フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

Green fields

2007-01-29 22:11:14 | old stories
久々にAmherstの話、というか、閑話休題。

家に戻って過去のNHKフォークソング番組のDVDを聞き直していると、かのBrothers Fourのおじいさん達が墓場から出てきたみたいな顔でGreen fieldsを歌うのを聞きました。

Once there were green fields, kissed by the sun.
かつてグリーンフィールドがあって、そこはお日様にキスされていた
Once there were valleys, where rivers used to run.
かつて谷間があって、そこには幾筋もの川が流れていた
Once there were blue skies, with white clouds high above.
かつて青空があって、白い雲が空高く浮かんでいた
Once they were part of an everlasting love.
かつては永遠の愛の一部だったものたち
We were the lovers who strolled through green fields.
ぼくらはグリーンフィールドを散歩する恋人だった

Green fields are gone now, parched by the sun.
グリーンフィールドは今やなくなり、太陽にからからに乾いてしまった
Gone from the valleys, where rivers used to run.
幾筋もの川の流れていた谷は消えてしまった
Gone with the cold wind, that swept into my heart.
心に吹き込んできた冷たい風とともに消えてしまった
Gone with the lovers, who let their dreams depart.
夢が別れ別れになってしまった恋人とともに消えてしまった
Where are the green fields, that we used to roam ?
ぼくらが歩き回ったグリーンフィールドはどこに?

いちおうは失恋の歌なのですが、それよりもずっと失われた自然の思いが心に響いてきます。そしてそのことよりも、ぼくがプライベートに思い出したのは、Amherstの光と、風の香りだったのです。

昨年、再訪した一日限りのAmherstの夏の青空の下で、ぼくは汗をかきながらあくせくと見覚えのある場所を歩き回っていました。そのときは風の香りも日差しに焼けていくシャツの匂いも感じてはいなかったのに、グリーンフィールドを聞いて、確かな記憶となった昨年の記憶の中に今度は25年前の光と風がよみがえってきた気がしました。そう言えば、停留所もない国道沿いで、ひたすらにバスを待ったりしていたなあ、という感じです。歌は偉大ですね。論文なんてすごい論文でもせいぜい30年なのに、Greenfieldsですらもう40年はあるんじゃないでしょうか。
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まず言葉を発せよ

2006-05-29 00:38:34 | old stories
久しぶりのアメリカ留学話、第8回です。

11月末から冬が訪れたマサチューセッツのアマーストですが、ぼくにはなかなかに解決出来ない主観的な問題がありました。それは哲学的に言うと、判断や行動はどのような根拠に基づいて行われるか、つまり、どのような正当な理由のもとに「これは良い」と評価したり、「これこれの行動を起こす」ことが出来るのか、という、なにやら青春の悩みのような話でした。この問題は結構長くぼくを悩ませたもので、大学2年の時には小説さえ書いたものでした。

アマーストに来てから、さまざまな出来事に出会って、お定まりのミスを犯したりしていました。たとえば、パーティーの誘いを日本風に軽く捉えて「時間があったら行くよ」と答えてしまい、誤解させてしまった、等々です。留学生3ヶ月も経つと、英語の不自由さとは別に、大事なのは言葉だとうすうす感じ始めていたのだと思います。

大学は12月のクリスマス休みに入りました。ぼくは友人の誘いを断って農家でクリスマス休みを過ごしたのでしたが、数日、一人でカナダ旅行に出かけました。冬にカナダに行くとはと呆れられもしたのですが、ぼくは一人で問題の解決をはかりたいと思っていたのです。グレイハウンドのバスでマサチューセッツからコネチカット川沿いを北上してバーモント州を越え、カナダとの国境に辿り着きます。1月2日だったでしょうか。国境の検問では「あなたは今年初めてのアメリカ人以外の外国人だよ」と言われたものです。だんだんと空はかげり始め、セントローレンス川を越えた頃にはもう日はすっかりと暮れていました。ケベックの街に着いたのはすでに10時を過ぎていたと記憶しています。

