程度生徒が可能なら食べ物を持ち寄ってお楽しみ会的なイベントがあって、そのときはよくこのおにぎりを持っていきましたね。意外にも早く品切れになる好評だった。
アトランタという地名をよく聞き始めたのが1991年。前年最下位だったアトランタブレーブスがワールドシリーズに登場。これまた前年最下位のミネソタツインズと戦ったのだった。BSでワールドシリーズを中継し始めて数年後のこと、パンチョ伊東さんがこんなのは初めてだと興奮していた。
ちなみにこの米国滞在への出国のパスポートチェックの時、パンチョさんが列の二人前にいたのだった。
脇道にそれたが一晩明けてアトランタ到着。運転手さんお疲れさま。
まずは予約していた宿舎に行った気がする。ホテルではなくゲストハウスのようなところ。共同バスだったのは覚えている。
一休みしてCNNへ。当時実家住まいでケーブルテレビに加入していてCNNで英語のシャワーを浴びていた。今も寝るときはCNNをつけながら寝るスタイル。完全に聞き取れないところが寝付きやすいのかな。
そしてコカ・コーラへ。トリビア的な紹介で、缶コーヒーを売ってるのは日本だけでその商品名はジョージアだ(ここはジョージア州)なんてのがあったの覚えている。
この二つは楽しみにしていて実際に行ったのに写真がない。
アトランタの最初に写真はこれ。
しかしなんなのか分からない。ついこの前亡くなったカーター元大統領の記念館みたいなところ行った記憶があるんだが、それか?
サイクロラマ。南北戦争のジオラマを見たんじゃなかった。
アトランタと言えば「風と共に去りぬ」。マーガレット・ミッチェルのお墓。
キング牧師歴史地区
アトランタ中心地
地下鉄の駅
結構忘れちゃってますね。
アトランタは一泊してもう一日。
クーパーズタウンの一日、帰りのバスもあるから丸一日はないか。土産物屋も博物館と同じくらい見どころがあるので、とても一日では足りないが3年前にも来ているしなんとかしよう。この時は知らないが、6年後となる2003年にも来ることになる。
この年の殿堂入りはネリー・フォックス、トミー・ラソーダ、フィル・ニークロ。あと、ニグロリーグ出身のウィリー・ウエルズ。
ラソーダは野茂がドジャースに入ったときの監督としても日本でも名が通っている。このときも現役監督。
ニークロはナックルボーラー、1979年だったかに来日している。
この時期はユニフォームも重そう
ニグロリーグのコーナー。一週間前にカンザスティティで本格的に見ている。人種差別の時代、黒人は大リーグに入れず独自のリーグでプレイしていた。それがニグロリーグ。サチェル・ペイジという伝説の投手が亡くなったのが1982年、その記事を読んで興味を持った。この滞在時にも本を何冊か買ってなんとか読みましたね。未だに読めてない本もあるが、在宅勤務で時間はある。これから読むか。英語力はダウンしているだろうが、読む力はそれほど衰えていないと思いたいが。
この1997年は黒人初の大リーガー、ジャッキー・ロビンソンがデビューして50年。その特集コーナー。今は、デビューした4月15日は全員が彼の背番号42を付ける。
1951年はウィリー・メイズのザ・キャッチ。メイズは今年亡くなった。
映画のコーナーですかね。バート・ランカスターは「フィールド・オブ・ドリームス」のグラハム医師。「フィールド・オブ・ドリームス」の主演ケビン・コスナーは「さよならゲーム」にも出ている。「さよならゲーム」ではマイナーのホームラン記録を作る捕手だった。
展示されているユニフォームは、「プリティ・リーグ」「メジャー・リーグ」もありますね。真ん中は「フィールド・オブ・ドリームス」か「エイトメン・アウト」か。いずれも1919年のホワイトソックスもの。
もう一つ映画。「フィールド・オブ・ドリームス」にも出ていたJames Earl Jones。この方も今年亡くなった。これはメキシカンリーグを舞台にした映画だったか。
本のコーナー。クラーク・ゲーブルが出ているけど何だったか?
