フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

梅雨の韓国行きその2

2010-07-05 00:13:02 | research
講演の後は、大学を出て、太田(デシュン)で先生達と会食し、太田市の外れ、儒城のホテルに一泊。

朝、ホテルで朝食をとる前に少しだけ散歩をした。マクドナルドでもあったらそこで朝ご飯を食べようかと思っていたのだが、周りにはなくて、地元の人が買いに来るお総菜屋くらいしかない。ちょっと覗いてみたけれど、がんばる意気地がない。それでホテルの前に立つセブンイレブンのコンビニに入った。

とりあえずお茶を買い、それから韓国で売っている即席麺は果たして日本で売っている韓国即席麺より辛いのかについて研究するため、二食ほどデータとして購入。レジに行ってお金を払うときにThank Youと言ったら、店員の若い女性が外国人とは思っていなかったみたいでほんとうに驚いた顔をしてみせた。ぼくもカムサハムニダと外国人としてもう一度言うと、ようやくお互い、にこにこすることができた。これが一人で会った日本語を知らない韓国人との心温まる出会いだ。

朝食後はお昼過ぎまで金さんの案内で太田観光。国立墓地で10代大統領である崔大統領の墓を表敬。奥さんも交えて食事。2時過ぎに韓国の新幹線KTXにのって、ソウル近郊の光明まで行き、そこで待っていてくれた非常勤のチョン先生の誘導で、仁川までのバスに乗った。というわけで、ほとんどが金さんの計画通りにぼくは韓国を歩いたことになる。いやいや接待も大変だったろうと思うけれど、じつに感謝である。

バスを待つ間、ベンチに腰掛けながら、ぼくとほとんど同年代のチョン先生と話をした。チョン先生が研究テーマとしたのは16世紀の日本語と韓国語の影響関係を授受表現について検証するものだったそうだ。だから大学の大きなポジションはないし、学生にも人気がないのだとぼそぼそと話してくれた。役立たないからねと笑っている。そして一回りも違う奥さんとの日本での出会いについても話してくれた。ぼくにはよく彼の話がわかった。やってきたバスに乗り、手を振った。

短い梅雨の韓国行きはとくに何があったわけでもなくこのようにして終わった。

写真は仁川空港に向かう長い長い橋のゲージュツ。じつはこの先のほうで2時間前、べつのバスが転落したのだが、こちらのバスはたくさんの警察や見物の車が止まっている横をすり抜けてぶじ空港に向かった。亡くなった方々に黙祷。



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梅雨の韓国行き

2010-07-04 22:34:05 | research
1日から2泊3日で韓国・金剛大学に招待されて行ってきた。

金剛大学はまだ新しい大学で、千葉大卒業生の金昌男さんとのかかわりで、何人も留学させてもらったり、教師として雇ってもらったりしていて、関係が深い。韓国の大学はすでに夏休みなのだが、日本語の夏季集中プログラムが行われ、その中で話をしてくれということだった。

今年1月に行ったばかりの仁川空港だが、今回は一人旅。そこから南下して忠清南道の天安(チョナン)まで2時間ほどバスに乗り、迎えに来てくれた金さんの車で論山に近い金剛大学まで移動した。途中、もう夕方になったので、公州(コンジュ)の鄙びた山のふもとのレストランで韓式の食事をする。公州はその昔、百済の都だったところ。木造で昔風の個室に座って、外の自然を愛でながら、栗の入ったマッコルリを嗜むという風雅なもの。一緒に来てくれたチョン先生は集中プログラムの非常勤で来ている人で、金さんと同じ時期、神田外語大に留学していたとのこと。梅雨のまっただ中で月は見えなかったが、山の多い韓国ではこうした食事の仕方に人気があるようだ。

韓国にも梅雨はある。仁川空港も靄の中だったが、論山(ノンサン)に近い大学のあたりもじっとり蒸し暑く、雨に濡れていた。大学は鶏龍山国立公園の山の南斜面に建っていて、緑の中に沈んでいる。