ケベックはぼくがこれまで経験した最も寒い街でした。気温はたぶん零下30度で、外を歩くのは10分が限界でした。セントローレンス川は凍って、そこここに流氷が浮いています。川の水からは蒸気が立ち上ります。ケベックの中心にある古い町並みだけを歩いた後、ぼくはホテルの一室で筆を執りました。僕の筆からはその一瞬まで考えていなかったことが浮かんでは紙に記されていきました。しかし、文を1つ書くと、それが踏切台のようになって、さらにそこから先の文が生まれてきました。きっとそんなときだったのでしょう。ぼくは卒然として分かったような気がしたのです。まずは言葉を発せよ、そこから行動も判断も始まるのだと。正当な根拠など恐らくないのだろう、と。

ともすれば内省的だったぼくが、行動を重んじ始めたのは、こんな幼い経験があったためだと思います。そしてぼくは今でも言語については、言語とは何かにではなく、言語を使って人は何をしているかに関心があるのです。
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ベーシック

2006-01-30 00:19:08 | old stories
22階建ての20階での寮生活は12月で終わり、冬休みとなる。学生たちは大きな袋に入った洗濯物と宝箱のような大きな箱(この2つが学生の全持ち物)をもって、実家のfamily reunionのために寮を去っていく。

ぼくはどうしようかと思ったのだが、大学の先輩にあたる人がクリスマスの間、開いている農家があるからそこに住まないかと言ってくれ、一緒に同じ大学から留学に来ていた数人と一緒に、国道沿いの古い農家を借りることになったのだ。確かに古い家で、地下には集中暖房のボイラーがあるにはあったが、それもほとんど効かない感じだった。仕方がないので、ボイラーから出ている鉄管を断熱材で巻いたり、窓をビニールで覆ったりして急場を過ごすこととなった。

そして静かなクリスマスがやってきた。最初からお世話になっていた州立大学の農学部の教授夫妻を招いて食事をしたり、寒いながらも、楽しい時間を過ごしていた。

クリスマスの翌日だっただろうか、問題のボイラーがどうも動かないようなのだ。店も休みに入っていて、修理もできそうにない。農家の居間には大きくて古い薪ストーブがあったので、これが暖をとる唯一の頼りとなってしまったわけだ。ぼくらは手分けをして落ちている木や枝を探すことにした。農家の背後には農地が広がっているだけで、枝など結構落ちていたのだ。それを無料のコミュニティ新聞といっしょに燃やすと、一時ではあったけれど、ものすごく暖かくなった。頬が火照るほどで、体が温まったのだ。

結局、ぼくは2学期になるときに、寮を出て、その農家にアメリカ人3人と日本人の先輩といっしょに移り住むことにした。20階の寮生活に不満はなかったけれど、どうにも生活というものではなかったわけだ。なぜか分からないけれど、ぼくは初めて生活を欲したと言えるように思う。

マサチューセッツでも、後のウィーンでも、生活の素朴な実質のようなものに触れる機会がよくあった。そしてその感覚がぼくは好きだった。子供時代に同じ感覚を味わっていたからかもしれない。異文化の中に、似た感覚を経験して、昔の自分の周囲を思い出す。生活の実質、これは今でも大切にしたいと思っていることではある...
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What can I do for you?

2005-10-11 00:51:18 | old stories
アメリカ留学の第6回目になるが,前回のタバコの臭いとどこかで関連していそうな話を思い出した。じつはぼくの車の免許の始めはアメリカで取得したものだった。当時も日本では海外で取得した免許についてはその国に少なくとも6ヶ月滞在していなければならないという規定があったのだが,1年の留学ではまったく問題がなかった。留学を半年も過ぎた頃に,ぼくは友人のオートマチックのゴルフを借りて,空き地で1,2回動かしてみただけだったが,2回目の試験で何とか受かったのだった。そんな危なっかしい技術にもかかわらず,学期休みのときに友人に誘われてカナダ旅行に出かけたのだった。