この次の旅行でアトランタ行きます。アトランタと言えばクラーク・ゲーブルの風と共に去りぬですね。
泊まった部屋のレシート
ナイアガラのところでも書いたがたかが数泊で旅行用バッグを持って来た。書きながら何でだったかすぐに思い出せなかったが、ここでお土産をたくさん買うためだった。お土産って全部自分のだけど。
それを持って帰りのバスへ。16:00ころだったかな。この時期は20時くらいまでは明るいので暗くなるのはニューヨーク近くになってから。牧歌的な風景も楽しみましたかね。
ニューヨークに到着。すぐに、住んでいたワシントンDC行きのバスに乗っては着いたときにまだメトロが走っていない。24時過ぎのバスまで待ったはず。例によって怪しい店も含めてうろうろしてたんでしょうね。
ナイアガラからはニューヨークへ。目的地としてはクーパーズタウンという野球殿堂のあるところなのだが、ナイアガラからはバスが出ていない(当時の調査の範囲)。
クーパーズタウンの場所は
この地図でいうと「ニューヨーク州」の「州」の字のあたり。ナイアガラは「トロント」の下の2つの湖の間。拡大できるので興味あったら正確な場所を確認してみてください。如何に遠回りなのか分かる。でもそんな田舎町へのバスなんてそうそうありませんよ。
ナイアガラからのバスは夜行で朝にニューヨークに着く。このバスが混んでいて座れない。自分だけじゃなく、他に5~6人立っていた。グレイハウンドのバスに座れないなんて後にも先にもこの一回のみ。ましてや夜行バスで立っていくのか?
そんな不安の中バスは発車してアメリカに向かった。
すると30分くらいだったか後、バスを乗り換えるように言われた。そのバスは席に余裕があった。
その場所は分からなかったが、今考えるとバッファローだったんじゃないかと思う。
やれやれ、これで座ってニューヨークまで行けますわ。
ニューヨークからの乗り換え、クーパーズタウンへのバスは朝の7時と12時頃と午後の便があった。7時に乗れればこの日も12時過ぎくらいには着くことができ、この日も楽しめる。しかし間に合わなければ到着は夕方だ。夕飯食べて終わりだ。それも宿が取れればの話。トロントと違って都会ではないので、行って泊まるところがないなんてことだってありうる。
NYへ向かう道、明るくなって時刻と標識の距離を照らし合わせると・・・ちょっと無理だ。7時のバスは間に合いそうもない。行くならば12時頃のバスしかない。
(ニューヨークに泊って翌日行くってことも考えたんだったかな?NYだとホテル高いしどうだったか?)
案の定NY着は7時を回った。12時のバスまで時間をつぶそう。
これはNYのテレビ局NBCのスタジオ前。当時は朝はNBCの朝のニュース”TODAY"を見ていたので。
TODAYはMatt LauerとKate Couricですよ。番組中の二人を窓越しに見た記憶がある。
さて、クーパーズタウンの泊まるところを確保しなければ。当時はネット予約なんてできない。遠いところからどうやって探すかというと・・・
日本語の本屋さんですよ。旭屋書店だったかな~?