翌朝、大学の中を見学させてもらい、その後、総長との会見、そして総長や日本語関係の先生方との昼食(ここもやはり風流なところだった)。金剛大学はまだ発展途中で校舎自体は1棟しかないので、総長はよく先生達と食事をするとのこと。ぼくは食事中から体調不良になり大学に戻ってからしばらく自室で休憩。それから何とか立ち上がって学生達のいる教室へ。今日はドラえもんのアニメの日本語の吹き替えを6グループで演じてコンテストをするというプロジェクトの発表になっていて、プロジェクターに映るアニメに合わせて、グループでマイクを使って吹き替えるわけだ。もう大騒ぎで、叫び声や、悪役の笑い声などじつにうまくまねて楽しかった。

そんな楽しいコンテストの後なので、1時間ほどのぼくの話はまあちょっとしたcooling downといったところだろう。じつはふらふらだったのだけど、力が抜けただけ、口も軽くなったみたいで、なんとか終わりまでいけた。

学生達は優秀な成績で授業全学免除でこの見渡す限り山と農村の拡がる大学に入り、外国人をルームメイトにして4年を過ごすことになるわけだ。そのうち、1年は留学する者もいるが、ほとんどはこの小さな大学の中で育てられる。日本の大学ではすっかり大学生自身に任されているわけだが、ここでは大学がそうした教育まで引き受けているのだと思う。アメリカの大学の寮生活にもそんな傾向があるが、大学の先生と学生仲間の中で成長していくというのは、忘れていた1つの教育の型だった、そんな気もしたのだ。


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陽気に誘われて

2010-05-16 10:19:35 | research
土曜日は陽気に誘われて久しぶりに祭りの町の通りを歩く。

町が出来て15年にもなると並木もだんだん木らしくなってくる。鬱蒼と葉のつまったトチノキのあちこちに時期的にはすでに盛りを越えたピンクの花が咲き残っている。白の花は見当たらない。以前に町のいろんな活動に顔を出していた当時の懐かしい顔に出会う。皆さん健在。その昔、何年も祭りの実行委員長をやっていた人に通りで出会ったが、旅行かばんをもっていて今韓国の出張から戻ってきたとのこと。ホールで娘の吹奏楽部の演奏を聴いて、歩行者天国になった通りを歩いて帰宅。この乾燥した明るい陽気のまま6月を迎えられたら、それはウィーンと同じなのだけど、極東ではそれは望めない。

今週は何通も推薦状を作ったり、直前になって講義の内容を変えたりと、相変わらず余裕のない1週間だったが、受講生も固定してようやく今学期も港を出て海に乗り出した気分。さて今学期はどこにたどり着くのやら。

大学院の授業ではまたウォードハフの教科書からピジン・クリオールの章。地震の後、詳しい情報が来ないハイチの有名なハイチ・クリオールの話や、追加でハワイ・クリオールの研究などを紹介しながら、ピジンやクリオールとは違うけれども、たとえば日本に定住する外国人が増えてきている中で彼らの言語変化(言語使用、言語維持、言語習得)と彼らが住む社会環境・社会的な位置づけについて考えたり調べたりするためのヒントがここにあるのではないかといった話に発展する。

空いている時間で教室のfootingの分析をすすめる。大きく分けると、談話管理的なfooting(開始を表示する、脇の話題を挿入する、引用する、など)と相互作用的なfooting(共感を示したり、私的な評価を示したりする)とがあるということを確認したところから、ほんのすこしすすめる勇気が出てきたところ。
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多文化接触からイラン系移民まで

2010-04-24 22:26:07 | research
新学期2週目。今週は一昨年からはじめた「多文化接触論」の枠組みについて話すことになり、いくつか手元にある文献を読みながら考えていた。以下、3論文について覚え書き。

住原則也ほか(2001)『異文化の学びかた・描きかた』世界思想社 その1章

この論文では、ぼくも新版日本語教育事典で書かせてもらったけれど、グローバル化がもたらす共通化とその反応としての固有化の話。つまりグローバル化が地球全域に拡がっていくだけでなく、かならずそこに抵抗や伝統の再編成やノスタルジアが生じることがわかりやすく語られている。そして固有化を認めた途端に自国内の多様性・異質性もまた認めなくてはならなくなるのが論理的な帰結であることも指摘している。

