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フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

H変種とL変種

2008-05-28 22:58:46 | today's seminar
週の前半は素晴らしい陽気でした。

今週の大学院ではウォードハフの4章「コード選択」の前半、二言語使用社会と多言語使用社会の話でした。古典的なH変種、L変種の話から、ウォードハフは異なる言語を話す女性と結婚しなければならない民族の話や、変種の選択が必ずしも固定していない例を出しながら、現代の言語使用へと近づいていきます。

そこで、受講している留学生たちに自分の出身地では二言語使用ということがあるか、H変種とL変種があるかを聞いてみました。

最大はスリランカで、お寺ではサンスクリットとパーリ、学校ではシンハラ語と英語、タミール系の友達とはタミール語というわけです。そして英語にはわずかに接触性があるけれど、その他の言語の選択はごく自然に行われているそうです。

一方で中国朝鮮族では中国語と朝鮮語ともにH変種だけれど、最近は韓国語がH変種、朝鮮語がL変種になりつつあるかもしれないとのこと。中国語に接触性や外来性はないけれど、中国漢民族の習慣や文化には外来性を感じるというところが興味深いですね。もう1つ、朝鮮族同士で話すと、朝鮮語に中国語が自然に混ざってしまうようです。二言語使用社会、多言語使用社会というとき、その「言語」の中身には気をつけないといけないんですね。

ただし、考えるべきはここからで、では多言語使用社会と接触場面とはどのように関わっているかということなのです。明らかに多言語使用社会では言語選択は規範であって外来性の要因にはなりえないのです。しかし、朝鮮族の学生がいっていたように、言語以外の要素が「接触性」を留意させることはありそうです。

また、こうした多言語使用社会の多言語使用者と単一言語使用者との場面にはおそらく外来性ないし接触性の偏りがあるのかもしれません。多言語使用者には言語による外来性は強く留意されず、その他の要素が意識されている可能性があります。一方で、単一言語使用者からも多言語使用者のちょっとしたことばの使い方に逸脱を留意しているかもしれません。

このへん、まだだれも問題にしていないところなんだと思います。
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ハワイ・クリオールと場面

2008-05-20 23:47:45 | today's seminar
今日の大学院では引き続いてウォードハフの教科書を読んでいました。リンガフランカ、ピジン、クリオールの章でしたが、ここには伝統的な言語接触論が扱われています。あまりうまく言えなかったので、少々補足します。

本章の紹介では多くの接触言語の話が出てくるとともに、多くのピジン・クリールの起源説が扱われています。たとえば、フォリナートーク説、アフリカ下層言語説、多起源説、などなどで、最後は古典的なBickertonのバイオプログラム仮説、つまり人間の普遍的な言語習得能力の現れであって、クリオールはピジンを話す両親のインプットをもとに子供がクリオールをつくるというわけです。

別な本でハワイ・クリオールについて、当時の人口統計、新聞記事や学者の日記などをもとに1900年前後のサトウキビ・プランテーションの労働者として集まってきた中国人、ポルトガル人、そして何よりも日本人の子供の言語生活を跡づけようとした論文があったので、それを参考にしていました。そこではBickertonの説が否定されているのがわかります。つまり、両親はピジン英語を話すと言っても母語を忘れるはずもなく、子供に対しては母語で話すし、子供も両親や同胞とのコミュニケーションには母語を必要とするのであって、決して両親が子供にピジンを話すことからクリオールが出来るわけではないのだと言います。そして、年長の子供が学校で学んだ英語を自分たちの英語に変えて年少の子供に伝えることから、クリオール英語が拡がっていくとも論じています(クリオールが安定するのは第3世代だそうです)。詳細は、S.J.Roberts (2000) "Nativization and the genesis of Hawaiian Creole," J. McWhorter (ed.) Language and Language Contact in Pidgins and Creoles, John Benjamins Publushing Company, pp.257-300)です。

ここでは、マクロな考察に過ぎなかった言語接触論のピジン、クリオール研究が、インターアクションの場面研究に置き換わろうとする萌芽が見られます。さらに面白いことには、上位語である英語話者人口と下位語である移民労働者の人口のどちらが多いか、あるいは現地生まれの人口と英語話者の人口とは拮抗しているか否か、といった言語コミュニティのマクロな性格によって、ミクロな個人個人の使用の傾向がかわり、クリオールの安定化の程度も決まってくるという、ミクロ・マクロの考察も行われているのですね。