ここで「地球の歩き方 アメリカの魅力的な街編」(?)の中から探して。もしこの本が前日くらいに売り切れになってたらアウトでしたね。この本のクーパーズタウンのページに出ている宿泊施設の電話番号を覚えて(当時はこのくらいの記憶力があった)、公衆電話へ直行。いかにも20世紀な方法。
電話すると幸いにも部屋があった。予約して、これでクーパーズタウン行き決定。
この3年前の初の海外旅行、どしゃぶりの夜のNYに着いて一泊し、翌朝向かったのがクーパーズタウン。このことの記事をアップするときが来るか。
初回は不安120%だったが、この時は心の余裕もある。バスに乗るとなんとなく記憶がある風景が続く。特にアーミッシュ風の人たちの街は記憶がある。
クーパーズタウン到着。メインストリート沿いを歩いて宿を探す。1Fが土産物屋で2Fを宿泊施設にしているところだった。
寝るところもあって安心したところで夕食。前述の通り、3年前の初海外のときの海外初の夕食をとった中華料理屋さんへ。こんな田舎町で海外初夕食なんて、世界中探しても何人もいないんじゃないか。
この時は食べるものを撮る習慣なんてなかったので、何食べたか覚えてないな。
米国内からトロントに行ったからにはナイアガラに寄って行かないと。グレイハウンドのパスはカナダ国内でも使えた。
トロントからのバスは結構混んでいる。二席空いている席を探したら一番前の右側しかない。最前席じゃないですか。そこに座ってナイアガラまで約二時間。今ならかぶりつきで外を見るところだが、前々夜の夜行バスが効いていたのか、寝てしまっていた時間が多かった。
そんなもったいない二時間後、ナイアガラのバスターミナル着。ボストンバッグのようなカバンをロッカーに入れて出発、と思いきや何だったか忘れたけど何かをバッグから取り忘れて早くもオープン。もう一度コインを投入。
滝方面に向かっていくと滝から流れてきたような川に沿って。
橋の向こうに滝のしぶきが見える。あの橋が米加をつなぐ橋か。
写真だとそれほどでもないが一目迫力があった。
ナイアガラなんて来る前は、トロントのついでというか話のタネになるくらいのつもりで来たんだが早くも魅了されてきた。
確か落差は100mくらいあるんですよね。
近くのタワーに登ると滝の形がわかる。
さっきの橋を渡って、パスポートを見せて国境を通ってアメリカ側へ。こちらは滝に近づけるツアーがある。
これ。貸してくれる黄色いカッパを着て滝に打たれるか打たれないかのところまで行ける。直に打たれたらひとたまりもないだろうが、滝の量に比例してしぶきの量も相当で、上半身はそれほどでもないが下半身はびしゃびしゃ。カッパが役に立たない。
カメラを出すのも危険そうでパッと出してパッと撮るとこんな。
ズボンも靴下も靴もびしゃびしゃで「これは困った」と思ったが、10分もすれば乾いた記憶。夏のアメリカの日差しと乾燥の力。
あれがさっき登った塔だ。
午後になるときれいな虹
これ以上はっきり大きく見えた虹はないですね。
カナダ側に戻って、今度は滝を裏側から
これが滝の裏側。水の流れも音もすごかった記憶。
これだけじゃ何か分からない
徐々に陽が傾いてきて
お月さまも出てきた。
夕暮れのナイアガラ
来てよかったな~。
この日は朝昼と何を食べたか覚えていないが夜は覚えている。個人でやっているようなチャイニーズレストランがあったのでそこに入ったのだ。近くにいた女性二人が日本人だった。餃子を食べていて、アメリカ来て4か月、とてもおいしそうに見えて食べたくなった。
「すみません、餃子ってどれですか?」
と、メニューから教えてもらって注文したんだった。メインはラーメンだったかチャーハンだったか定食的なものにしたんだったか覚えてないなぁ。
その女性たちとは少し話をした。旅行関係の仕事をされていて、日本から来た旅行者のアテンドもしているとかだった。結構ストレスたまる仕事っぽかったなー。
トロント到着。20世紀の旅行、新しい都市に着いてからまずするのは宿泊地の確保。歩いて探すんだから今思うと大変。探すってのも予約しているホテルを探すんじゃなくて、泊まれそうなレベルを探してフロントで値段聞いてだから。泊まれそうかどうかは建物や外から見える範囲で豪華すぎないかとかを見てたかな。徒歩だしそれほど広い範囲は探せない。あちこちでよくやったもんだ。
フロントで泊まったホテル。
観光開始で見つけたチャーチル首相の銅像。
CNタワーが見える。
CNタワーの下。怖いけど上がってみよう。
オンタリオ湖かな?