丸山真純(2007)「「文化」「コミュニケーション」「異文化コミュニケーション」の語られ方」伊佐雅子監修(『多文化社会と異文化コミュニケーション』三修社

丸山氏の論文はこの教科書の最後に載っていて、もしかしたらそれまでの章で書かれていることを批判しているのではないかと思うのだけど、コミュニケーション・モデルの中でノイズとして捉えられる異文化コミュニケーションに対して、構築主義的な異文化コミュニケーションを主張したもの。接触場面研究でもよく「円滑なコミュニケーションのために」という言葉を使ってしまうことがあるが、ぼくにはいつもひっかかるものがあった。丸山氏はそれが結局、固定したコードを共有した集団のコミュニケーションを良しとする前提から来ていることを明かしている。その他にも論点盛りだくさんで、たとえば参加者の文化が異なるからコミュニケーションに影響を与えるのではなくて、異文化コミュニケーションを行ってから自文化、他文化が意識される。つまりコミュニケーションが文化を構築していく、など明瞭に表現してくれている。

小林悦夫(1993)「第2言語としての日本語教育の課題」『中国帰国者定着促進センター紀要』第1号

これはずいぶん前の論文だけど、ここで提出されている「第2言語として」、つまり日本で人生を送ることになる外国人居住者(ただしここでは中国帰国者)のための日本語教育という文脈について、これ以上の深みと精緻さで論じているものはないように思う。つまり、小林氏が提起した問題はいまだに日本語教育で熟考されていないという気がする。田中望さんの影響があるのだと思うが、同じように影響を受けている人々に比べて、とてもバランスの良い見方をしている。外国人を受け入れるということに対する日本社会のさまざまな感情が解きほぐされている。



久しぶりに熱の入る授業をいくつかしてすっかり筋肉痛になる。

今日は新宿まで言語政策学会の会議に出かけた。昨日と打って変わって陽気が戻る。

定例会のほうでは丸山英樹氏(国立教育政策研究所〈NIER〉)による「欧州の社会統合政策に見る言語と文化ートルコ系移民を中心にー」の話。最後のところで丸山氏がさまざまなトップダウン式の言語政策には限界があるのではないか、複言語を学習しようとか、少数言語話者の権利保障とか、上からの視点から政策をかかげても、個人の選択や意図が残ってしまうのではないかという問題提起が面白かった。要するにトップダウンの言語政策よりもボトムアップの言語政策を模索する必要があるという指摘なのだろうと思い、質問をしてみたら、ボトムからアップさせる必要があるかどうかも考えるべきではないかと答えてくれた。つまりインターネットも含めて横のつながり(ネットワーク)のほうがずっと強力であって、トルコ系(じつはイスラム系)移民の例を見ていると、国による政策のほうが後手にまわってどうしたらよいかわからない場合が一部に出てきているという。これは1つの視点である。
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第22回言語管理研究会

2010-01-23 21:40:22 | research
今週は中国東北部を訪ねる調査旅行を敢行し、木曜日の夜に帰国。その話はまたのちほど。

今日は言語管理研究会の定例研究会を神田外語大で開催する。当事者の語る接触場面の変容というテーマで、昨年11月末に韓国人研究者とブルガリア研究者に話をしてもらったが、今回は子供の頃に海外に渡って(あるいは、海外で生まれて)そこで育った人々の言語経験と言語使用を対象に伺うことにした。話題提供者は以下の二組。

1. 竹内 明弘氏(国際大学大学院国際関係学研究科)
2. グエン・フィン・カム・チー氏(神田外語大学の学生)、 グエン・コン・フィ氏(大東文化大学の学生)

