阿部ブログ

日々思うこと

大元帥日誌(1)誕生と命名

2016年01月01日 | 雑感
夏目漱石の漢詩にハマり、森鴎外の史伝にハマり、ついには幸田露伴を読み始める、今日この頃。
そして、新年を迎えて一念発起した。大元帥としての裕仁について書いてみようと。
昭和史で、決して多くは語られない重要人物がいる、それが天皇であり大元帥である裕仁閣下である。(陛下ではない、大元帥だから閣下)
森鴎外は、伊沢蘭軒を書くときその史料の少なさを語っているが、裕仁閣下には刊行が始まった『昭和天皇実録』がある。また、大東亜戦争に負けた事から、側近の日記が公開されており、平安な時代の天皇であれば、決して動静が知れる事がなかったでろう事柄を知る事ができる。
特に、『牧野伸顕日記』や『木戸幸一日記』、侍従長や侍従武官長を務めた人達の日記、原敬や濱口雄幸など総理大臣の日記、戦期では東條内閣総理大臣機密記録、企画院資料、枢密院議事覚書、最高戦争指導会議、大本営陸軍部の機密戦争日誌。敗戦後は、東京裁判資料や東京裁判却下/未提出辯護側資料などを参考にしたい。

さて大元帥閣下は、明治33年に生まれた。

誕生
明治33年(1900年)4月29日
午後10時10分誕生。母親は、九條節子。父親は嘉仁で、葉山御用邸に滞在中。電報で息子の誕生を知った。その嘉仁は、漢詩を嗜んだ。その生涯で1367首の漢詩を詠んでおり、125人の天皇の中では最多で並ぶ者はない。嘉仁の漢詩は悪くない。
嘉仁以後の裕仁、今上天皇 明仁は、長い歴史を有する漢文・漢詩の教育を受けていない。現皇太子の徳仁も然り。
嘉仁が、息子の顔を初めて見たのは5月3日(金曜日)。
嘉仁は、葉山御用邸を7時20分出発、9時50分に新橋停車場に到着。皇居に行き両陛下に挨拶後、東宮御所に帰宅して、初めて息子の顔を見た。
跡継ぎの息子が生まれて喜んだ嘉仁は、詠んだ。

  皇后宮臺臨恭賦(皇后がこられたので謹んで詩を読む)

此日青山玉輦停 (この日、青山より美しい輿(こし)がやってきた)
迎拜温容喜且驚 (出迎えて挨拶その温かいお姿に喜び且つ驚く)
何幸天賚降男子 (なんという幸せ天から男の子を賜わる)
得慰兩宮望孫情 (両陛下の孫を望む気持ちにそうことができた)
兒辱叡覽定歓喜 (陛下が孫を見に来て大変喜んだ)
嬌口恰発呱呱声 (かわいらしい口で泣く声もかわいい)
妃猶在蓐不得謁 (皇太子妃はまだ床にあり逢うことができなかった)
吾獨恐懼荷光栄 (私は一人恐懼して次世代に命を繋ぐ栄光を担う)
「大正天皇御製詩集」

この当時の宮内大臣は、田中光顕、次官は川口武定。侍従長は徳大寺実則。

命名
明治33年(1900年)5月5日
早朝に、胎盤を詰めた胞衣壺(えなつぼ)が青山東宮御所内梅の御茶屋西後の丘に埋納され、その上に松が植えられた。古来より胞衣を土中に埋めて、子供の健やかな成長を祈念する習俗である。「胞衣納法」に則って吉方に納めらと推測される。その吉方が梅の御茶屋西後の丘だった。
「吾輩は猫である、名前はまだ無い」ではないが、誕生から7日目で命名式が行われ、嘉仁の息子とされる赤子は、裕仁となった。

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