このへん、接触場面研究にも参考にしたい部分なのだと思います。
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講義とゼミ4回目のメモ

2008-05-19 00:21:31 | today's seminar
5月16日(金)は学部の講義とゼミでしたが、これで4回終了したことになります。日中、初夏のように日射しが強くなって、キャンパスが急に明るくなったようです。

講義のほうは、海外の日本語教育についての紹介。佐久間勝彦先生の論文をもとに初等中等教育の日本語教育、実益のない日本語教育の話をしました。そして重要なポイントとして日本語教育が外国では第2外国語、第3外国語として学ばれていることを少し熱く話しました。つまり第1外国語は国際語の英語である場合が多いわけで、それぞれの国が第2外国語、第3外国語を教育する制度的裏付けや国民の期待がなければ日本語教育も成立しないわけです。振り返って、日本での英語教育一辺倒は、結果的に英語以外の母語を話す国々の人々との国際理解を阻んでいると言わざるを得ないのです。日本語教育を拡げたいなら、日本でも第2外国語、第3外国語の教育を促進していかないと、論理的矛盾あるいは自己撞着から逃れられないのだと思います。

ゼミは異文化理解の3回目で、今回はグローバリズムの史的な経緯がテーマでした。冒頭でぼくはアムステルダムの町並みを見ての最初の感想は、どれだけ悪いことをしてきたらこれだけ立派なものができあがるのかだったという話をしたのですが、ほとんどの学生さんは産業革命やアヘン戦争のことを知らないのですね。ま、そうしたヨーロッパの文化や芸術の前提がどこにあるのかがわかっただけでもよかったかもしれません。しかし、こんなテーマを扱うのも今年が初めてで、個人的には刺激的です。
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言語変種か場面か?

2008-05-13 23:34:54 | today's seminar
今日の大学院の授業ではウォードハフの第2章「言語、方言、変種」について考えていました。本ではこれらの用語が指し示す現実のさまざまな言語状況を紹介しています。私も広東語の語順の例を示して北京語との比較を学生にしてもらいました。面白かったのは東北地域の留学生はありえないという反応だったのに対して、南の湖南の留学生は微妙な顔をしていたことです。広東語からの距離ということがそこに現れていただろうと思います。

さて、考察していたのは、変種と接触場面研究との関係です。変種、つまり言語から出発してその多様性を考えていく社会言語学と、場面から出発してそこでの言語生成(および管理)を考えていく接触場面研究とはどのように違うのか?

変種から出発するとき、たとえば接触場面で調整される母語話者の言語使用(e.g.フォリナートーク)は、単に内的場面の母語使用をわずかに簡略化した変種であるにすぎません。このとき、接触場面と内的場面という分類を重視する必要などまったくなく、母語を中心としながら、その外国人との対面における調整という微調整を見るだけでよいでしょう。つまり、接触場面は周辺的な現象になってしまいます。そしてこれが多くの研究者や日本語教育関係者が考えている接触場面の言語使用だと思います。

他方、場面から出発する研究では、場面がさまざまな言語使用のソースとして働いていることを重視します。ポストモダン社会においては、安定した言語規範が望めないということを前提に、母語場面でも接触場面でも、とにかく場面の参加者はそこの場面とそこでの相互作用とから、言語規範を参照したり、確認したり、創造したりして、言語を生成し、また管理していると考えるわけです。このような言語生成のソースとして考えるとき、場面は変種自体よりも重要になるし、場面の根本的な分類は内的場面と接触場面であるという指摘が重要に思えてくるわけです。

つまり接触場面研究ではそこで現れる変種自体が問題なのではなく、その変種が生成・管理される過程が重要であり、その変種の生成・管理においてどのような規範が志向され、それはどのようなグローバル化した社会の変化と関連しているのかを考えることが重要になるのだと思います。

ここからは、現在関心を持っている多言語話者のコードスイッチングのことになりますが、ここでも接触場面研究としては、コードスイッチングの機能や形式が重要となるというよりも、こうした言語レパートリーを持った多言語話者がある場面でどのような規範を参照し、維持し、変更しようとしているのかを見ることで、多言語話者から見るとポストモダン社会がどのように理解されているのかを考察することが大切になるのかもしれません。だからコードスイッチングが起きていなくてもデータは重要になります。