竹内先生はメルボルンにいた頃に、大学院生だった方で家族といっしょに来豪し、娘さんお二人は当時4歳と6歳だったが、今は大学を卒業して、メルボルンに生活の基盤を作っている。英語優勢の二言語併用者というわけだ。もう一組は、一方はご両親の来日後に日本で生まれた学生さん、もう一方は8歳のときに両親とともに来日した学生さん。どちらの組の場合にも、すでに主流言語の母語話者と呼んでもよい段階に入っていて、ベトナム人の学生さんたちにとって日本語を使う場面はもはやほぼ接触場面ではない。メルボルンに住む姉妹も英語の母語話者の段階に入っていて、英語場面は何の苦もない。もしあるとすればそれは未経験の場面であるか、それとも権力が働く場面かなのだろうと思う。

言語管理が強く意識されるのは自分の母語であるはずのベトナム語使用であり、日本語使用の場面にある。それも、もっとも違和感を感じるのは(逸脱を留意する)、ベトナム語を使う日本人との場面であり、日本語を知っているオーストラリア人との場面だと言う。相手がどのくらい自分の母語を知っているのか、相手の方が自分の能力よりも高いのではないかなどの事前留意があって、おそらくは基底規範が安定しないのだろうと思われる。

相手言語接触場面のはずが、共通言語接触場面化ないしは第三者言語接触場面化しだして、そこに母語話者の不安がさらけ出されてしまうのか?

ともあれ、話題提供をしてくださった二組の方々にお礼を申し上げます。
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朝鮮族研究学会国際大会を覗かせてもらう

2009-12-12 22:48:35 | research
前回にもちょっと触れたように、1月中旬は中国東北部を訪ねる予定で、今日はたまたま目白大学で行われた朝鮮族研究学会国際大会に参加させてもらうことにした。

中野に近い東西線の落合駅までは、じつは僕の住む千葉からは1時間あまりで行くことができる。10時からの大会だったが、10分前に駅につき、そこから10分ほどを歩くことになる。駅から地上にあがると、そこは首都高中央環状線の坂道になっていて、いつか作るつもりの環状線の脚なのか、ゴミ焼却センターの煙突のような四角い塔がその道の真ん中にどん、どんと立っているのが見えた。へーと思っていると、後ろからものすごい人数の年配の一団が追い越していく。みな、リュックを背負っているのと、なにかタグをつけているので、町歩きツアーだったかもしれない。歩くのも速くて、かなり迫力あり。

信号のところから狭い道に曲がって住宅地に入っていくと、そこは古い家と新しい家が混在する不思議な風景が続いてる。コンクリート打ちっ放しの家があると思えば、木造の住んでいるのかいないのかわからない家や、昭和の雰囲気絶大の歯科医院があったりする(写真参考)。そんな家並みが坂道の両側に続いているわけだ。この坂道は名前がついているようで、江戸時代の地図を見たら、もとの姿がわかるのかもしれない。

ようやく目白大学に到着して、学会で手続きをすませる。面白いのは参加料にお弁当がついていたこと。ぼくは午前の研究発表の分科会が終わったらすぐに帰ることにしていたので断ったのだが、たしかに住宅街にあるから、こんな気づかいも必要なのかもしれない。朝鮮族研究学会を運営しているのはどうやら日本に住む中国朝鮮族の研究者や経済関係の人々のようだった。スライドや資料は日本語で示されていたが、発表自体はほとんど朝鮮語(韓国語も?)で行われていた。

ちょっと遅れて入った最初の発表は、貿易関係の研究所の人で、延辺自治州と新潟のニット産業の小さな町の経済関係の事例を報告していた。延辺はまさに中国の辺境にあたるが、そこは海に近く北朝鮮にもロシアにも近いために、経済開発がさかんな場所でもあるらしい。朝鮮族の文化資本をどのように利用すべきか、なんていう政策的な発表もあった。韓国の高麗大学の学者は到着が遅れてその分科会自体のスケジュールがめちゃくちゃになってしまったのだが、滔々と北京郊外の朝鮮族在住地域の社会経済的な調査を報告して、中国籍でかつ朝鮮語を使用できる朝鮮族の経済的優位について話していたのが印象に残っている。

文学研究のコメンテーター役の研究者は、私たちは3言語を所有しているのではなく3言語に所有されているのだ。だからアイデンティティといった閉じた系をもちにくく、むしろ3言語に開かれた系を持っている、なんて発表者の研究とほとんど関係のない話をやっていた(この研究者だけ日本語だったので理解できたわけだ)。高麗大学の学者の話にもこれは通じている話なのだろう。