マサチューセッツから西に車を走らせて,すっかり凍ってしまったナイアガラの滝をみたり,そこからカナダに入って,トロントの日本人移民のおじいさんのところに泊めてもらったりして,楽しく何とか運転をしていた。その移民の日本人は日本語のイントネーションが英語化して,語彙もかなり英語にスイッチが起きていて,ぼくは不思議な人を見るようにその人の話を聞いていたものだ。しかし,なによりも驚いたのは,おじいさんの家の3階には畳が2畳分,敷いてあり,壁には教育勅語が飾られていた...。そしておじいさんは教育勅語をその時まで敬っていたのだった...

トロントからフランス語圏のケベックに入り,そこからセント・ローレンス川を渡ってアメリカのメーン州の山道を戻っていたときだった。夜の山道は暗く,鹿が飛び出してくるのを恐れながら,走っていった。しかし,どうにも車の調子が悪かった。ヘッドライトは暗くなるばかりで,峠を何とか越えて,平野に入ったところで,とうとう光が消え,やむなく車を止めるしかなくなったのだ。車を脇に置き,電話を探したが,見つからない。途方に暮れて1時間も経った頃,パトカーが止まってくれたのだ。ああ,助かった!とぼくはすっかりうれしくなって警官のところに行ったのだが,そのときの警官の言葉が上のタイトルのものだった。それもやはり大きく響く声で。ぼくがとっさに悟ったのは,あ,ここでは道の脇に車を止めて呆然としている人間でも助けて欲しいかどうかを説明しなければならないということだった。警官が事情を察してくれるわけではなく,事情を察してもらうためにこちらが説明しなければならないのだ。自分を守るのは自分であって,警官ではない。先生でもない。他の誰でもない。

そんなことをあのやすいレンタカーを借りたためにぼくは学んだのだが,この経験もまたタバコの強い臭いのようにドスの効いた経験だった気がする。


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アメリカの匂い

2005-10-02 21:51:12 | old stories
アメリカ留学の昔話、第5回は匂いの話。

その国の匂いというのは確かにあるもので、その国その社会に生まれ育った人間には気がつかないことが多い。たとえば、日本で言うと、それはお醤油やご飯やみそ汁のだしの臭いだったりする。外国人はこのむっとした特有な臭いに慣れるまで、なかなかご飯が進まないもののようだ。

ニューヨークに降りたぼくにとってアメリカの匂いはまず何よりも葉巻やタバコのそれだった。JFK空港の警備員のどすの効いた声のように、タバコの強い臭いは地下鉄や駅やYMCAなど、いたるところに漂っていた。その臭いはじつに迫力のあるアメリカだったのだ。ぼくが海外でつねに周囲を注意して歩く習慣が出来たのはまさにこのニューヨークの経験からだったのではなかったかと思う。しかし、そんなニューヨークでも、鞄を持ってくれようとする中年の婦人がいたり(警戒してぼくは鞄から手を離さなかった訳だが)、初めてニューヨークを歩いているぼくに道を聞くアメリカ人がいたりと、のんびりなのか、危ないのか、よくわからないところでもあった。はっきりしているのは、ぼくがここでは外国人として扱われていないということだった。英語が話せないことが外国人の証拠でもないのだ。逆に言うと、アメリカではどうやらアメリカ以外に世界があるとは思われていないフシがありそうなのだが ...

写真はマンハッタンと島を往復するフェリーからの眺め。中米かプエルトルコあたり出身の家族をスナップ・ショットしたもの。フェリーにもタバコの臭いは流れている。
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81年の閉塞

2005-09-25 23:57:41 | old stories
なぜぼくはアメリカに行こうと思ったのかということなのだけど、今日の話はひょんなところから始まる。

