礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

皇国将来ノ興隆ヲ念ジ隠忍自重(大陸命1385号)

2021-08-26 01:37:13 | コラムと名言

◎皇国将来ノ興隆ヲ念ジ隠忍自重(大陸命1385号)

 河辺虎四郎『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』(時事通信社、一九六二)から、第五章「大東亜戦争」の第六節「マニラへの使節」を紹介している。本日は、その三回目。

 この会同の席へ、海軍側からの情報が入って来た。それによると、厚木飛行基地にある海軍飛行部隊は、終戦に激昂していまなお乱暴を働き、海軍中央部側からの説得などに耳を傾ける気色もなく、今日も、木更津でマニラ行き一行の乗用機の試験飛行がなされたとき、厚木の戦闘機がこれを追っかけていた。何をしでかすかも知れんというのである。
 陸軍では、私ら一行の搭乗機が、先方側の指令による、白塗青十字の塗装をしているので、敵機と誤認して攻搫して来る防空戦闘機があるかも知れんとの考慮から、明十九日われわれの飛行機の行動について、航空隊一般に通諜しておいた。ところが海軍では、前記の危惧もあるので、故意に通諜することを控え、むしろ秘密扱いにされていたのであった。
 右の情報によって、会談間に、私ら一行の明朝の出発時刻を一時間くりあげて、午前六時木更津を出ることにしたらよかろうとの意見が出て、大勢はこれを可とする空気が見られたが、私自身は 頑としてこれに反対し、予定の時刻を固執した。私のいうのは、〝私は日本の陸海軍の将校に、そんな阿呆はおらぬと信ずる。そんな者がいるかも知れんと心配して、いままで七時出発を基準に、基地や機材の準備をしつつあるのを、急遽変更することはよくない。万一そうした狂人がいて、それに撃ち墜されても私はかまわぬ。また、この降伏軍使がそんな理由で一日二日遅れようが、大局上何の支障もない〟との意味であった。これで時刻変更の案は消えた。私は宿舎に帰った。
 十八日つぎの大命が出された。
《   大陸命第千三百八十五号
 一、別ニ示ス時機以降、第一総軍司令官、第二総軍司令官、関東軍総司令官、支那派遣軍総司令官、南方軍総司令官、航空総軍司令官、第五方面軍司令官、第八方面軍司令官、第十方面軍司令官、第三十一軍司令官、小笠原兵団長及参謀総長ニ与へタル作戦任務ヲ解ク
 二、前項各司令官ハ同時機以降一切ノ武力行使ヲ停止スベシ 
 三、詔書渙発以後敵軍ノ勢力下ニ入リタル帝国陸軍軍人軍属ヲ俘虜ト認メズ
 速ニ隷下末端ニ至ル迄軽挙ヲ戒メ皇国将来ノ興隆ヲ念ジ隠忍自重スベキ旨ヲ撤底セシムベシ》
 また中国における停戦協定について指示せられた。
《   大陸指第二千五百四十五号
 大陸命第千三百八十二号ニ基キ左の如ク指示ス
 支那派遣軍総司令官ハ戦闘行動ヲ停止スル為局地停戦交渉ヲ実施スルコトヲ得
 此際ソ軍ニ対スル交渉ニ関シテハ関東軍総司令官ト密ニ連絡スルモノトス》 【以下、次回】

「大陸指第二千五百四十五号」は、その中で「大陸命第千三百八十二号」に言及しているが、河辺虎四郎『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』の第五章「大東亜戦争」第五節「尊き犠牲続く、聖旨通達の御処置」は、すでに、「大陸指第千三百八十一号」、「大陸命第千三百八十二号」、「大陸命第二千五百四十四号」の引用・紹介をおこなっている。
 ちなみに、「大陸命第千三百八十五号」で示されている司令官等の実名は、次の通り。第一総軍司令官・杉山元、第二総軍司令官・畑俊六、関東軍総司令官・山田乙三、支那派遣軍総司令官・岡村寧次、南方軍総司令官・寺内寿一、航空総軍司令官・河辺正三、第五方面軍司令官・樋口季一郎、第八方面軍司令官・今村均、第十方面軍司令官・安藤利吉、第三十一軍司令官・麦倉俊三郎、小笠原兵団長・立花芳夫、参謀総長・梅津美治郎。このうち、航空総軍司令官の河辺正三は、河辺虎四郎の実兄である。