言語変種から出発する社会言語学と、場面変種から出発する接触場面研究は、まさに研究の立場が正反対になっているわけで、つまり接触場面研究を構想することは、従来の社会言語学の視点を逆さまにするというまさに力業だったのだと思います。
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日本語教育の枠をはずす

2008-04-19 12:01:37 | today's seminar
昨日から、学部の日本語教育方法論、日本語教育方法論演習と多文化接触論演習の合同ゼミが始まりました。

どちらもお隣の国際言語文化学科の学生さんが多く来てくれて華やかでした。合同ゼミというのは過渡的な形態なのですが、異文化接触についての理解を深めるところから日本語教育に進んでもらいたいという積年の思いが少し形になってきたというところです。こうした思いは接触場面研究に基礎をおく日本語教育においては当然の考えで、思いつきでも、偏向的なものでもないのですが、日本語教育の世界でも、また日本語教育を知らない人にとってもまだまだ新奇に思う人もいるようです。

だから、こうした日本語教育や異文化接触については異文化に関心があったり経験をしたことのある学生さんだと、理解は早いのです。彼らは自分の直面した世界を理解したり、考えたり、整理したい気持ちが強いのだと思います。

ゼミはそうした異文化接触の理解から出発します。去年までは「日本語教育」という枠がどうしても嵌められていたし、自分自身も学生さんにそうしたことを知らず知らず強調していたのだと思うのですが、枠を一度はずしてみるとどうなるか見てみたいのです。

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送る会

2008-02-20 23:07:39 | today's seminar
今日は久しぶりに寒さが弛み、太陽の光の暖かさが空気の暖かさのおかげでわかりました。いろんな雑務をしていましたが、夕方からは送る会ということで修士を終える二人を招いてお祝いをしました。

いろんな話をしましたが、学部から大学院までの勉強で一番忘れられないのは3年生のときのゼミの共同研究だったという話が出ました。彼女たちの期はとても元気な人が多くて、共同研究のテーマを決めるだけのために延々と何週間も議論をしたのです。私は、ゼミなんだからお互いに議論をしないで理解しあうようなことはやめろ、とけしかけたのですが、彼女たちはもう意地になったみたいに自分のやりたいテーマとその理由について妥協しなかったんですね。こっちも何週間でも決まるまでやると心に決めていたので、何というか伝説のような共同研究が起きたのだと思います。最近流行のシラバスの予定を最初から決めて動かさないといった北米流の授業システムでは、とうてい起こらなかったんじゃないでしょうか。

いつか元気な学生がそろったらまたやってみたい気持ちはあります。
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ゼミも今年度終了

2008-02-02 23:57:18 | today's seminar
昨日の金曜日は大学院の合同ゼミも終了し、その後、学部ゼミの学生さんも合流して、卒論・修論の反省会などをお菓子を食べながらやって解散しました。学生さんたちは果たして自分の中に光る石を見つけたでしょうか?

特に修士論文を提出した前澤さんとキムさんは学部からずっと勉強をしてきた人たちで、キムさんが言うように今日が6年間の最後の授業となったのでした。二人ともひとまず大学を出て、仕事へと進んでいくわけですが、研究がしたくなったらまた戻ればいいのかなと思います。

知らず知らず私などは毎年の教育と研究のサイクルの中にいてそれが当たり前になってしまっているのですが、彼女たちが出発しようとしているのを見ると、新しい展開に積極的にならなくてはいけないという思いを強くします。

ゼミの終了のとき、こんなことを思うのも落山の効果かもしれません。
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日本語教育学を異文化接触の社会言語学をもとに構想する

2008-01-16 23:31:59 | today's seminar
昨年の10月から千葉大の日本語教育学の将来について考えを温めていました。とりあえず、自分の中ではある程度までまとまった気がするので、忘れないように書いておきます。さて、うまく書けるかな...

日本語教育学という分野はまさに学際の極みで、教育学、日本語学、応用言語学、そして実践的教育指導、などのさまざまなアプローチからの研究や実践が行われてきました。逆に言うと、ほとんどのアプローチは日本語教育学に固有の学問領域というよりも、それぞれの寄って立つ分野の応用といった面が強いように思います。

それでは、固有の領域はないのか?ま、ないのかもしれないのですが、私が思っているのは、接触場面に端を発する異文化接触研究こそその領域の有力な候補ではないかということです。それは、ネウストプニー先生がかつて言ったように、日本語教育は、接触場面で外国人と日本人がどのようにどのように日本語を使い、どのようなインターアクションをしているか、というその現場から出発すべきだという考えに立っています。