残念ながら朝鮮語がわからないので延辺の知識はあまり増えなかったけれど、日本には5万人の朝鮮族と自分を考えている人々が住んでいて、その中には研究者もビジネス界の人々もおり、そして国際大会をも運営するほど学会活動は活発な様子だった。そう、活発で明るい、それが大会を覗かせてもらった印象だ。
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第21回言語管理研究会

2009-11-30 23:39:40 | research
しばらく間が空いたが、そんなときは内向きの仕事か外向きの仕事が入っているときで、両方重なると、ブログのぶ~の音も出なくなる。

さて、先週末は10月から始まった言語管理研究会の新年度最初の研究会を開催した。「当事者の視点から考える接触場面の変容」というテーマで、今回は韓国出身とブルガリア出身の研究者にお願いして、日本での言語生活や言語問題について話をしていただいた。お二方ともものすごい日本語のレベルで、明らかにぼくよりも日本語能力が高い!日本での研究や教育を日本人並みに求められながら、そこに多くの思惟に基づいた事前管理が行われていることがはっきりとわかった。

遅いお昼ご飯を参加してくれた方々と話していて面白かったこと、研究会でも出ていたが、1つは日本の社会では何者か、どこの出身かがつねに気になる文化だということ、もう1つはバルカン半島の人々が外国語を母語話者並にマスターしなければ気が済まないということ。

最初の話は、韓国出身の先生とかかわるが、自己紹介をする機会がないままだと自分がじつは韓国人であることが気づかれないためにへんなことになるということで、韓国でも同じだが、どうしても自分が外国人、非母語話者か、何国人か、といった属性や出自などのカテゴリー情報がコミュニケーションをするために必要になるということなのだ。アメリカやヨーロッパではそうした出自は、じつは問われないし、その情報がなくてもコミュニケーションに支障は起きない。ポストモダン化が進んでも日本では同じように出自が必要とするだろうか?

2つめの話は、以前にぼくが行ったブルガリア出身の調査協力者の話に関連する。今回の研究者と同じ言葉が、その調査協力者からも聞かれたことから、どうやらそうした外国語意識はバルカン半島の人間の最後の砦になっているらしいということなのだ。今回の研究者によると、バルカンが西と東の民族の移動によって蹂躙される中で、民族の生き残る最後の砦は言語だったし、それは母語だけでなく、高い外国語能力を求める意識にも関連しているのではないか、とのことだった。もし同様の傾向がバルカンの人々に見られるとすれば、ぼくの調査協力者の多言語使用の管理も、プライベートな管理とだけは言えない背景があったことになるわけで、数年ぶりの謎解きに出会った気がしたわけだ。

懐かしい顔もみえた研究会、また新たな旅に踏みだそう。
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言語管理研究会第20回定例研究会の開催

2009-07-18 23:14:31 | research
昨日は言語管理研究会第20回定例研究会を神田外語大で開催。いつのまにか20回です。もちろん、前身の研究会から数えればその倍にはなるが、「言語管理研究会」となった2006年10月から数えるとこういうことになる。

日差しはごく弱いのだが、湿気が強く、へばるような暑さ。

前回から引き続いて、今回はファン(神田外語大)、高(千葉大)という中心メンバーによる研究方法についての発題があって、30名近くの方々の参加をいただいた。接触場面の分類から一時期止まっていた研究だが、一昨年の多言語使用、昨年からの接触場面の変容とすすめていく中で、各地域の出身者に的を絞っていくことで必然的に場面研究はさらに具体的に多様な姿を現し始めていると感じる。