陰山英男さんは百マス計算などで有名な小学校校長だが、ぼくはそれは知らず、東京新聞の毎週の小さなコラムで面白い人だと思っていた。先日その人の新書を購入した。実はコラムのほうが面白かったのだが、その中に書かれていた幾つかのことが参考になった。それは、70年代初頭に教育政策の改訂があり、詰め込みがとても増えたということ。これは当てずっぽうで言うと、詰め込み教育だけではなく、.教育のしめつけもまた進んでいった時期ではなかったかと思う。

90年頃、モナシュ大学のセミナーでスピーチをした早稲田大の社会学のある先生は学生運動後に文部省は学生に対する締め付けを強めて、それが80年前後に最も強くなったと話したことがある。北大でも老朽化を理由に、学生の自治会が入っていた木造の会館を取り壊したり、旧制高校のような破天荒が売り物だった恵迪寮も新築されていった時期でもあった。

もう1つは、日本の社会生活が81年を境に変わっていったと言うこと。陰山氏によれば、それはたとえばコンビニがこの年を境に急増していった。テレビが家族に1台から一人1台になり、テレビゲームが始まっていったこと、など生活が夜型、外で遊ぶより家で遊ぶように変わっていったという。付け加えるなら、カラオケがブームになり、歌はギターでみんなで歌うのではなく、カラオケ・ボックスの中で勝手に歌うようになったこともその変化につながるのだろう。大人も子どもも屋内に閉じこもっていった時期だったのかもしれない。

この2つのことは果たしてべつべつのことなのだろうか?それとも底流は共通しているのだろうか?ぼくにかぎって言えば、80年前後というのは、なにか閉塞感が漂っていたものだ。息苦しくて仕方がなかったのだ。それは大学生としても、社会の様子にしても、そして人々の生活にしても、そんな気がしていたようなのだ。

大学の友人の下宿の先輩がアメリカに交換留学をしているという話を聞いたとき、そんな道があったのかと思ったようだ。81年当時、まだまだ外国は遠かったし、留学など庶民には夢の夢だったから、もちろんぼくも考えたこともなかったのだ。しかし、その時、「そんな道が」と思ったために、ぼくは交換留学制度のあった法学部に進み、TOEFLを受け、4年の春には学内の留学試験を受けることになった。英語が得意ではなかったぼくはその試験で2位になり、法学部からは毎年2名選ばれていたので、これで日本から逃げられるとほくそ笑んだのだが、その直後に落とし穴があった。なんとその年から留学は1名だけになったと知らされたのだ。6月、7月と呆然として時間だけが過ぎていった。なんてことだ、これから何をしたらよいのか?

しかし、7月末になってゼミの先生から電話があり、「もう1名行けることになったけど、君行きますか?」と言う。「もちろん行きます」

そんなふうにして、ぼくは日本をしばらくさよならすることになったのだ。
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ポーランドの「連帯」25周年の25年前

2005-09-04 00:26:18 | old stories
さて、アメリカ留学のold storiesの第3話。本当は時間の順番に行きたいのだけれど、世界は動いているし、僕自身も思考は移動していく。

ポーランドのグダニスクで自主管理労組「連帯」の25周年記念ミサが行われたという数日前の報道があった。「連帯」についてはさまざまなところに資料があるから読んでほしい。89年の共産党政権の崩壊に導き、そこからチェコのビロード革命、東独のベルリンの壁崩壊へと進んでいったのは歴史の事実だ。「連帯」創立25周年ということは、もちろん、創立は80年ということになる。留学の前年にあたるわけだ。

80年頃というのは、東西対立による冷戦構造が持ちこたえられなくなっていた時期で、市民レベルからプロテストが起こってきた時期にあたるように思う。同じ80年5月には軍事独裁的な政権下にあった韓国で光州事件が起こり、痛ましい鎮圧のされ方をしている。「連帯」による民主化と呼ばれる運動はものすごい勢いで国民の3分の1の組織化にまで拡大していく。東欧では何度も「春」とか「雪解け」とかといった言葉が使われてきたが、80年から81年にかけてのポーランドでは本当に春が来るような気がしたものだ。