つまり、どのように教育すべきか、日本語とはどのような言語か、というのも大切だけれども、日本語教育学の中心に置くべきなのはこの異文化接触の場面なのだと思うのです。

千葉大の日本語教育学において、私は、こうした異文化接触の理解と研究を土台にして、日本語教育について学んだり、研究を進めたりする学生を育てたいと思っています。ですから、学生さんには外国人の生き方や外国語によるコミュニケーションに強い関心をもってほしいと考えています。

そんな安易な考えで日本語教育が出来るか、なんて叱られるかもしれないのですが、だんだん育ってきて海外で教え始めている若き日本語教師の皆さんを見ると、私の考えは間違っていないと少しだけ自信のようなものが持てる気がしています。日本語を教えることの前に、相手ときちんと向き合うことを前提にして(これ以外に異文化接触の基本はないでしょうし)、日本語を教え始めている姿が何とも嬉しいのです。

異文化接触は、しかし課題が山積しています。たんに外国人とコミュニケーションをする場面を理解すればよいというわけではないと思います。たとえば、その外国人とはどんな人なのでしょうか。もしかしたら出身国ではマイノリティかもしれません。あるいは多言語使用者かもしれません。中国帰国者だっているのです。だから、異文化接触の研究は、社会言語学の基礎の上に、言語使用、コミュニケーション、インターアクションについて考えていきますが、他方では多くの社会研究や文化批判ともつながる可能性を持っているわけです。

私はそうした異文化接触の社会言語学をコアにしながら、さまざまな開かれた学問とのネットワークの中に、千葉大の日本語教育学を構想したいと思います。
(あ、なんか青年の主張っぽくなってしまったので、これにて終了!)
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バージョン・アップ

2007-12-22 23:34:18 | today's seminar
昨日で今年の授業は終わりでした。

今は来年度のシラバスを考える時期です。千葉大に来て、ネウストプニー先生の時代に作られたカリキュラムのままちょうど10年が経ちました。そこで、来年度からは担当している日本語教育関連の科目を日本語教育の科目と接触場面研究の科目とに整理してみようと考えています。今までは日本語教育の科目で接触場面の話ばかりしてきたので、どちらも中途半端な感じだったんですね。ま、私1人だったので仕方がなかったわけですけど。バージョン・アップというわけです。

そんなことを考えていた矢先、今日は娘のピアノの先生から、そろそろもう少し上のレベルの先生にかわることを考えては?と言われました。5才の時からずっと教えて頂いた先生なので、先生をかえるなんて考えられないのですが、娘もそろそろバージョン・アップならぬレベル・アップを考える時期なのだそうです。

そう言えば、この間は6年前に購入した車の代理店から、そろそろ買い換えはいかがですか?と言われましたっけ。残念ながら、こっちのほうは先立つものもなく、結構気に入ってもいるので、バージョン・アップは当分ないなあ...
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インターアクション能力のための日本語コースデザイン

2007-12-19 23:18:09 | today's seminar
今日の学部授業で今年の講義はおしまいです。

今年は変則的に後期に2コマ連続でやっていますが、12月から後半分を始めて、その5,6コマ目というところ。今日まですべてコースデザインということで話をしてきまいたが、本日はモナシュで開発にたずさわっていた上のコースデザインについて話をしました。1時間も使って話すのはじつは初めてのことなのですが、自分なりに過去に仕事の意味を吟味することにもなりました。

このコースはインターアクション能力ということもさることながら、接触場面を中核においたことで記憶されるべき仕事でした。

すでに有名になったように、学習者はインターアクションをするのは接触場面においてです。これは初級の時から上級まで変わらない事実でしょう。つまり、初級の学習者であっても、教室の外に出れば、接触場面に遭遇しているということです。そうであれば、遠い将来の日本語使用を保証するより、現在の接触場面でインターアクションを促進したり、そこでの言語問題に対する対応を支援したりすることが合理的であるし、倫理的ですらあるわけです。

モナシュのコースは以上のような認識のもとに、学習者が今現在遭遇している接触場面を取り上げてそこで必要となるインターアクション能力を教育しようとした、知的な試みだった、そう思います。

(それにしてもまだ思い出すのは、コピーしたばかりでまだ熱いその週のテキストを先生達に急いで渡しにいく、自転車操業の日々ですね。あの熱い紙のことはなかなか忘れられません(笑))
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