・当事者にとって接触場面は所与の事柄ではない。NS-NNSが参加すれば接触場面であるというのがまったく事実ではないのと同様に、異なるスピーチコミュニティに属する参加者だからと言ってつねに同等の資格で出会うわけではない。
・初めて外国の地に立った人、ずっと文化度が高いと信じられている外国に来た人などは、外来性を感じても逸脱として留意することは抑制されてしまうかもしれない。(以上、高発表の私なりのまとめ)
・外来性は必ず逸脱となるわけではない。例えば、多言語社会で常時、多様な接触場面に参加している場合、多言語という外来性はunmarkedであり、単言語はmarkedになる。
・多言語使用において、言語間、言語バラエティ間の社会的位置づけ、そして個人要素(年代、背景、教育、etc.)とが、それぞれの外来性の強さや重要さに序列をつくり出しており、管理の方向付けに影響を与えている。(以上、ファン発表の私なりのまとめ)

研究方法とは、つまるところ、どのような視点で何をみるのか、それによって何がわかるのかといった研究のデザインを意味する。接触場面の変容をとらえるために、どこにどの深さでアンカーを打つか?

そろそろその試投の時機も終わりに近づいているという気がするわけだ。
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第19回言語管理研究会

2009-06-06 23:40:24 | research
今日は雨の残る午前中から千葉大で言語管理研究会定例研究会。

「変容する接触場面」をテーマに方法論の現在についてディスカッションを行う。今回は外からの参加が多く、かなり集中した議論ができたと思う。方法論に特効薬があるわけがないけれど、調査地や対象者、そして収集データから何がわかるかを予想することは大切だ。

ぼくはこの場所で書いたようにディスコース、つまり具体的な場面の相互作用とそこでの意識からどのように方法を組み立てていくかを考えることにしたが、そうしたアプローチにはある種の矛盾があることもたしかだろう。場面研究としての接触場面研究では、どうしてもその場面のユニークな性格を重視するし、その場面のできごとを完結した系として取り扱いがちだ。ぼくらはそうすることで体系を取り出すことが可能になるわけだ。だから、その完結した系を崩して、他者とのつながり、社会とのつながりを探すことは、体系化を一度あきらめることを意味する。

しかし改めてその矛盾を眺めると、やはりその矛盾は魅力的で、完結させないことの意義は十分にある。
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ミクロがマクロを包摂する

2009-05-27 23:49:53 | research
月曜日は立教大の先生が研究室を訪ねてくれて話。NSWの蘇舛見さんからの紹介。多文化共生派の悪口をちょっとだけ。

今日は異文化間コミュニケーション論の講義をお願いしている非常勤の先生と食事。実践的なアプローチで異文化に対する感受性を育てると同時に自分に対する内省を促すことを重視しているというお話。自分を知る努力のことを内省と言っているわけだが、知ることと内省とをつながなければならないことはいつも感じていることだとは言え、それはその場その場で内省を促すだけではだめで、やはり一人一人の予測しようのない成長とともにあることを思い出させてくれて新鮮だった。

国境を越えて移動する人々はどのように接触場面をとらえ、そこのコミュニティに参加しているのか?

こうした疑問を考えていくためには、接触場面におけるディスコースの相互作用と言語管理を見ていく以外に、どのような視点や方法が必要なのか?とくに社会的な作用やコミュニティの慣習、あるいはその人の半生の言語環境など、いわばマクロな要素はどのように扱うべきかを考えていた。(次の言語管理研究会の準備です)

一番はっきりとわかることは、ディスコースの相互作用の中には社会的な影響や個人の言語態度などが見つけられるが、マクロな要素の中にはディスコースの言語管理は見つけられないということだ。つまり、実際の接触場面で参加者が何を感じどのような相互作用を行おうとしたかという中には、参加者が相互作用にどのような態度で向かおうとしたかとか、そこで用いられる基準が社会のどのような相と関連しているのかとか、そもそも参加者の言語管理のあり方はどのような社会的制約に基づいているかとかいった局面が分析できるように思われる。しかし、マクロな言語政策をいくら眺めてもそこにはディスコース上の言語問題を予測させるものはぼんやりとしたもの以外は見つけられないように思うのだ。だから、ここではマクロがミクロを包摂するのではなく、ミクロがマクロを包摂しているという逆説的な状況があることになる。

ディスコースの相互作用に言語問題の基礎がある(ネウストプニー1995)ということの意味はここにあるのかもしれない。
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