*このブログの人気記事 2021・8・26(なぜか10位に土肥原賢二)

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既にわれわれは「休戦の談判」を放棄している

2021-08-25 02:16:14 | コラムと名言

◎既にわれわれは「休戦の談判」を放棄している

 河辺虎四郎『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』(時事通信社、一九六二)から、第五章「大東亜戦争」の第六節「マニラへの使節」を紹介している。本日は、その二回目。

 随員の任務嫌わる
 陸軍内で随員をとるために私をてこずらしたのは、指名された一部の者が「恥辱」のこの任務を引き受けることを欲しないための拒否的態度であった。非常に気合いをかけていた若手連に対して、その心事を私は、深く咎める〈トガメル〉気持ちになり得なかった。むしろなだめすかして、私自身と同様の気持ちになってくれることを望むだけであった。彼らのある者はもはや「上官の命令」そのことすらも、拒否して、自決するとも降伏軍使団の一員たるの任を免れようとする気持ちにあるのであった。私とても中佐や大佐であったら、そんな気持ちになったかも知れない。もしも逆に景気のよい使者であったら、どれくらいの多くの志願者があることであろうかと私は思った。さしあたり私などはそうした任を課せられそうにも思われない。
 出発の前日午後から夕刻
 十八日午後私は内閣に行き、外務、海軍の随員諸氏とも会し、更に一応任務の研究をした。外務側ではある種の署名を義務付けられるかも知れんとの判断をしていたが、結局、現場で私が適宜善処することに話をきめた。
 この打ち合わせがすんでから、総理〔東久邇首相宮〕から天皇の親任状を手交せられ、また、一同に、〝この際ははじめて敵地に使する一行の労を多とする。しっかり頼む〟との意をもって激励された。
 私は随員一行に対し、親任状を朗読披露して、一行の十分な支援を請う旨の挨拶をした。夕刻陸海軍の一行は参謀本部に集まり、梅津〔美治郎〕総長と豊田〔副武〕総長列立〈レツリツ〉の上、統帥上の命令を受けた。
 そのあと、両総長が主人となり、冷酒の乾杯をもって送別の意を表された。
 梅津総長は待別に私を呼んで、辛労をねぎらう意味の懇ろ〈ネンゴロ〉な言葉を与えられた。あいすまぬことながら、私は、総長の言葉に深き感激を覚えず、むしろただ己れの不運を感じてか、自分で自分を慰撫するような気持ちのみが動いていた――戦史においてのみ、それも外国の戦史においてのみ読んだり聞いたりした敗戦の軍使、私はその任にあてられたのだ。
 右の乾杯の後参謀本部において、第一、第二部および軍務局の部局長以下の関係者が集合し、主として、敵側第一次進駐部隊を何日頃に引き受け得るかを検討した。各部の受け持ち事項を中心に検討を進めた結果、まず十日の余裕を求むるよう折衝すべきだという空気であった。関東地方における軍隊の撤去、これに代うるのに警察力をもってする配置等々、現在の荒廃状態において短時日の間になしとげがたいことはよくわかる。若手の連中の一同も、故意に感情的に敵側の進駐を遅れさせようとする気持ちを持っていないことは明らかであり、整斉と事を進めようとする趣旨で各種の提案をしていることは私にもよくわかるが、勝利感の絶頂にある敵側が、果たしてそうした日本側の事情を斟酌〈シンシャク〉してわれわれの側の希望を受け入れるかどうか、第一、私および随員をして果たしてわれわれの自発的の発言を許すかどうか、既にわれわれは「休戦の談判」を放棄してしまっているのだ。それはこの一週間ばかりの経過が示している。それ故私自身は、この会議の論争や発言者の意見や希望をききはしたが、いっさいは現場に臨んで敵側の態度に即応して善処するつもりで腹をきめていた。
 さすがに部局長級の人々はこの辺のわきまえが正しく、若手の発言おおむね終わる頃を見計い、 吉積〔正雄〕軍務局長は、〝われわれの希望や注文を敵側に提示し得るならば幸いであるが、河辺中将一行は、ややもすれば現場で一言半句の発言も許されず、ただ命令を無言で受けとって、そのまま帰って行けといわれるかも知れん。しかもそうなっても、われわれの現況はいかんとも度〈ド〉しがたい立場にあるのだ。その辺のところをわれわれは覚悟しておらねばならぬだろう〟といった。宮崎〔周一〕第一部長もまた、軍務局長につづき、〝そのとおりだと思うのだ。われわれ側の事情を詳知している一行に然るべくやってもらうというほかないんだ〟との意味で、例の如き語調できめつけた。
 かくて話はなごやかに進み、〝よろしくどうぞ〟というところで終わった。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2021・8・25