夜見に行くスカイドーム
展望台の床には透明なガラスの個所があって、子供が寝そべっている。こっちは怖くてその上にも行けないというのに。このころは相当な高所恐怖症だった。それでも各地のタワーや展望台で鍛えられたせいか、かなり克服できているんじゃないか。それでも吊り橋はまだまだ怖い。
これは記憶がほとんどないんだが、クルージングもしてますね。CNタワーと屋根が閉まっているスカイドームが見える。
さて、球場へ。試合前に球場内を回っているとポール・モリターが目の前に。トロントにも在籍していた。
トロントのシト・ガストン監督のインタビュー。
前日ならクレメンスのピッチングが見れたのだが、このあたりの席では凄さはわからない。
試合はトロントのサヨナラ勝ち
この日のチケット
CNタワーのチケットも残っていた
さらにこんなのも
左がホテル、右がクルージングのレシート。20世紀のチケット、写真にしたら全然わからないが、直によーく見ると大きい文字はかろうじて読めるところがある。なんでもとっておきたかったんだな。
米国バス旅行始めますと言ってから三週間、ようやく始めます。
最初の目的地は国境を越えてカナダのトロント。パスポートを持って出発。
当時住んでいたDCからトロントへのバスは(調べた限りでは)なく、NYを経由して行くことになる。
DCからNYのバスはほぼ一時間おき、所要時間は4~5時間かな。NYからトロントは夜行で。
逆算してDCを出たのはお昼だったはず。何しろそれほど写真も撮っていなくて、撮っていたとしてもデジカメじゃないので時刻が分からない。
バスは一か月パスがあるので乗り放題。
夕方にNYに着いて、トロント行きのバスを待つのだがまだまだ時間がある。このころはもうNYのバスターミナル周辺は地下も含めてある程度地理は把握していた。まだあるのか分からないが、いわゆる18禁的なショップにも堂々と入って時間をつぶしていたかな。この三年前の初渡米時のNYはとにかく怖かったが、三年で変な度胸がついていた。
夜行バスでトロントへ。このバスの中で唯一覚えているのは途中、アメリカ・カナダ国籍以外の人はバスの外でパスポートチェックみたいなのがあったこと。それも午前3時とか4時とかに起こされてだった。
トロントのバスターミナル、どんなだったかもう覚えていないなぁ。
転職で在宅で仕事をするの(していることにするの)を待っていたかのように新型コロナが世界にまん延して海外に行けなくなり、代わりにそれまで行っていなかった国内に旅行先を求めて、当ブログでもそれについて書いてきた。しかしちょっと飽きてきた。
中国地方旅行の途中ではあるが、遠い昔、若き日のアメリカ滞在の旅行記(というほどではない)を記憶が少しでもあるうちにやっておきたくなった。
以前(三年前)夏休みの一回目の旅行から帰ってきたが、一か月の夏休みはまだある。間を置かずに今度は北へ。
計画表があった。
最初は一週間のつもりだったのか。実際にはこの半分くらいになった。しかもBuffaloは行ってない。
Cooperstownというのは野球殿堂があるところ。1994年の初渡米の最初の目的地で、2003年にも行っている。
夏休み一回目の旅行日程も残っていた。
パソコンは持って行ったけどプリンタがなかったので手書き。
シカゴから帰って一日休んでから出発しようとしていた。そうするとトロントで、当時の大エース・クレメンスの登板が見られるはずだった。しかし、旅行のせいか踵が痛く、しっかり歩けない。それでももう一日休んだら元気回復。クレメンスは見れないがトロント行って来よう。今回もバスの一か月のパスが力を発揮する。
では次回から移動開始です。