しかし、冷静構造のバランスが保ちきれなくなりそうな緊張した国際政治の中で、春など来るはずもなかったのかもしれない。翌年の12月のその日、ぼくはマサチューセッツの田舎にある22階立ての大学生寮の20階で、同じフロアの仲間たちと一緒におしゃべりをしていた。もうとっくに冬だったけれどその日は日差しが暖かく、なぜか本当にのんびりしていたのだ。留学の興奮の3ヶ月が過ぎて、4ヶ月目に入っていた。

そのとき、ラジオの臨時ニュースが入り、ポーランドにmartial law が発令されました、と伝えたのだ。とっさにそれが戒厳令だとはわからなかったのだが、隣の女子学生が顔を両手で押さえながら、oh, my God!と叫んだのを聞いて、ひどいことが起こったことだけはすぐにわかった。アメリカのリベラルな州の20階の寮で、女子学生が遙かに遠いポーランドの出来事に対してこれほどまでに悲しむとは驚きだった。

ぼくにアメリカについてのなにがしかの信頼が残っているとすれば、その1つの要因は彼女の嘆きにあるのだと思う。今思うと、ぼくはこんなふうにして歴史を感じていたのだ。そんなわけで、24年前の記憶はぼくを立派に歴史の中に位置づけてくれるようだ(^_^);
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アメリカの第1歩

2005-08-04 00:19:45 | old stories
81年の8月下旬、ビジネスクラスのチケットでアンカレッジを経由してぼくはJFK空港に到着した。シガーや葉巻の濃い臭いが漂う空港からシャトルバスまでの通路を歩いていくと、大男の警官が手持ちぶさたに立ちながら、掃除夫の男と話していた。何と太い声!何とドスの聞いた話し方!それがアメリカの最初の記憶だ。

そもそも日本人はふつうに話すときの声が小さい。だから、香港の義理の両親の家でご飯をごちそうになるときなど、最初のときは奥さんにずいぶん叱られたものだ。そんな小さい声で言うホウメイはおいしくないという意味だよ!(国際結婚は、こんなことの繰り返しです)

マサチューセッツ州に赴く前の数日、NYに遊んだ。天気はもう秋の透明な空が広がっていた。チャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚パレードの映像がショウウィンドーの大きなテレビに映し出されていた、それは時期からすると、録画ものだっただろう。最初はワシントン広場の近くの安ホテル、それからもう少し北上したところにあるYMCAに泊まって、ただただNYを歩き回った。明らかに旅行者の格好のはずなのに、アメリカ人が道を聞いてくるのには驚いたものだ。

写真は今はなきワールド・トレード・センター屋上からのマンハッタンの眺め。これについて何をコメントすればよいだろう?
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タイムスリップ

2005-07-29 22:36:27 | old stories
先日実家に帰ると3つの段ボール箱がまっていた。長年置いていたのだけどもう何が入っているか忘れていたけど、開けてみたらあなたのだったよ、と母親。開けてみると大学時代の本、本、本。しかし何よりも驚いたのは、もう20年も見ていなかった留学から戻ってくるときに持ち帰った記念の品々と、写真のフィルムだった。

否応なくタイムスリップがぼくの頭の中で始まる。留学先の大学の大学新聞とか、大学町の本屋のしおりと紙袋とか、町の地図とか、毎週徹夜で書かされたレポートとか、そんなものがぞくぞく出てきたのだ。そう言えば、最後のニューヨークで購入したニューヨーカーの額入りポスターは今年の1月にぼくの家の壁に復活したし、何よりも鉄製のキーホルダーは留学の時から変わらない。そうして今回はいっきにいろんなものが出てきたというわけだ。

とりわけ喜んだのは写真のフィルム。今、少しずつスキャナーでコンピューターに取り込んでいる。

ぼくはどうしてアメリカに行ったのだったろう?
ぼくはそこで何を経験したのだったろう?
ぼくの接触場面研究にはどのような制約やカタヨリがあるのだろう?

うまくいくかわからないけど、遠い夕暮れに飛び立ってみよう...
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