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連合国最高司令官の許に使者を派遣せよ(米国政府)

2021-08-24 01:51:11 | コラムと名言

◎連合国最高司令官の許に使者を派遣せよ(米国政府)

 ここで、「マニラ使節」(降伏使節団)の話に戻る。
 本日以降、河辺虎四郎著『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』(時事通信社、一九六二)から、第五章「大東亜戦争」の第六節「マニラへの使節」を紹介してゆきたい。同書の著者・河辺虎四郎(かわべ・とらしろう)は、敗戦時の参謀次長・陸軍中将で、「マニラ使節団」の団長を務めた(一八九〇~一九六〇)。
 なお、同節の末尾、「不時着事件」のところは、今月三日および四日に、当ブログで紹介済みである。

    第六節 マニラへの使節

 使節きまるまで
 八月十六日米国政府からつぎの要旨の通告が電報された。
《A 直ちに連合国最高司令官の許に使者(複数)を派遣せよ。この使者はつぎの諸要件を備えなければならぬ。
  a 日本軍隊および司令官(複数)の配置に関する情報を持つこと。
  b 連合国最高司令官およびその同行する軍隊が、正式降伏受理のため、連合国最高司令官の指示する地点に到着し得るよう、連合国最高司令官の指令する打ち合わせをなすべき十分の権限が与えられてあること。
 B 降伏の受理およびこれが実施のため、ダグラス・マッカーサー元帥が連合国最高司令官に任命せられた。同元帥は正式降伏の時、場所およびその他詳細事項に関して、日本政府に通報するであろう。》
 別に連合国最高司令官の名をもって、日本国天皇、日本国政府および日本国大本営宛として、つぎの趣旨の通告が送られた。(飛行の技術上の細部省略)
《連合国最高司令官は、日本国政府に対し、フィリピン・マニラ市にある連合国最高司令官の司令部に、日 本国天皇、日本国政府、日本国大本営の名において、降伏条件を遂行するため必要なる諸要求を受領するの権限を有する代表者を派遣することを命ずる。
 右代表者は、到着とともに、連合国最高司令官の要求を受領するの権限が与えられていることの天皇の証明文書を、連合国最高司令官に提出しなければならぬ。
 右代表者は、日本国陸軍、日本国海軍および日本国空軍をそれぞれ代表する権限ある顧問を帯同するものとす。
 前記代表一行の安全航行の手筈は、つぎのように定められる。
 右一行は日本飛行機により、伊江島の飛行場にいたり、同地より米国の飛行機によりフィリピン・マニラに輸送せられるものとす。右一行の日本への帰還も、同様の方法によるものとす。
 右一行の飛行機は一九四五年八月十七日東京時間午前八時より十一時の間に九州佐多岬の線を出発するものとす。》
 この日、以上の二つの敵側からの通告によって、マニラ行きの使節の選定が、当然当局者の問題となってきた。
 私は、この使節の任務が、降伏文書に調印する程度の高級な地位を要するものであるならば、陸軍側としては〔梅津美治郎〕参謀総長が、これに当たるのが妥当であろうと信じたので、自ら総長に意見を述べたが、なかなか引き受けようとの意志も表明されない。そこで、私は土肥原〔賢二〕大将および杉山〔元〕元帥に頼んで、総長の説得方尽力を求め、土肥原、杉山両大将も一応梅津総長を説いたが、総長はいろいろの理由で承知をしないのであった。だが、この使者の任務が、比較的軽易な事、たとえば正式調印日までの予備的行為の打ち合わせ、または書類伝達の如きであるならば、次長級ぐらいが適当であるかも知れない。そうなれば、かつて大西〔瀧治郎〕軍令部次長とも〝降参だけはしたくないものだ〟と語り合ったあの晩もあったが〝忍び難きを忍ばねばならぬ〟と詔書のお言葉をそのままに下僚に求めながら、口惜しいからなどとの感情で使命を回避する気にもなれない。いずれにせよ、明十七日の出 発は不可能であることを通告するとともに、使節の任務を明確にすることが必要だとされ、政府および大本営の名をもって、二つの電報が連合国最高司令官宛に発せられた。
 その一は、「‥‥八月十七日わが方代表者の飛行方を取り計ろうことは不可能なり‥‥直ちに必要な準備に着手する‥‥派遣期日は追って通告する‥‥」の意であり、その二は、使節の任務について二方面の通告の間に差異あることを指摘し、「委任状ニ差異アル故、何レカ明確ニセンコトヲ希望ス」との意を含めた通電(第四号)であった。
 十七日午後、連合国最高司令官発で、大本営宛つぎの趣旨の電報が来た。
《八月十六日付貴電第四号に関し、降服条項に署名することが、マニラに派遣せらるべき日本代表の任務に含まれおらずと憶測せられたるは正確である。本司令部よりの指令は明瞭にしてこれ以上遅滞することなく応ぜらるべきである。》
 右の文意でも窺われる如く、先方では、日本側がなんとか押問答をして、使節の派遣を遅らせようかと、ないしは何事か小策を弄するものと解釈するかも知れんとわれわれは考慮した。
 前記の敵側の回答によってマニラへ使節の立場が明らかとなり、かねて陸軍省側で使節団の人員選考の仕事に従っていた永井八津次〈ヤツジ〉少将が私の意向をたずねに来た。私は即座に〝上司が私でよろしいといわれるなら行きます〟と答えた。
 随員の選定については、先方の要請条件もあり、陸軍は陸軍省および参謀本部から適任者を出すこととし、海軍側及び外務側からも適当な随員を選定してもらうこととした。
 十七日夕刻にいたりつぎの趣旨の電報を連合国最高司令官に宛てて発せられた。
《(第七号)
 わが方のマニラに赴くべき代表の人選決定した‥‥八月十九日東京出発の予定‥‥詳細追報》
 八月十八日朝までに、陸軍側の随員選考漸く確定した。それまでに一部の人が私を相当にてこずらせたのであったが、結局つぎの七名が行くこととなった。
  天野〔正一〕少将(第二課長) 山本〔新〕大佐(第六課長) 松田〔正雄〕中佐(第二課、航空)
  南〔清志〕中佐(軍事課)  高倉〔盛雄〕中佐(軍務課)
  大竹〔貞雄〕少尉および竹内〔春海〕少尉(ともに通訳要員として第二部より) 【以下、次回】

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近衛のやり口はいつもそれだ(木戸幸一)

2021-08-23 01:31:15 | コラムと名言

◎近衛のやり口はいつもそれだ(木戸幸一)

 富田健治著『敗戦日本の内側――近衛公の思い出』(古今書院、一九六二)から、「(四三)八月十五日直後の政局」の章を紹介している。本日は、その四回目(最後)。

 近衛公の東久邇宮内閣における地位は必ずしも愉快なものでなかった。総理宮〈ソウリノミヤ〉と仲はよくいっていたようであるが、総理側近の一部では、近衛追出しの策動をやっている者もあるとさえ言われていたし、一方、新聞の論説などにも、例えば、九月二十一日付朝日新聞でも社説で近衛攻撃をやるし、議会でも斉藤隆夫、川崎克〈カツ〉氏らが、しきりに近衛攻撃をやることになった。もっとも、これらの中には宇垣〔一成〕大将かつぎ出しのため、その邪魔になる近衛をたゝけという意図の者も多かったことは事実のようである。
 一方近衛公を中心として新政党を組織しようという動きも活発になってきた。これには主として政党関係者が多かった。私も東久邇内閣は、とても長くもたない、そこで近衛公が新党を作って、内閣首班となり、時局を収拾しなければならないと思う。又これは近衛公にとって、前の大政翼賛会の失敗に対する懺悔でもあると思うと進言したことであった。又私は当時漸く政界上層部に総司令部からの戦犯指定の嵐が吹きつけていた際でもあるし、近衛公が総理になっていたなら、中国などから、戦犯として引渡しを要求してくるようなことがあっても、これを阻止できるだろうとも、今から思えば、甘いことを、心中考えていたのであった。ところが近衛公は私のこの進言に対して、案外真剣になって、『私もそのことは考えているが、木戸〔幸一〕の意見を聞いて欲しい。木戸に反対されては駄目ですから』ということであった。
 そこで私が木戸内府にこのことを話に行ったところ、木戸さんは『近衛のやり口はいつもそれだ。自分が本当にやる気なら僕の意見に拘らずやったらいゝじゃないか。併し新党を作っても、翼賛会の時と同様、恐らくすぐ厭や気がさして又逃げ出すのではないか、今度そんなことをやったら生命もありませんぞ、自分は近衛のやり方には、どうも信用できぬからその意味で反対です』と言われた。そこで私は『今までと違って、今度は生きるか死ぬか、逮捕されるかどうかというギリギリの問題だからして、今迄のようないゝ加減のことではないと思います。公爵自身も相当決意されていると信じています』と述べたが、終に〈ツイニ〉木戸内府の同意を得られないまゝ、私は帰って、このことを近衛公にその通り報告すると共に、私も『木戸侯の言は必ずしも不当とは思えない。確かにそんな所が近衛公にはあった。併し今日の時局は許されません。あなたが、ためらっておられるなら、時局があなたを押しつぶして進んで行くでしょう。今日は逃避は許されませんぞ』と強く直言したことであったが、近衛公は『私も時局の重大性は充分認めています。併し今私への責任論、攻撃が強い時に、新党を作ったり、首相になったり出来るかどうかです。今暫らく考えさせて下さい』ということであって、近衛公の態度は真剣であったと私は今でも信じている。
 十月四日近衛公はマッカーサー元帥を訪うて〈オトノウテ〉二度目の会見をした。予め打ち合わせた時刻に総司令部を訪ねたところ『元帥は会えないから、代りにサザーランド参謀長と会談されたい』ということであつたが、約二十分後、案内されて室に入るとやはり、元帥と参謀長並にアチソン政治顧問とがいた。そこで近衛公は、前に第一回お眼にかかった時は、意を尽し得なかったので、今日は時間を頂いて充分お話したいと前おきして、準備していた近衛公の所信を充分に披瀝し、これに対し、マッカーサー元帥も「有益で参考になった」と喜んだが、これと同時に、マッカーサー総司令官は、日本の憲法改正に対する強い確い〈カタイ〉意志を持っていることが明瞭となり、これが、当時の我が明治憲法改正の緒口〈イトグチ〉ともなったので、項を改め次に詳述したいと思う。

 ここで富田は、近衛文麿という人物に対する、木戸幸一の厳しい批評を紹介しているが、おそらく富田自身も、木戸の近衛評に共感するところがあったはずである。
『敗戦日本の内側』の紹介は、ここまでとし、次回は、「マニラ使節」の話に戻る。

*このブログの人気記事 2021・8・23(10位に極めて珍しいものが入っています)

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日本軍閥の外形は破壊した(マッカーサー元帥)

2021-08-22 03:54:02 | コラムと名言

◎日本軍閥の外形は破壊した(マッカーサー元帥)

 富田健治著『敗戦日本の内側――近衛公の思い出』(古今書院、一九六二)から、「(四三)八月十五日直後の政局」の章を紹介している。本日は、その三回目。

 八月二十八日、米軍の先遣隊が厚木に進駐し、マッカーサー元帥も三十日到着した。次で〈ツイデ〉九月二日には東京湾で、米艦ミズリー号上、降伏文書への調印が行なわれた。この間我国内各地に不穏な行動もあり、諸所に自刃沙汰も多かった。軍部内の反抗も噂されたが、何れも大したことにはならなかった。これは、結局、天皇陛下に対する国民の絶対信頼があったからで、終戦されたのも天皇、終戰後の流血の大悲惨事を見なかったのも天皇の偏えに〈ヒトエニ〉おかげであるといえよう。
 九月四日臨時国会開会、九月十一日極東軍総司令部は東条英機等三十九名を戦争犯罪者として逮捕、東条氏はピストル自殺を図って失敗、小泉〔親彦〕元厚相(陸軍軍医中将)並〈ナラビニ〉橋田〔邦彦〕元文相は自決、翌十二日杉山〔元〕元帥も自決した。
 九月十三日、総司令部は第二回目の戦犯容疑者を発表し、緒方竹虎内閣書記官長もこの中に含まれていた。これは一時保留となったが、今後続々戦犯の発表があるようでは、内閣の構成員にも及ぶ恐れがあるということで、内閣は早くも難関に直面するようになった。近衛公は九月十三日夕五時、マッカーサー元帥を横浜税関の建物に訪ねた。通訳が下手であったため、余り具体的な話もできず、約一時間の会談で、元帥だけの話を聞くことに終ったが、席上元帥は日本軍閥の外形は破壊したから、近衛公らがその内実を破壊する任務があるとし、日本軍閥に対し非常な嫌悪を示したのであった。
 又政府と総司令部との連絡事務につき、種々非難があり、これが重光〔葵〕外相非難となってきた。そこで緒方書記官長が、この連絡事務局を内閣に置く案を作ったところ外相はこれに反対し、遂に九月十七日、外相辞任ということになった。そしてその後任に吉田茂氏が就任することになった。吉田外相実現については、近衛公並に小畑〔敏四郎〕国務大臣の推挙が非常に力強く動いたことはいう迄もない。吉田外相就任数日後、私が吉田さんにお逢いしたら、吉田さんは『私に外相就任の文渉があったので、極力、私は幣原〔喜重郎〕氏を推した。がどうしてもということだったので、私は幣原氏を実質上の外相として、私はその下の外務次官のつもりで、万事、幣原外交で行くという条件の下に、引きうけたのです』とのことであった。その後私が臥床中の原田熊雄氏を大磯の邸に訪ねたところ、非常に吉田外相実現を喜ばれると共に『吉田の奴、外務大臣なんて勤まるかしら。我まま者で政治家という型ではない、君もどうか吉田を外から援けてやって下さいよ。頼みますよ』と例によって涙を眼にためながら、美しい友情を示されたことを私は憶えている。【以下、次回】

 原田熊雄(一八八八~一九四六)は、最後の元老・西園寺公望の私設秘書として知られる。近衛文麿、木戸幸一とは、京都帝国大学における同級生。

*このブログの人気記事 2021・8・22

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